ありのままの君でいて 主人の部屋の扉を前に、フェネスは重苦しいため息を落とした。この部屋を、こんなに暗い気持ちで訪うのは、悪魔執事となってからの三百年で初めてのことかもしれない。
フェネスは今日一日、依頼で不在のハウレスに変わって、主人の担当執事を務めることになっていた。
平生であれば、主人の手伝いをする担当の日は、眩いほどの幸福に満ちている。この日だけは、誰に憚ることなく、無条件で主人の傍にいられるからだ。この屋敷に住む執事たちは皆、主の担当を務めたがっていて、だから担当執事はローテーション制となっていた。
順番が回ってくるのは、おおよそ半月に一度ほど。多くの者と同様、フェネスはその日が来るのを指折り数えて待ち焦がれている。
だから本来であれば、代理とはいえ担当執事の番が回ってきたことを喜ぶべきなのだ。そうできないのは、ハウレスの代わりだという事実が、プレッシャーとしてフェネスの背に重くのしかかっているからだった。
私生活における家事能力の低さはさておき、執事として、ハウレスの仕事ぶりは完璧だ。彼と同じように主人の手伝いができるだろうかと考えると、胃の腑がしくしくと痛むような心地がする。
とはいえ、いつまでも扉の前でぐずぐずしているわけにはいかない。フェネスは心を落ち着けるために深呼吸をしてから、ドアをノックした。
「どうぞ」
「……失礼します」
応答を待って、フェネスは主人の寝室へ足を踏み入れた。部屋の主はすでに身支度を済ませ、ゆったりと椅子に腰掛けて寛いでいた。
「おはよう、フェネス。今日は一日、よろしくね」
「おはようございます、主様。こちらこそ、よろしくお願いします。ハウレスと同じようにはできないかもしれませんが、精一杯お手伝いいたします」
言いながら、フェネスはさっそく自己嫌悪に苛まれた。自信がないからといって、最初から保険をかけるような物言いをするのは卑怯だろう。やっぱり俺なんかじゃ……と、いつもの卑屈に陥りそうになって、ぎゅっと奥歯を噛み締める。
一方の主人はというと、フェネスの言葉にきょとりと目を瞬かせたあと、悲しげに眉尻を下げていた。
「あの、フェネス……」
「は、はい!」
名を呼ばれ、内心の葛藤から主人へ意識を切り替えたフェネスは、そこでようやく彼女が落ち込んだ様子であることに気づいた。
「あ、主様? どうかしましたか? もしかして、お加減が優れないのでは……」
慌てて矢継ぎ早に問いかけるけれど、主人はどの質問にも首を横に振った。医療担当のルカスに診てもらうべきかとフェネスが悩み始めたころ、彼女はようやく理由を口にした。
「ねえ、フェネス。私……もしかしたらあなたに酷い勘違いをさせて、傷つけてしまったのかも……」
「えっ?」
言われた内容は思いもよらないことで、残念ながらフェネスには理解が及ばなかった。
「あの、それは、どういう……?」
「私、フェネスに……ハウレスやほかの誰かの代わりになってもらおうだなんて、思ったことないよ。今回も、そういうつもりでお願いしたわけじゃない」
「あ……」
主人は、フェネスが自分に自信を持てないことも、ほかの執事たち――とりわけ同室であるハウレスやボスキに対して劣等感を抱いていることも、知っている。
だから、今回のことがフェネスのコンプレックスを刺激して、自尊心を傷つけてしまったのではないか、と。そう考えて、心を痛めてくれたのだろう。フェネスの主人はそういう、優しいひとなのだ。
「フェネスは、フェネスらしく仕事をすればいいんだよ。ハウレスと同じようにする必要なんてない。ハウレスもボスキも、ほかの誰も、フェネスと同じようにはできないんだから。"みんな違って、みんないい"、だよ」
――フェネスには、フェネスのいいところがある。
フェネスが自己嫌悪に陥るたび、仲間たちはそう言ってくれるけれど、彼はその言葉を素直に受け入れられた試しがなかった。一つ、二つ、長所があったとして、自分が劣っていることに変わりはないと、そんなふうに考えてしまうのだ。
けれど今、主人がくれた言葉は、不思議とすんなりフェネスの心に染み込んでいった。みんな違って、みんないい。それは自分の短所ばかりを数えてしまう、ありのままのフェネスを認め、赦してくれる言葉だった。
「……素敵な言葉ですね」
「そうでしょう? 私の好きな詩人の言葉なんだよ」
自慢げに言って、主人は一編の詩を諳んじた。リズムに乗って歌うように紡がれる声は心地よく耳に馴染み、ずっと聞いていたい心地になる。
「あのね、フェネス」
暗誦を終えた主人がちょいちょいと手招きをするので、フェネスは膝を折って傍へ寄った。彼女は口元に手を添えて、まるで内緒話でもするかのように声を潜める。
「昨日ハウレスから、明日は留守にするから誰かに代わりをって言われたとき、フェネスを指名したのは私なんだよ」
「え……」
「フェネスに手伝ってもらいたいことがあるんだ。力を貸してくれる?」
嗚呼――フェネスは思わず感嘆を漏らした。全く、このひとには敵わない。そんなふうに言われたら。彼女がフェネスの力を必要として、認めてくれるのであれば。いつか、そう遠くはない未来に、自分自身に胸を張れる日がやってくるのかもしれない。そんなふうに思える。
「もちろんです。俺にできることがあるなら、なんでも言ってください」
恭しく答えたフェネスの表情は、晴々としていた。