災いの烙印、あるいは幸福の刻印 見ないようにと意識すればするほど、そちらへ目が吸い寄せられてしまうのは、一体どういうわけなんだろう。
ユーハンが腕を動かすたび、ちらちらと視界を過ぎるそれを、私の目は追いかけてしまう。彼の体に刻まれた、丸い形の紋章。悪魔と契約した証だ。
「主様、どうかなさいましたか?」
袖のない運動着を着ているせいで、ユーハンの二の腕はむき出しになっている。普段は服の下に隠れている紋章を見つめながら思考に没頭していた私は、心配そうに顔を覗き込んでくるユーハンに、思わず身を仰け反らせた。
近い。すぐ傍で、彼の顔半分を隠す長い前髪が揺れている。滴るような黒色に朱の混じる不思議な色彩は、暗闇で踊る炎のようだ。
「ごめん、大丈夫。だから……ちょっと離れてほしいかな……」
「おっと、これは失礼いたしました」
距離の近さに気づいたユーハンが後退する。
「その、お声がけしても反応がなかったものですから。どこかお加減が悪いのですか? もしそうであるら、今日の体操は、この辺りで切り上げてはいかがでしょう?」
提案するユーハンは、心配そうな態度を変えない。普段あまり感情を読み取らせてくれない独特な形の眉も、今は八の字を描いているように見える。
「体調は、本当に大丈夫。ただ少し、考えごとをしちゃって……体操、つきあってもらってるのに集中できなくて、ごめん」
別邸の執事たちは、仕事の分担が決まっているわけではない。でも、いつも本邸の執事たちを手伝って忙しそうにしている。自分の鍛錬だってあるだろう。
ユーハンの貴重な時間を、無駄にしてしまった。申し訳ない気持ちで頭を下げると、彼は慌てたように言った。
「あ、主様、どうか頭を上げてください! 主様が謝られることなど、なにもございません。気がそぞろになってしまうことは、誰にでもありますから」
「ユーハンも?」
「……はい。お恥ずかしながら」
「……そっか」
ユーハンが集中を欠いている姿は、あまり想像できなかった。だが本人が言うのだから、そういうときもあるのだろう。
少しホッとした拍子に、表情が緩む。応えるように、ユーハンも艶やかな笑みを返してくれた。
私は結局、体操を切り上げることにした。再開したところで、きっと私は腕の紋章に気を取られて、集中できないだろう。
時は金なり。せっかく時間を割いてもらうのなら、有意義に使うべきだ。
紋章が気になってしまうのは、心に引っかかっていることがあるから。私は思い切って、それをユーハンに訊ねてみることにした。
「……ユーハンの紋章は、腕にあるんだね」
「え? ええ、そうですね」
頷くと、ユーハンは左腕を胸の前に掲げた。紋章が見やすいようにしてくれたのだろう。
「私が主様の執事であることを示す、大切なものです」
長くしなやかな指が、肌に刻まれた印を撫でる。愛おしいものに触れるような、優しげな手つきだった。
「……悪魔と契約したことを、ユーハンは怖いと思わないの?」
「怖い、ですか?」
問い返されて、小さく頷く。だって、私は怖いから。
悪魔執事になることを、最終的に決めたのはユーハン自身だ。私は死の淵にあった彼の目前へ、その選択肢を差し出しただけ。
――本当に? 時折、心の中の自分が囁きかけてくる。忠義に厚いユーハンが、命の恩人である私の願いを退けられるものか、と。
ユーハンを助けに行ったこと自体は、後悔していない。でも、もしかしたら私は彼の可能性を狭めてしまったのではないか、と。そんな考えが、いつしか胸に刺さって、どうしても抜けなかった。
悪魔執事が過酷な状況で戦っていることを、あのときにはもう知っていたのに。茨蔦う道にユーハンを誘ったのが正しかったのか否か、私には自信がない。
「特に、怖いとは思いませんね」
しばらく思考を整理していたユーハンが、結論を口にした。長考のわりに、ずいぶんとあっさりした答えだった。
「主様がいらっしゃらなかったら、怖いと感じることもあったと思います。ですが、今の私たちには、主様がいてくださいますから」
「……私?」
肯うユーハンの瞳は、希望を描く明るい光を点している。
「主様がいてくださるおかげで、私たちは天使との戦いに悪魔の力を行使できます。魔導服の副作用も、主様が浄化してくださるので苦しまずに済んでいます。
あまつさえ、再び絶望に飲まれ悪魔化することがあっても、主様がこの世に引き止めてくださる。この状況で、なにを恐れる必要があるでしょう」
「それは……」
否定の材料が見当たらず、俯く。確かに現状は、ユーハンが語ったとおりだ。でも、私が言いたいのはそういうことではない。
上手く言葉に表せない。もっと直接聞けばいいのに、その勇気が出ない。歯がゆさに握りしめた拳を、ユーハンの両手がそっと包んだ。
大きな手のひらは、固くひんやりとしている。触れあった場所から筋肉質な腕を視線で辿ると、やがて紋章に行きついた。
悪魔と契約した証。そして、私の執事である証。
「とはいえ、私にも恐れることが全くないというわけではありませんよ」
私の執事が、艶然と笑む。私をドキドキさせようとしているときの、悪い顔だ。
「それがなにかは、主様はきっとご存知のことと思います」
「……そうだね」
身のうちに悪魔を宿すことさえ恐れぬユーハンが、恐れること。これまでの会話のあとで、察せぬわけはない。
私を、喪うこと。それ以外にないだろう。自惚れているようでいたたまれないので、声には出さなかった。
「主様。私は、あなたに出会いお仕えする今を、この上なく幸せに思っております。それをお忘れなきよう。……どうか、この先も末永く、お傍に仕えさせてくださいね」
「……うん」
見透かされている。後悔、罪悪感、恐怖、そのほか私がぐちゃぐちゃと考えていたこと、全てを。
その上で、今が幸せだと断言されてしまっては、私には頷く以外に術がなかった。
悔いたところで、過去には戻れない。だから、伸ばした手を離さないよう握りしめながら、前に進むしかないのだ。私も、ユーハンも。
傍にいる。いつか、私の命が尽きるときまで、ずっと。たぶん、それが彼の忠節へ報いる唯一の方法でもあるのだろう。