つかまえた「おーい、主様?」
思考の大海を漂っていた悪魔執事の主は、本日の担当を務めるカワカミ・ハナマルの呼びかけで我に返った。視界いっぱいに整った顔が飛び込んできて、彼女は思わず背を仰け反らせる。
こんなに近くまで来られても気づかなかったのかと、女は内心、自分自身に呆れてしまった。考え事に没頭すると周りが見えなくなってしまうのは、彼女の昔からの悪癖だ。しかしさすがに、ここまで近づかれても気がつかないというのは、今までになかった。
それだけこの屋敷が安心できる場所で、気を抜いて過ごしているということなのだろう。それがいいことなのか、悪いことなのかはさておき。
「主様ってば、このハナマル様が一緒にいるっていうのに、ほか事に浮気か〜? まったく、妬けちまうねえ」
ハナマルは、からかうようなセリフをニヤニヤした表情で言う。けれどそのくせ、瞳には不調を疑う心配そうな色を浮かべているのだから、器用なものだ。
「考えてたのは、ハナマルのことだよ」
「え……俺?」
「そう。……カワカミ・ハナマルという人間は、飄々としていて掴みどころがないように見えるけれど、それはもしかしたら、誰にも掴まえられないように、あえてそうしているのかもしれないなあって」
女の述懐を聞いて、ハナマルはなんとも言えない表情を浮かべた。そういう反応こそ、彼女に先述の感慨を抱かせた要因にほかならないのだが、そうとは知らない彼は、知らず知らず主人の推論の根拠を強化してしまう。
とぼけて、ぼやかして。そうして人物の輪郭を曖昧にしようとしているから、本質を言い当てられると戸惑ってしまうのではないのか。
「あなたは、喪う辛さや痛みを知っているひとだから。自分が死んでしまったとき、喪失感で苦しむひとがいなくて済むように、そういうふうにしているのかなあって考えてたの」
「……もし、そうだとしたら。主様は、どうするんだ?」
ずるい切り返しだなと思って、女は微笑んだ。肯定も否定もしない。相手に言質を与えない返答は、話の本質を煙に巻くことに慣れた人間のそれだ。
「私はねえ……もしもそうなら、私だけは、あなたを掴まえておきたいな」
悪魔との契約を終え、屋敷に帰ってきたハナマルは、女を指して「最初で最後の主様だ」と言った。死ぬまで守る、とも。どうすれば彼の決意に報いることができるだろうかと、考えない日はなかった。彼女はずっと探していた答えを、ようやく見つけた気分だった。
「そ、れは……随分とまあ、熱烈だな。まるでプロポーズみたいだ」
思いもよらない捉え方をされて、女は少しだけ焦った。だが、それを表に出してはハナマルの思う壷であると知っていたから、平静を貫く。
慌てず騒がず、冷静に。そうでなければ、せっかく掴みかけた輪郭が、また霧の向こうへ消えてしまう。
「でも、そうだな……」
女の虚勢は、どうやら成功したようだった。ハナマルは、降参だとばかりに肩を落として、小さく呟く。
「主様になら、いいのかもな。あんたになら、俺は……掴まっちまっても、いいよ」
「ハナマル……」
うん、と一つ頷いて、女は手を伸ばした。白の手袋に包まれたハナマルの片手を、両手でぎゅっと掴む。
「ふふ、掴まえた」
「ああ。……そのままずっと、掴まえといてくれ」
言いながら、空いた手を主人の両手に重ねるのだから、ハナマルのほうだって、彼女の元を離れるつもりは毛頭ないのだ。
誰にも見せたがらないハナマルという人物の本質を、確かに理解すること。そのせいで、いつか訪れる別れの日に、喪失感に苛まれるとしても、甘んじて受け入れよう。手袋越しに大きな手の温度を感じながら、女はそう思った。
なぜならそれは――この世で唯一、ハナマルが女だけに許した、特別なのだから。