甘やかなひみつ「ハウレス! グッドタイミングだよ!」
いつもの時刻に屋敷へやってきた主人は、出迎えたハウレスの顔を見るなりそう言って親指を立てた。
「寝室行ったら一旦あっちに戻るけど、すぐに帰ってくるから、コーヒーの用意をお願い。ポットで、カップは二つね!」
そう言って、彼女は階段を駆け上がっていく。
わけもわからぬまま、けれど主人の頼まれごとを放っておくわけにもいかない。ハウレスは言われたとおりにコーヒーを用意するべく、別邸にいるテディの元へ向かった。
紅茶ならばハウレスだって、ベリアンには及ばずとも、それなりに入れられる。それは、執事として長い時間を過ごす中で、身につけた技術だ。
だがコーヒーに関しては、最近勉強を始めたばかりで。コーヒー好きのテディが入れるものにはまだまだ敵わない。
主人が、実は紅茶と同じくらいコーヒーも好んで飲むということが判明したのは、コーヒー党のテディが悪魔執事の仲間になって以来だった。
「主様、いらっしゃいますか?」
「どうぞ、入って」
ポットにたっぷりのコーヒーと、カップとソーサーを二つずつ。ハウレスは指示されたとおりのものを携えて、主人の寝室を訪ねた。
応答を待って、ドアを開ける。ハウレスを迎え入れた主人は部屋着に着替えて、すっかり寛いだ様子だ。
「準備ありがとう! ……実はね、今日はハウレスにお土産を買ってきたんだよね」
主人は声を潜めた。ハウレスも自然、彼女に倣って声のボリュームを落とす。
「お土産、ですか?」
「そう! 見て!」
主人はテーブルに置いてあった白い箱を開いた。中に入っていたのは、チョコレートケーキだ。目を瞬かせるハウレスに、「チョコバナナケーキなんだよ」と弾んだ声がかかる。
「今週頑張ったご褒美と思って、帰りに駅前のケーキ屋さんに寄ったんだけどさ。そしたらこれがあって、見た瞬間、ハウレスはこれ絶対好きだと思ったんだよねえ。ちょうど最後の二個だったから、買っちゃった」
「俺がいただいて、よろしいのですか?」
「もちろん。というか、そうじゃないと私が二個食べることになるし……」
それはちょっとカロリー的に問題が……とっておくにも生菓子だし……と、主人はブツブツ呟いている。
ハウレスは心のまま、笑みを浮かべた。
「せっかくのご厚意ですから、ありがたく頂戴します。主様、ありがとうございます」
「よかった! うん、どういたしまして」
ハウレスはコーヒーをカップに注ぎ、主人の向かいに腰を下ろした。
彼女はウキウキした様子で、ケーキを紙皿に取り分けている。添えられた小さなスプーンは透明で、手に乗せても重さが感じられないほど軽い。どちらも、あちらの世界から持ってきたもののようだった。
「言ってくだされば、皿とカトラリーも用意しましたが……」
「だめだよ。それだと二人でケーキ食べたのがみんなにばれちゃう。……本当は、全員分買えたらいいんだけど、それは金銭的に厳しいからさ。このお土産のことは、みんなには内緒ね」
ケーキを包む透明なフィルムを剥がしていた主人は、そう言うと唇の前に人差し指を立てた。
――主様と、二人だけの秘密。
与えられたそれがあまりに甘美で、ハウレスは利き手で咄嗟に口元を覆った。執事として、だらしなく緩んだ唇を主人に見せるわけにはいかない。
「うん? どうかした?」
「いえ、その……申し訳ありません。今ちょっと、主様にお見せできる顔ではないので……」
「あはは! そんなに喜んでくれたなら、買ってきた甲斐があったなあ」
楽しげに笑った主人が、透明のスプーンですくったケーキを口へ運ぶ。それからコーヒーを一口。花のかんばせが、幸福そうにとろける。
「すごく美味しいよ! ハウレスも、ほら。クリームが溶けちゃう前に!」
「は、はい。いただきます」
小声で促され、ハウレスも慎重にスプーンを操る。使い慣れた金属製のものと違い、無色のカトラリーは力を込めたらすぐ壊れてしまいそうだ。
なんとか一欠片、口へと運ぶ。瞬間、濃厚なチョコ味のクリームとスポンジから、ナッツと洋酒の香りが広がった。そこに、バナナのまろやかな甘さが加わる。コーヒーとの相性も抜群だ。
「美味しいですね!」
「ね! 美味しいね」
和やかに会話を交わしながら、二人は夜のティータイムを楽しんだ。
ケーキと、大切なひとと過ごす時間とを味わいながら、とても贅沢な時間だなと、ハウレスは独り言ちた。
執事室へ戻ったら、この幸福なできごとを余すことなく日記に残そう、と。そんなことを考えていた。
ハウレスの日記より抜粋
『今日は、主様がお土産を買ってきてくださった。あちらのケーキ屋で見つけたという、チョコとバナナのケーキだ。
帰ってくるなり、コーヒーを二人分用意しろと言われたときは、何事かと思ったが……とても贅沢で、幸せな時間を過ごすことができた。
ケーキももちろん嬉しかったのだが……俺は正直、それ以上に、主様があのケーキを見て俺のことを思い出してくださったということが嬉しかった。
俺の好きなものを覚えてくださっている、というのもそうだが……あちらの世界でふとした瞬間に思い出していただけるほど、あの方の心の中に自分がいる、ということが、たまらなく……もちろん、執事としてはあまり相応しくない感情だということは、わかっているのだが……
他の執事たちには内緒、というのも……あまりに甘美な響きで思わず顔がにやけてしまった。主様が、ケーキに喜んでいると捉えてくださって助かった。
秘密、というのは、抱えているのが苦しいものだとばかり思っていたが……こんなに幸せな秘密なら大歓迎だ。
だが、俺はあまり隠し事が上手くないからな……せっかくの主様と二人だけの秘密が、他の執事たちにバレないように気をつけなければ……』