開花のためのプレリュード「私もなにか育ててみたいなあ」
アモンが主人の私室に飾る花を変えようと、瑞々しく咲いた庭の花を持っていたときのこと。その花たちを見た主人が、ぽつりと漏らした。
遠慮ばかりのアモンの主人が、執事たちの仕事を手伝う以外で自らなにかをやりたいと言い出すのは、とても珍しいことだった。幸運にも、彼女の希望を聞く栄誉に与ったアモンとしては、是が非でも叶えてやりたいところだ。
しかし、いくら本人の要望とはいえ、主人に土いじりをさせるのはいかがなものか。外で育てるのであれば、陽光に晒されるのは免れないし、虫だって出る。少し考えただけでも、多方面から反対をくらいそうだ。例えば日焼け対策にうるさい衣装係とか、虫嫌いのマナー指導係とか。
「うーん……主様がやりたいと仰るなら、オレとしては叶えて差し上げたいっすけど……。でも庭仕事って、結構重労働っすよ。日焼けするし、虫も出るし」
やめたほうがいいというのを、アモンは婉曲な言い回しで伝えた。普段の主人は、これくらい遠回しでもちゃんと察してくれるのだが、今回ばかりが気づかないフリを決め込む腹積もりらしい。
「私、虫もミミズも平気だよ。日焼けも、ちゃんと対策する。だからお願い、アモン。私もなにか育てたい。力を貸して」
上目遣いでそこまで言われてしまえば、アモンにはそれ以上拒否することはできなかった。
それから二人は、なにを育てるか、ほかの執事に反対された場合にどう対処するかなどを相談した。アモンが「なにか育てたい植物があるのか」と訊ねると、「とくに決まっていない」という答えが返ってきた。途中、なにか思いついたらしい主人が、野菜を育てるのはどうかと言い出したが、それはアモンが却下した。
花と野菜だったら、まだ花のほうがほかの面々から反対されにくいだろう。それが表向きの理由だ。だが実のところ、アモンはただ面白くないだけだった。
なにしろ主人が野菜を育てようと思いついた理由というのが、「自分の育てた野菜であれば、野菜嫌いや偏食家の執事たちも食べてくれるのではないか」というものだったからだ。
悩んだ末、アモンが用意したのはナデシコの種だった。春から初秋にかけて愛らしい花を咲かせるナデシコは、主人のイメージにぴったりだ。花言葉は「無邪気」そして「純愛」。もし主人から花をもらえるなら、愛の花言葉を持つものがいい。そんな若干の下心が隠されているというのは、アモンだけが知ることだった。
そして――記念すべき最初の作業の日がやってきた。
「今日はまず、種まきをするっすよ」
「はい、先生!」
元気よく返事をした主人は、完全防備の庭仕事スタイルだ。袖口を絞った長袖のブラウスに、長ズボン。後ろに日除けのついた麦わら帽子、足元は長靴で、両手に軍手をはめている。
衣装係は「主様の衣装なのに美しくない」と恨み言を言っていたが、主人の希望どおり、作業に適した服装を用意するあたりはやはりプロだ。アモンも負けてはいられない。
アモンはまずやり方を一通り説明した。それから、二人で一緒に作業をする。育苗ポットに土を入れて、そこに種を乗せ、薄く土を被せる。ジョウロで水をやったら完了だ。
「苗が大きくなるまでは、日陰に置いておくっす。毎朝の水やりを忘れないように気をつけてくださいっす」
「うん、わかった」
主人は非常に良い生徒だった。作業中はアモンの言うことをしっかり聞いて、勝手なことはしない。種をまいた翌日からは、言われたとおりに毎朝必ず苗に水をやり、様子を観察して育成記録までつけている。
その育成記録は、アモンが書くときもあった。主人が仕事の関係で朝早く出かけるときや、屋敷に戻ってこられないときなどは、アモンが代わりに水をやり、記録をつけた。
アモンは育成記録ノートを読み返すのが好きだった。主人の字と、ところどころアモンの字の綴られたノートは、まるで二人だけの秘密の交換日記のようで、えも言われぬ特別感がある。
ある日の朝のこと。
「アモン! アモン、来て!」
苗のそばで自分の仕事をしていたアモンのもとに、ジョウロ片手に主人が駆け寄ってきた。彼女は頬を紅潮させて、興奮した様子だ。
腕を引かれ、連れてこられたのは苗のところだった。昨日まで土が入っているだけだったポットのいくつかに、ぽつりぽつりと小さな芽が出ている。
「発芽したんすね! おめでとうございますっす。主様が毎日かかさずお世話をしたからっすね」
「アモンが丁寧に教えてくれたからだよ。ありがとう!」
興奮も冷めやらぬまま、主人はアモンの両手を握って、ぶんぶんと上下に振る。芽が出ただけで全身に喜びを漲らせる彼女の無邪気さが愛おしい。花が咲いた日には、一体どれほど喜ぶのだろうと想像しながら、アモンは先生らしい態度で言った。
「主様、喜ぶのは早いっすよ。花が咲くまで、道のりはまだ長いんすからね」
「あっ……そ、そうだよね。むしろここからが本番かあ」
「そのとおりっすね。春になったら、花壇に植え替えをしましょう。花壇の準備は重労働っすよ」
どんな花の苗でもそうだが、植え替えの前に、花壇の土をその花に適した土へと改良してやらなければらない。ナデシコの場合には、土に腐葉土や軽石を混ぜて、水はけのよい状態にする必要がある。大きなスコップで土をかき混ぜるのは、庭仕事に慣れたアモンにとってもなかなか大変な作業だ。
「頑張るよ。私が育てたいって言ったんだもん。大変な作業はアモンにお任せで楽しい作業だけやるなんて、そんな無責任なことしたくないから」
その言葉を聞いて、アモンには満開を迎えたナデシコの花壇が見えた気がした。主人の愛情を受けて、この苗たちはきっと美しく育つだろう。
植物は、愛情をかければかけただけ応えてくれる。日頃から花の世話をしているアモンは、そのことをよく知っていた。
「さあ、今日はいよいよ、植え替え作業っすよ!」
「はい、先生!」
秋の初めに種まきをしてから、すでに半年が経過していた。この間に、アモンは主人から「先生」と呼ばれることにすっかり慣れてしまっていた。
主人はいつもの完全防備スタイルだ。春先とはいえまだ寒さが残るため、その上から、動きやすく汚れの付きにくい素材のケープを羽織っている。
花壇のほうは先週末に、すっかり準備を終えていた。時期の終わった花を抜き、土を足して改良を加え、肥料も混ぜ込んだ。かつてアモンが言ったように、なかなかの重労働だったが、主人は文句も言わずに取り組んでいた。
正直なところ、彼女は途中で庭仕事に飽きるだろうと、アモンは思っていた。しかし、汗を流しながら働く彼女の姿を見て、認識を改めることになった。
このひとは、目の前のいのちと真摯に向き合う人なのだ、と。そして、自分が心のどこかで未だ主人を信じきれずにいたことを、突きつけられた気分だった。
「こうやって、苗の肩の部分が一センチくらい外に出るようにして植えるんす。苗と苗の間隔は、苗一つ分くらい空けてください」
「わかった。やってみるね」
主人は小さなスコップで、さくさくと土を掘り返した。言われたとおりに苗を置いて土を被せ、これでいいかと問うようにアモンを振り仰ぐ。
「うん、大丈夫そうっすね。その調子で、どんどん植えていきましょう!」
「うん!」
苦い気持ちは飲み干して、ニコリと笑みを返す。アモンの微妙な心情は、主人には気づかれなかったようだ。彼女は黙々と作業を進めていく。やがて花壇の一角に、二人で育てたナデシコの苗が均等に並んだ。水やりをしたら、今日の作業は完了だ。
「ナデシコは乾いた状態のほうが好きなんで、水やりは土が乾いて一日、二日経ってからたっぷりあげるようにしてくださいっす。あとは、根元にかけるようにするのもポイントっすね。葉にかかると、どうしても蒸れちゃうんで」
「なるほど……」
「肥料もこまめにあげる必要があるんすけど、それは次の作業のときに説明するっすね」
「うん。引き続きよろしくね、先生」
そうして主人は、改めてナデシコの花壇を見渡した。彼女は愛しいものを見つめる表情をしていた。なんとなく見ていられなくて、アモンも主人に倣って花壇を見やる。
植え替えに適した気温になるまで待ったため、まだ小さな苗には、すでにちらほらと花がついている。みるみるうちに株が成長して、春の盛りには一面が可愛らしい花で覆われるだろう。
「ねえ、アモン」
「はい、主様」
花のような笑顔とは、きっとこの方の笑顔のためにある言葉だろう。思いながら、アモンは晴れ晴れとしたかんばせを、眩しげに見つめた。
「ここの花が満開になったらさ、二人でお花見しようよ。お花見っていうか、お疲れ様会っていうか」
「いいっすね! ロノに頼んで料理を用意して……って、そうするとほかの執事たちも参加したがりそうっすね」
「確かに……じゃあ、内緒でやろう。食べ物とかは、外で買ってくればいいよね」
「そうっすね」
肯定したものの、アモンは内心、勘のいい数人は気づきそうだなと思った。だが、そういう者たちならば主人の望みを邪魔立てするような無粋はしないだろう。内緒で、二人で、と。言い出したのは主人のほうなのだから。
「じゃあ、花がキレイに咲くように、これからもお世話を頑張らないとっすね」
「うん! 私、頑張るよ」
主人は細い腕に力こぶを作る振りをする。自然と口許が綻んでしまうのは、それがあまりに可愛らしいからだ。
種をまいて、水をやって、広い場所へ植え替えて。主人とともに花を育てながら、たぶんアモンの中でも、特別な感情が育っていた。ナデシコの花が満開になるころには、アモンの気持ちも花開くのだろうか。
純愛の意味を持つ花のつぼみは、開花の瞬間を待ち望んでいる。