花を贈る人 数日ごとに来店し、花を買っていく若い男性客がいた。
花は決して安い買い物ではない。その頻度だけでも記憶に残りやすいが、なによりも私の胸に焼き付いていたのは、彼が醸し出していた雰囲気だった。
彼は清潔感のある身目よい青年だったけれど、いつもこわばった翳のある表情をしていて、顔色もあまりよくなかった。見た目どおりに礼儀正しい人で、私や他の店員と言葉を交わすときだけは笑みらしきものを浮かべるものの、会話が終わればまた思い詰めた表情に戻ってしまう。受け取った花を見下ろす彼の目には、底知れない絶望が浮かんでいるように見えた。
事情は少しだけ知っていた。彼が初めて来店したときに、「お見舞い用の花はありますか」と訊かれたからだ。どうやら彼の妹が入院しているらしく、少しでも病室を華やかにしたいとのことだった。そのときに、たとえ差し色であっても、赤色や赤みを帯びたものは絶対に入れないでほしいとも言われた。そう要望を出したときの彼の声は、少しふるえていた。
店員としては下世話であることは承知しつつも、私はどうしても彼のことが気にかかっていた。日に日に色を失ってゆく彼の顔色に、妹さんの状態を察してしまったからだ。加えて、来店する彼がいつも一人であることも、心配になる要素のひとつだった。
どうやら同僚や店長も同じことを考えていたようで、休憩時間のちょっとした雑談のなかで、「あの子だいじょうぶかしら」と心配の声があがるくらいには印象深く、また、心を揺さぶられる青年だった。
そんな彼の来店が、八月の終わりにぱたりと途絶えた。考えられる可能性はいくつかあったけれど、最後に見た彼の顔つきを思いだせば、どうしても悪い方向にばかり想像を走らせてしまう。私たちはしばらく、閉店後の後片付けをしながら「今日もあの子は来なかった」と顔を見合わせてため息を吐く日々を過ごした。
いつまでも夏が続いているような暑さにも、やがてふとした瞬間にひやりと涼しい空気が入り混じるようになる。その頃になると、私たちのあいだには、彼はもう来ないだろうとの諦めが生まれていた。どれほど彼に友好的な感情を抱き、心配に胸を痛めようとも、彼について顔と声くらいしか知らない私たちにできることなど、ほとんど何もありはしない。
どうかこの想像が間違っていますように、そうでないなら、せめて少しでも早く彼の傷が癒えますように、誰かが彼の傍にいてくれますようにと話したのを最後に、私たちは彼の話題を口に出さなくなった。そして、少しずつ彼のことを忘れていった。
秋も終わりに近づいた頃、カウンターでレジの釣銭を補充していた私は、覚えのある声を耳にした気がして、はっと顔をあげた。そして、目を見開いた。
店の入り口に、あの青年がいた。彼は一人ではなかった。
「オレに花なんかガラじゃねえって」
「うん、僕もそう思うんだけど」
「おいおい暁人くんよ。だったら何でオレを連れてきた?」
「だってせっかくの誕生日だよ? お祝いしなきゃ」
「この年で祝われてもなあ……」
「え、じゃあせっかく作った御馳走もいらないの?」
「それはいる」
壮年、あるいは中年に差し掛かったくらいだろうか。連れ合い男性のなんとも調子のよい即答に、青年が声をたてて笑った。弾けるような笑みだった。ほんの数か月前まで、今にも死にそうな顔で花を買い求めていた彼と同一人物だとは思えないくらいの。
ああでもない、こうでもないと小気味よく言葉を交わし合う彼らの声は、決して大きくはないのによく通った。二人の楽しげな笑い声に鼓膜を揺さぶられて、鼻の奥がつんと痛んだ。
日々の生活と労働に追われるなかで、青年のことなどもうほとんど思いださなくなっていたのに、我ながら現金なものだと思う。それでも、お腹の底から湧きあがってくる温かな感情に、私の身体は大きくふるえた。
「十一月十六日の誕生花は、〝クリスマスローズ〟、〝赤い山茶花〟、〝クローバー〟なんだって」
「なんだよ、その誕生花ってのは?」
「生まれた日にちなんだ花のことだよ」
必死に調べたのだろう。スマホを片手にすぐ後ろの壮年男性を振り返る青年の声は、得意げに弾んでいる。壮年男性も、口先ではなんだかんだ言いつつも、実際は満更でもないらしく、優しい目で青年を見返していた。
「このなかで一番KKのイメージに近いのは山茶花かなぁ? クリスマスローズはおしゃれすぎるし、クローバーは可愛すぎるし」
「山茶花は草じゃなくて木だろ。花屋にあるのかよ」
「だから、それを今から店員さんに訊くんだろ」
呆れたように答えた青年がぐるりと店内を見まわし、カウンターにいる私を見つけてほほ笑んだ。無理に表情を動かしたものではない、ごくごく自然な動作だった。
「すみません。ちょっとお伺いしたいのですが……」
「はい。なんでもどうぞ」
レジを閉めてカウンターから店に出ながら、私は胸のうちで何度もよかったと繰り返していた。
彼の妹がどうなったのか、私には分からない。回復したのかもしれないし、そうではないのかもしれない。どうか良くなっていてほしいと思うけれど、そうでなくても、きっと大丈夫だ。
あのときの青年がこんなふうに笑って、贈りたい花を自ら考えられる相手がいるのだから。そして、こんなふうに温かな眼差しを青年に贈る相手がいるのだから。
「赤い山茶花の花束ってありますか?」
「そうですね、残念ながら花束としてはご提供できませんが、鉢植えは取り扱いがございます」
「あ、それじゃあ……」
あの夏の日と同じように、けれど、まったく違う感情で、私は青年の要望に心をこめて耳を傾けた。