君とならできる あんたならどうするかな。
そんなことをよく考える。おかしいよね。何かあったときに真っ先に思いうかべるのが、家族でも友人でもない、たった一晩知りあっただけの、名前すら知らない男の人だなんてさ。しかも、あんたはとっくに死んでて、顔も声も、もうおぼろげにしか思い出せないのに。
『大丈夫だ。オレがついてる』
少しずつ褪せてゆくあんたの力強い声が、見たことのないあんたの穏やかな笑みが、感じたことのないあんたの大きな掌が、僕の背中をそっと押す。
そうだ。あんたなら絶対に足を止めない。考えることを止めない。最後の最後まであがく。そして、うまくできない僕を馬鹿にしないし、逃げたがる僕をむやみに否定したり、見捨てたりしない。
「大丈夫。僕にはあんたがついてる」
だから僕も、絶対に足を止めない。考えることを止めない。最後の最後まであがく。そして、うまくできない自分を馬鹿にしないし、逃げたがる自分をむやみに否定したり、自棄になったりしない。
「大丈夫。僕は僕を諦めない」
残留思念だけが残った絵梨佳ちゃんは、凛子さんへの言葉を大切に抱えていた。後悔の言葉をスマホに遺しながら死んだ凛子さんは、『生きなさい』とまっすぐに僕を見た。僕を信じて待ち続けてくれた麻里は、『生きて』と最期まで僕のことを想ってくれた。『オレは生き抜いた』と伝言を託したあんたは、きっと笑っていた。堂々と。誇らしげに。
僕も最期に胸を張って笑いたい。笑って皆に会いに行きたい。だから。
「大丈夫。僕ならできる」
あの夜のひとつひとつの出来事を忘れても、あんたと駆け抜けた過去まではなくならない。あんたの顔や声を忘れても、あんたが背中を押してくれた事実までは消えてしまわない。
ねえ、KK。あんたとなら、僕はどんなことだってできるんだ。
*
東京タワーから飛びこんだ黄泉の先、記憶の扉に伸ばされる暁人の手が震えていた。カチカチと爪先が木製のノブにあたる硬質な音が耳に届く。視覚と聴覚くらいしか利かないオレにも、暁人の臓腑の冷えが伝わってきた。肺まで空気が到達しないかのような息苦しさ。足元が沈みこむような錯覚。血の気が下がり、目の前の光景が薄闇に呑まれてゆく。
ああ、怖えよな。苦しいよな。こんなもの、まだ二十やそこらの若造が背負うには重たすぎる後悔だ。世の中にゃ、もっとお気楽に生きてるヤツはごまんといるってのに、とんだ不条理じゃねえか。
オマエだけじゃない。オマエの妹や絵梨佳、あのいけすかねえ凛子だってそうだ。オマエが、そしてアイツらが、いったいどれほどのことをしたってんだ? なぜこんな酷えことが起こる?
はは、新米警官だった頃にはよく思ったもんだぜ。どうしてこうも世界ってのは不公平で理不尽なのか、ってな。ああそうだ。だからオレは刑事になりたかった。恨み言のひとつすらもう語るすべがねえ、永遠に口を塞がれちまったヤツらの声を聞いてやりたかった。
ま、それで死者の声にばかり耳を傾けて、我が子の声は放置しつづけてきたってんだから、とんだお笑い種だけどな。……すべてはもう、取り返しのつかねえ過去の出来事だ。今のオレは、耳も口も失っちまっている。永遠に。
なあ暁人。勝手にオマエを巻き込んだあげく、駄々っ子よろしく喚き散らして暴れ回る姿を見せておいて今更だが、もうちっとだけ、オレに師匠ヅラをさせてくれよ。オレにオマエの背中を押させてくれ。最期にオレの人生も悪くなかったと思わせてくれ。
そうすりゃオレは笑って逝ける。怨み辛みに泣き言だらけの後悔まみれでも、息子のことすら見えていなかった傲慢な独善家でも、そのことに黄泉路に頭から突っ込むまで気づかなかった大馬鹿野郎でも。それでも人は変われるってことを、オマエに見せてやれる。
死んだあとまでテメエ一人でどうにかしようとして、たまたま近くにいた人間を躊躇なく殺そうとするような悪霊が、たった一晩知り合っただけの、名前しか知らねえ男の未来を祈ろうってんだ。たいした進歩じゃねえか。なあ?
死者が変われて、生者は変われないなんておかしなことはありえねえ。死者に成し遂げられて、生者には成し遂げられないなんてバカなことがあるわけねえ。
さあ、しっかり息を吐いて吸え。膝に力をいれてしゃんとしろ。ノブを握る手に力をこめるんだ。
オレを変えたのはオマエだ、暁人。オマエがオレをここまで連れて来た。死者を変えちまうようなオマエなら、妹だって救える。どんなことだってできるさ。