疲れたときには甘いもの ぽぽん、とスマートフォンが着信を告げた。
上半身をだらしなくソファの背もたれに預けきり、ぽかりと大口を開いてうたた寝していたKKは、そのかすかな音にはっと目を開けた。
とたんに、天井照明のまばゆい光が網膜を突き刺してくる。眼球から脳天へと鈍い痛みが走った。
とっさに右腕で両目を覆ったはずが、寝ぼけた身体はのろのろとしか動いてくれなかった。仕方なく、固く目をつぶって痛みをやり過ごそうとする。獣のようなうなり声が口から漏れた。
あたりには煙草のにおいが充満していた。長年の喫煙で鈍った鼻でもこれだけはっきり分かるのだ。リビングはさぞかし白くけぶっていることだろう。
KKは小さくため息を吐くと、背もたれから上半身を起こした。どうやらずっと同じ姿勢で眠っていたらしく、身体の節々が悲鳴をあげている。舌打ちしたい気分で、いまだチカチカと星の浮かぶ目を見開いた。
案の定、真昼のように明るいはずのリビングは、仄白くかすんでいた。物であふれかえるローテーブルの上、山盛りの吸い殻から立ちのぼる紫煙のせいだ。さすがにあの夜の霧とは比べるべくもなかったが、暖房の風でも散らせない程の色濃い煙が、部屋全体を覆いつ尽くしている。おまけに、灰皿からこぼれ落ちた灰のせいで、真横に置いていたスマートフォンまでもが、白く薄化粧してしまっていた。
こんな光景を年若い恋人に見られては、なにを言われるか分かったものではない。KKは吐息だけで苦笑すると、すでに沈黙しているスマートフォンへと手を伸ばした。
恋人の暁人ほどマメではないKKは、メールの着信音をデフォルト設定から変更していない。着信音だけでは送り主を判断しようもなかったが、例のあの夜に生まれた繋がりが、電話向こうにいる彼の存在を、はっきりと教えてくれていた。
果たして、差出人欄には『伊月暁人』とあった。珍しいことに件名はなし。添付画像あり。本文にはたったひと言、『モンブラン』。
「なんだ?」
首をひねりながら画像を開く。現れたのは、茶色い地面の写真だった。
「はあ?」
KKは思わず画面に顔を寄せていた。
おそらくどこかの児童公園で撮ったのだろう。湿った焦げ茶色の土の上には、虫食いだらけの落ち葉が何枚も折り重なっている。さらにその上には、大小様々なドングリがどっさりと。全体的に薄暗くて分かりにくいが、写真の右上あたりをよくよく見れば、隊列をなすクロアリたちが点々とゴマ粒のように写りこんでいた。
これは、地面にモンブランケーキを食わせてしまったという嘆きの一枚だろうか。それとも、大量のドングリの中に栗を見つけたという驚きの報告、あるいは、この枯れ葉の中からモンブランケーキを探しだせという遊びだろうか。
あらゆる可能性を考え、隅から隅までじっくりと眺めまわして見たものの、やはり、何の変哲もない地面の写真だとしか思えない。
「マシでなんなんだ?」
眉を寄せて考えこんでいると、ほぽん、とふたたびスマートフォンが鳴った。慌ててメールを開けば、そこにはやはり暁人の名前が。
こちらも件名はなし、添付画像あり。本文はひと言、『ブランデーケーキ』。
写真には、真っ黄色のイチョウの葉が一枚、ピンボケするほど大写しになっていた。
「いやおかしいだろ! 色で言うならバナナか焼き芋か。せめてギンナン繋がりで茶碗蒸しじゃねえのかよ」
うっかり大声で突っ込んでしまったが、KKは侘しい男やもめだ。受け取る相手のいない独り言は、誰にも聞き咎められることなく、中空を漂う煙草の煙に吸い込まれていった。
それからも、ぽんぽんぽんとメール爆撃は続いた。
街路樹の根元に溜まった泥水は『アイスココア』、いびつな灰色の丸石は『みたらし団子』、ポイ捨てされたらしきビニール袋は『ミカン入り牛乳寒天』。
どれもこれも、ものの見事に甘い食べ物の名前ばかり。そのくせ、写真に写っているものはことごとく不味そうだ。
「んなもん飲んだら腹壊すだろ」
「タレの要素はどこいった」
「まさか、この泥汚れがミカンなのか?」
ひとつひとつ律儀に突っ込みながら、KKは次々と写真を確認してゆく。追加のメールが六通を超えたあたりで、とうとうKKは声に出して笑ってしまっていた。スマートフォンを握りしめたまま、ローテーブルの上を見渡す。
細かな傷だらけの鈍色のライターは、色で言うなら煮干しだろうか。ひしゃげた煙草のパッケージは形からしてはんぺんで、中の煙草はごぼう入りのちくわ。灰皿は輪切りにしたダイコン、灰の山はとろけた餅というのはどうだろう。
さっそく写真を撮ろうとスマートフォンを構えたところで、KKは、はたと我に返った。いかにも不健康なこの煙草の山を暁人に送りつけるのは、それこそ説教してくださいと自ら名乗りでるようなものではないか。
軽く舌打ちしたKKは、勢いよくソファから立ち上がった。先程よりずっと高い視点から、もう一度室内を見回す。
暗い窓を覆う鼠色のカーテンはこんにゃく。そのすぐ手前、床に転がっている書き損じの札の束はロールキャベツ。燃やすつもりで忘れていた藁人形は結びしらたき。風呂上がりにそのまま放置したタオルは厚焼き玉子。
しかし、やはりこれもロクなものではない。天井の丸いLED灯ならばと思ったが、明るいぶん、否が応でも煙草の煙が目立つ。これをゆで卵として送るのもやめたほうがよさそうだ。
「……撮れるもんがねえ」
KKはため息交じりに低くうめいた。ただの独り言のはずが、腹の虫からグゥと間抜けな返事があった。
「そういや、昼前からなんも食ってなかったな」
それもこれも、やたら生ゴミに執着する不見鏡とかちあって、コンビニに立ち寄ることすら憚られるような風体にされてしまったせいだ。
深夜でも明るい街明かりの下、ちくちくと突き刺さる視線を耐えながら家路を急ぎ、シャワーを浴びてソファに座り込んでからの記憶がまるでない。が、目の前にある吸い殻の山を見るかぎり、煙草しか摂取していないのは明白だった。
「暁人のヤツ、とんだ飯テロしやがって……!」
KKは獣のようなうなり声を喉から出すと、スマートフォンを持ったまま、足音荒くキッチンに立った。忘れないうちに換気扇をまわすと、電気ケトルに水を入れ、ラックから取り出したカップ麺のフィルムを剥がして半分だけ蓋を開ける。
そのままキッチンに仁王立ちし、湯が沸くのを待つ間にも、ぽん、ぽん、ぽん、とスマートフォンは景気よく鳴り続けた。
アスファルトに転がる赤い空き缶は『苺ロール』。割れた色ガラスは『フルーツグミ』。くしゃくしゃに丸まったティッシュは『かき氷』。
「よくもまあネタが尽きねえもんだ。幼児かよ」
かすかに音を立てはじめたケトルの側面を爪先で弾きながら、KKはブツブツと独りごちた。
「しかも、ガラクタの写真ばかり送ってきやがるのはいったいどういう了見だ? ゴミまみれになったオレへのイヤミか? ああ?」
もちろん、そんなことはないと分かっている。分かっているのだが、どうにも間が悪すぎて、ぼやきのひとつでも吐き出したくなるというものだ。
KKは冷蔵庫から生卵を取り出すと、ありったけの思いを込めて殻をかち割った。光沢のあるトロリとした半透明の白身と黄身が、音もなく乾麺の上に着地する。
折よく沸騰した熱湯を上から注ぐと、KKは素早くスマートフォンを構え、写真を撮った。立ちのぼる白い湯気の向こう、ゆっくりと色を変えつつある卵の写真を、新規メールに添付する。
件名は入れない。本文にはひと言、『月見ラーメン』とだけ。宛先はもちろん、幼児みたいでイヤミで間が悪いKKの恋人、暁人だ。
送信ボタンをタップしてから一分も経たないうちに、甲高いベル音がキッチンに鳴り響いた。
平成生まれのクソガキお暁人くんが、「昭和生まれのおじさんならこれでしょ」とニヤニヤしながら設定した黒電話の音。KKの恋人だけの特別な着信音だ。
いくら食い意地が張ってるといっても、さすがに食いつきが良すぎだろ。KKは呆れ半分感心半分の苦笑いで『伊月暁人』の名前を見下ろした。まさか煙草の煙に気づかれていないだろうなと、今さら過ぎる心配に胸をざわめかせつつ、スマートフォンを耳に押しあてる。
とたんに、明るく元気な声が鼓膜を突き刺してきた。
「ちょっとKK! 本物の食べ物の写真なんてダメだよ! そっちの反則負けだからね」
開口一番、一方的に負けを宣告され、KKはおおいに呆れた。盛大なため息とともに低い声を吐き出す。
「知らねえよ、そんなルール」
しかし、電話向こうの暁人は、KKの言葉などまるで聞いていなかった。
「しかもまたカップラーメンなんか食べて! 僕が作ったおかずは? 焼きおにぎりやピラフの冷食もちゃんと入れてただろ」
ああ、あったな、そう言えば。KKはちらりとだけ冷蔵庫を見やると、すぐにカップ麺へと視線を戻した。
「んなもん、とっくに食っちまったよ」
「え? あれ一週間ぶんだよ。もう全部なくなったの?」
「オマエの作り置きも含めて、昨日の朝にはきれいさっぱり、な」
「いっきに食べ過ぎ! 健康診断やばかったくせに。太るよ!」
「いや、オマエがそれを言うのかよ……」
KKは思わず小声で突っ込んでいた。取り澄ました声が、すぐさま返ってくる。
「僕はいいんだよ。診断結果はオールA。KKと違ってまだまだ食べ盛りだし、バイトで忙しく走り回ってるから」
勝手な言い分をさらりと言ってのけた暁人は、ふいに声のトーンを落とすと、ぼそりとつぶやいた。
「でも困ったな。まだ色々残ってると思ってたから、お菓子しか持ってきてないや」
KKは目を見開いた。
「オマエ、まさかうちに来るつもりか?」
「つもりもなにも、もう向かってる。児童公園の写真、見たよね? あれ、通り道で撮ったやつだから。もうすぐそっちに着くよ」
オマエなあ、とKKはため息をついた。
「いくら男だとはいえ、こんな時間にフラフラ出歩くなよ」
酔っ払いや物盗りの一人や二人が相手であれば、天狗がいくらでも上空へ逃がしてくれるだろうが、最近は少々様相が違う。うっかり深夜の『猫探し』や『水道工事の下見』の集団に鉢合わせてしまったら、色々と面倒なことになりかねない。
とくとくと真剣に言って聞かせるKKに返されたのは、聞こえよがしの大きなため息だった。
「思ったとおり、仕事から帰ってそのままソファでうたた寝したんだね。身体が休まらないからダメだって、ずっと言ってるのに」
ちくちくと耳を突き刺すような小言のあと、暁人は「ちゃんと時計を見てみなよ」と呆れ声で促してきた。
きちんと確認していなかったのは事実だったが、窓からの光でだいたいの時間は分かる。スマートフォンだって何度も見ているのだから馬鹿にするなよと、息巻いて時計を確認したKKは、あ、と間抜けな声をあげた。
「……さすが冬至が近いだけあるな。六時半を過ぎてもまだこんなに暗いのか」
「空はもうそこそこ明るいよ。暗いのは遮光カーテンのせいじゃない?」
「あー、変えたな、そういや」
こないだの休日に、二人で買いに行ったんだったか。
KKは、まだうっすらと白くけぶるリビングの向こう、濃い鼠色をしたカーテンへと目を向けた。
あのときの暁人は、部屋主であるKKを差し置いて、ああでもないこうでもないと、かなり長いあいだ思い悩んでいた。「ソファでよく眠っちゃうなら、やっぱり遮光性と遮熱性は大事だよね」と、うたた寝を止めさせたいのか推奨しているのか、よく分からないことを言いながら。
生ぬるい笑みでいちいち暁人の言葉にうなずいてみせる店員と、甘いものを口いっぱいに放り込まれたような顔でそばを通りすぎていった他の客たち。あのときの居たたまれなさときたら、思い出すだけでも全身が痒くなる。
感情ごとあの日に立ち返り、無言で身悶えしていたKKを、現実の暁人の呑気な声が引き戻した。
「ところで、麺を啜る音が全然聞こえないけど、ラーメン食べなくて大丈夫なの?」
KKははっと息を呑み、ついで、がばりと音を立てる勢いで手元を見下ろした。幸いなことに、麺はまだ伸びていない。いないが、卵の表面はすっかり白く様変わりしている。あのままぼんやりしていたら危なかっただろう。無意識のうちに拳を握りしめて抗議する。
「暁人! オマエな、飯テロするだけしておいて、今度はオレの朝飯を邪魔するんじゃねえよ」
恨みをこめてすごんでみても、返ってくるのはからりとした笑い声だけだった。
「あ、やっぱりあれで食欲が湧いたんだ。良かったあ」
「なにが『良かったあ』だ。人の安眠を邪魔しやがって」
「嘘だあ。メールの着信音くらいで目を覚ますなら、そもそも安眠なんてしてないだろ。だったら一度起きて、ご飯を食べるかベッドで寝直すかしたほうがいいって」
つまり、甘いものだらけのメール爆撃をひたすら繰り返したあげく、KKが返信したとたんに甲高いベル音を響かせた暁人の真意は、そこにあったということか。そして、もしきちんと寝室で眠っていたなら、勝手にあがりこんできた暁人の声と味噌汁のにおいに起こされたかもしれないわけだ。この半熟卵も、あるいは甘い玉子焼きになっていたかもしれない。
つい五日前に暁人のエプロン姿を拝んだばかりのKKは、反論も忘れて思わず黙りこんでしまった。すっかり腑抜けている己を自覚してしまい、情けなさのあまり、顔から火が出そうになる。
そんなKKの様子に気づいているのか、いないのか。暁人はのんびりとした声で話題を変えた。
「まあでも、KKがちゃんと朝ご飯を食べてるなら、そんなに急がなくていいよね。あんたが朝寝してるあいだに僕はお菓子を楽しんでるからさ、あとで一緒に買い出しへ行こうよ」
あ! と暁人が弾んだ声をあげた。
「もちろんお昼ご飯を奢ってくれてもいいよ。かわりに、夕飯はなんでもKKの好きなもの作ってあげるから」
笑いをかみ殺しているのだろう。機械越しの暁人の声は、さざ波のように揺れている。
KKはだらしなく緩みかけた頬を必死に引き締めながら、苦労して地を這うような低い声を出した。
「オマエ、その菓子はオレへの手土産じゃねえのかよ」
「違うよ! ……ああ、いや、まあ。食べたいならもちろんKKにもあげるけど」
力強い即答のあとでは、どんなフォローも意味をなさない。一瞬にして真顔に戻ったKKが無言で呆れていると、フフンと得意げに鼻を鳴らす音が聞こえた。
「KKのご飯は僕が作るし、KKのおやつはこの僕なんだから、別にお菓子なんていらないだろ! ……なーんて言ったり……言わなかったり……」
意気揚々と言い切ったまでは良かったが、その後の語気は急速にしぼんでいった。
「ああもう! ちょっとKK! 黙ってないでなにか言ってよ!」
ごにょごにょと不明瞭なつぶやきから一転、暁人は浮ついた声でわめきはじめる。
KKはたまらず盛大に吹きだした。今頃、電話向こうで朝焼けもかくやとばかりに赤くなっているだろう暁人に向かって、迷子の子どもを宥めるような声で語りかける。
「ああ、分かった分かった。昼からはオマエの菓子食い倒れに付きあってやるから、オレのおやつの暁人くんは、食後のデザート代わりにオレの朝寝に付き合ってくれ」
「それって……」
「もちろん言葉どおりだ。別にやらしい意味はねえぞ。オマエのメールに叩き起こされなけりゃ、オレは今でも寝ていたんだからな」
「いや、分かってるよ!」
KKの挑発に乗り、小声ながらも犬っころのようにキャンキャンと威嚇する暁人の声が、かすかに反響していた。
「もうエントランスか?」
「うん。じゃ、電話は切るね」
「おう」
KKはリビングをさっと見渡した。数分前に換気扇をまわしはじめたばかりの室内は、やはりまだ少し視界が悪いように思えた。KKの鼻ではすでに煙草のにおいを感じられなくなっていたが、おそらくまだしっかり残っているだろう。
今からあの鼠色のカーテンを開け、リビングの窓からも換気したところで、焼け石に水にしかならないに違いない。耳に胼胝ができるほど聞いた暁人の説教が、耳奥にはっきりとよみがえる。これからもうひとつ胼胝が増えるのは確実そうだ。
「こりゃあ、デザートを堪能できるまで、しばらく時間がかかりそうだな」
だがそれも悪くなかった。なにしろ空腹は最高のスパイスだというし、本人の言葉どおり、KKにとって、暁人はそばに存在するだけで疲れを癒し、日常に引き戻してくれる、とびきり甘い菓子なのだから。
KKは小さく笑うと、すっかり柔らかくなってしまった月見ラーメンを啜りつつ、恋人を出迎えるために玄関へと向かった。