蛍火を追って 暁人がふと目を覚ますと、隣にあるはずの人影が見えなかった。
トイレだろうかと寝ぼけ眼で寝返りをうちながら、何気なく伸ばした指先に、しわくちゃになったシーツが触れる。柔らかな布地がすっかり冷房に冷やされてしまっていることに気付いて、暁人は今度こそはっきりと目を見開いた。
常夜灯の明かりを頼りに枕元を探って、己のスマートフォンを引き寄せる。
時刻は午前零時二十分。
目に痛いほどのディスプレイの光に眉をひそめながら、暁人はのそりと起き上がった。
照明の点いていない廊下は、ひどく蒸し暑かった。暁人の額に汗が噴きだす。
あのまま涼しい寝室でまどろんでいれば、遠からずKKは戻って来ただろう。分かっていても、暁人は待てなかった。
恋人と思うさま心や身体を触れあわせたあとに、独りで真夜中を過ごすのは、たとえ少しの時間であっても、やたらと物悲しい気分になってしまう。暁人はその感覚がひどく苦手だった。
幸いなことに、KKの行先に見当はついていた。ほかならぬ彼自身が、自分の姿が見えない時はたいていそこにいると、あらかじめ暁人に教えてくれていたからだ。同様に、来たいなら来ればいいとも言われていた。
それでも、以前の暁人なら、本当に行ってもいいのか、本当は独りでいたいのではないかと、ぐるぐる考え不安になって、寝室でまんじりともせず待つことを選んでいただろう。
しかし、今の暁人は違った。
なにしろ、KKは嫌なら嫌だとはっきり言うタイプだ。そのKKがかまわないと言っているのだから、本当にかまわないのだ。もし気分が変わっていれば、KKはやはりはっきりと、今は独りでいたいと暁人に言うはずだ。その時はその時として、一人で寝室に戻ってくればいい。あれこれと勝手に独りで思い悩んでいる時間がもったいない。
ごく最近、ようやくのこと、暁人はそんなふうに思いきれるようになっていた。
辿り着いたリビングは、廊下と同じように暗く、暑かった。
ほんの一瞬だけ、本当にKKはいるのだろうかとの不安がよぎって、暁人は敷居の前で立ち止まり、ベランダへと続く窓へと視線を向けた。
週末ごとに二人で使っている一人用ダイニングテーブルの向こう側に、その窓はあった。つい数週間前に買ったばかりの露草色の遮光カーテンは閉ざされ、重みのある布地はそよとも動いていない。窓は完全に閉まっているのだ。
しかし、夜闇のなかで色を失い、濃い灰色にも見える両開きのカーテンの中央には、上下に細長い隙間が開いており、そこからかすかな光がもれていた。
ちらちらと明滅する一点の小さな光。
一匹の赤い蛍が、そこにいた。
しばらくぼんやりと蛍に見入っていた暁人だったが、やがて照明も冷房もつけないまま、リビングへと踏み入った。向かうはアイランド式キッチンの手前、二つの部屋の境界に置かれた冷蔵庫だ。
読みかけで放り出した文庫本だの、脱いでそのままの衣料品だの、暁人が片付けるそばからすぐに散らかる室内を足早に横切って、カレンダーの貼られた白い冷蔵庫の前で足を止める。
細かな傷がある片開きの扉を開けると、その瞬間、ひやりとした冷気が暁人の上半身を押し包んだ。思わず目を細めた暁人の口から、大きなため息がこぼれ落ちる。
こめかみに浮かんだ汗が冷えてゆくのを感じながら、暁人は、夕方に入れたペットボトルの飲料水が、きっちり二本、まったく同じ位置に収まったままであることを確認した。ふたたび暁人の口からため息がもれたが、今度のそれは呆れによるものだ。
唇を引き結んだ暁人は、ペットボトルを二本とも取り出すと、いつまでもこの冷蔵庫の前に陣取っていたいという誘惑をふりきって、しっかりと扉を閉めた。そして、今度こそベランダへと足を向けた。
ベランダへと続く窓の遮光カーテンを勢いよく開けると、カーテンレールにランナーがこすれる耳障りな音が室内に響いた。同時に、ちらちらと見え隠れしていた赤い蛍が、はっきりと暁人の前に姿を現した。
蛍はカーテンの音と動きに反応し、かすかな光の尾を曳きながら、素早く半円を描いてベランダを飛んだ。手摺壁に左半身を預けてリビングに横顔を見せていたKKが、暁人の存在に気付いて、身体ごと向き直ったのだ。
ガラス越しに目が合うと、暁人は手に持ったペットボトルを顔の横に掲げて、少しだけ揺らしてみせた。KKは一瞬だけ目を見開いて暁人を見つめたものの、すぐに表情を緩める。薄赤い蛍が、ふわりと小さく上下に揺れた。
窓を開けると、熱く湿った炎風が室内に流れ込んだ。この半年ですっかり嗅ぎなれたたばこの匂いが暁人の鼻孔をくすぐる。冷蔵庫の冷気で一度は引きかけて汗がふたたび噴きだし、あっという間に大きな玉となって、こめかみを次々に伝い落ちていった。
目に入りかけた汗を手の甲で拭いながら、暁人はサッシの下枠をまたいで外に出た。
「はい、これ。」
「サンキュ。」
KKの右横に並んだ暁人が片方のペットボトルを差し出すと、彼は短く礼を言いながら素早く受け取った。キャップを外す手つきは性急で、汗で手が滑るのか、軽い舌打ちまでしている。
赤い蛍は、すでに灰皿のなかへと姿を消していた。
月も星も見えない曇天の夜、ベランダに立つ二人を照らしだしているのは、眼下に並ぶ街路灯のぼんやりした白い明かりと、やや遠目に見えるきらきらしい街明かりだけだ。
目を凝らさなければ自他の輪郭すらあやふやな夜闇のなか、KKが汗みずくの首筋を大きく反らし、喉仏を激しく上下させながら水をむさぼり飲んだ。
手元に残ったもう一方のペットボトルを掴む右手の指に、顎からしたたり落ちた汗の滴が落ちて砕け散るに至って、暁人はようやく、己が外気温に負けないほどの熱っぽさで年上の恋人を見つめていることに気付いた。
幸いなことに、KKは水分補給に必死の様子で、こちらに目を向けてはいない。
暁人は慌てて目を逸らすと、胸元の中途半端な位置で止まっていた右手をぎくしゃくと動かして、ペットボトルに口をつけた。
身の内で渦巻いていた熱が多少の落ち着きを見せる頃には、KKのペットボトルは四分の一にまでその中身を減らしていた。
「あのさ。」
まだほほとんどが残ったままのペットボトルを弄びながら、暁人はささやくような声量で、かたわらに立つ男に話しかけた。
「タバコ、中で吸いなよ。何度も言うけど、僕は気にしてないからさ。」
暁人がこの部屋を訪れている間の喫煙場所について、すでに二人は何度も言葉を交わしている。真冬でもベランダに立つことを厭わなかったKKのことだ。そう簡単に行動を変えないだろうと分かってはいたが、それでも言わずにはいられなかった。
案の定、KKはわざとらしく唇の端を吊り上げながら暁人を見下ろした。
「オマエには、オレが嫌々ベランダに出ているように見えるのか?」
彼特有の捻くれた物言いに、暁人は首を横にふった。
「だろ? オレは自分のやりたいようにしかやってねえよ。」
吐息で笑って、KKは小声できっぱりと言いきった。間違いなく本心であろうその言葉に、暁人は反論しなかった。かわりに、どうしても譲れない部分だけを、同じようにはっきりと口にした。
「じゃ、せめて水分だけはちゃんと摂って。」
ニュースが連日の猛暑を報道しはじめた頃から、暁人は、たばこを吸いにベランダに出る時には一緒に飲料水も持って行くようKKに言ってきたし、持ち運びしやすいペットボトルを切らさないようにと、まめに冷蔵庫を覗いては補充していた。
KKは良い年をした大人の男だ。しかも、身体が資本の仕事を長年にわたって続けてきている。わざわざ口うるさく言うまでもないだろうと、暁人としても頭では分かっていた。けれど、それでもやはり、心配は心配なのだ。
「熱中症で病院に運ばれた人のニュース、KKだって見ただろ。夜でも危ないんだから、油断しないでよ。」
この数分でほとんど中身のなくなってしまったペットボトルを指差しながら、暁人はささやく。その指先を追って自身の手元に視線を落としたKKは、さすがに皮肉ることなく、苦笑しながら素直にうなずいた。
「そうだな。気を付ける。」
近隣や階下から、途絶えることなく室外機の稼働音が聞こえてくる。ここに温度計があれば、きっと天気予報を超える高温が表示されていることだろう。
それでも、じっと立っているだけでも汗の噴きだしてくるベランダで肩を寄せあい、ぽつりぽつりと言葉を交わすうちに、冷房のしっかり効いた寝室で独り目を覚ました時の息苦しさは、すっかり薄れて消えてしまっていた。
もう寝室に戻るからと、露がびっしりとついた己のペットボトルを差し出す暁人に、KKは自分も戻ると言った。
先頭に立った暁人が窓をくぐろうとした時、KKが思い立ったように声をかけてきた。
「そういやオマエ、なんでリビングの明かりを点けなかったんだ?」
暁人は目を瞬かせた。考えに考えての行動ではなかったが、単なる気まぐれでもない。
完全にリビングに入り、リモコンで照明を点けてしまってから、暁人は目をつむって言葉を探した。
暗闇に慣れた目には室内灯の明るさはきつく、まぶたを閉ざしてもなお、白い閃光が暁人の網膜を突きさしてくる。そんな白い闇のなかに、薄赤い一匹の蛍が飛んでいるのが見えた。
暁人はゆっくりと口を開いた。
「……カーテンの隙間から、小さな光が見えてさ。」
かすかな赤い光。真昼の陽のもとではまるで見えないほど淡くて小さいのに、ほとんど物の見えない夜闇にあっては、そこにいるのだと、はっきりと存在を主張する熱の色。
閉ざしていたまぶたを開いて、暁人は後ろを振り返った。窓を閉め、施錠も終わらせたKKの、己より少し高い位置にある黒々とした目を見上げながら、ぽつぽつとしゃべる。
「タバコの火だっていうのは、すぐに分かったんだけど……。夕方に見た鑑賞会のニュースのせいかな。なんていうか、赤い蛍みたいだって思ったんだ。そしたら、電気をつけるのがもったいない気がして……。」
言っているうちに気恥ずかしさがこみあげてきて、暁人は顔を伏せた。子どもっぽい連想だと、今更ながらに思ったからだ。しかも、こんなことを考えておきながら、その赤い蛍がKKの手によって消えた時、暁人はその光をほとんど惜しまなかった。KKの浮き出た喉仏に目を奪われて、ひっそりと感じていた感傷など、すっかり頭の隅に追いやってしまっていたのだ。二重の意味で居たたまれなかった。
あまり長くうつむいていては、KKにあることないこと色々と勘ぐられてしまうだろう。からかいのネタを自ら提供するようなものだ。分かっていても頬と目尻が熱くて顔をあげられず、暁人は焦った。が、予想に反して、いつまで経っても意地悪な低い声がつむじに降ってこない。
怪訝に思いながら恐る恐る顔をあげた暁人は、そこで目を丸くした。片手で顔の下半分を覆ったKKが、照れたように暁人から顔をそむけていたからだ。
さすがにそろそろ目が明るさに慣れてきた頃合いだ。だから、彼の耳が赤いのは見間違いではないはずだ。あのKKが照れているのだ。けれど、いまの話のどこに、彼が照れる要素があったのだろうか。暁人は目を瞬かせた。
「KK?」
ああ、と、おう、の中間のような返事をして、KKが暁人に顔を向けた。
外の夜闇よりもっと深い、黒々とした眼がまっすぐに暁人を見つめている。呑みこまれそうだと暁人は思った。
沈黙と膠着は一瞬だった。
口元から手を下ろしたKKが、それはそれは楽しそうに唇の端を吊り上げたのだ。
「オマエ、さっき水を飲んでたオレに見惚れてただろ?」
チェシャーキャットもかくやというニヤニヤ笑いを披露されて、暁人は息を詰まらせた。唾が気管に入り、げほげほと激しくむせる。
灰皿と空のペットボトルをダイニングテーブルに置いたKKが近づいてきて手を伸ばし、汗でぐっしょりと濡れた暁人の背中を優しくさすってくれた。が、その手に籠められているものが思いやりや心配ばかりではないことを、暁人はしっかりと感じとっていた。
触れてくる手の平が火傷しそうなほど熱いのだ。そして、触れられている己の身体も。
これは仕返しだろうか。それとも、分かっていて素知らぬふりをしながら、効果的に切りだす機会を狡猾にうかがっていたのだろうか。
半目になって睨みあげる暁人とは対照的に、KKは鼻歌でも歌いだしそうなほど上機嫌に目を細めていた。節くれだって大きな手が背筋をすべり、暁人の肩を抱く。
「せっかく誘いに応じてくれたんだ。放り出すような野暮はしねえよ。」
「分かっててわざとああいう飲み方したの?!」
さすがにそれは引く、と暁人はKKにも己にも呆れかえって、半歩ほど後じさりした。
暁人の様子に驚いたように片眉をあげたKKは、次の瞬間、得心したような顔になり、やがて苦笑した。
「そっちじゃねえよ。」
なにが“そっち”なのか分からず眉をひそめる暁人をよそに、筒抜けだったかと焦って損した、とかなんとか、低い声でKKが呟いている。
「どういうこと?」
「暁人くんは一般教養もお勉強しましょうね、ってことだ。」
「はあ?!」
暁人はどんどん声を低くしていくが、KKの機嫌は上がったまま下がる様子はない。
「ま、宿題だな。」
「いやだからなんのこと? っていうか、子ども扱いしないでよ。」
「子どもだと思ってる相手にこんなことしねえよ。」
肩から離れたKKの手が背骨をつっとなぞる。暁人は息を呑んで押し黙った。今にも火を噴きそうな顔をそろりとあげると、しっかりと視線がかち合う。どうする、と黒い眼差しが雄弁に応えを求めていた。
暁人はほうっと熱い息を吐くと、想い人の隣に並んだ。汗で湿った肩口に頭をすり寄せて、ささやく。
「……明日は、寝坊確定だね。」
「たまにゃいいだろ。」
ふたたび肩を抱いてくるKKの声は、ひどく甘い。
二人はぴったりと寄り添って、寝室に向かって歩き出した。
リビングの照明を消し、廊下へと足を踏み出したところで、KKが歌うようにそっと呟いた。
「“恋に焦がれて 鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が 身を焦がす”ってな。」
「え? なに?」
聞き取れず、暁人は上目遣いに真横のKKを見つめる。けれど、KKは愛おしそうに目を細めるばかりで、何も答えなかった。