「ドクター」
「ん、ああ、もうそんな時間か」
控えめなノックとともに姿を現したScoutに、私は執務机についたままぐっと背を伸ばす。手元の書類の山はいまだ片付く様子を見せないものの、今日はここでおしまいだ。
「すまないがシャワーを浴びてくる。十分待っててくれ」
「了解。いつも言っているが別に構わないぞ」
「私が構うんだよ」
すでに帰り支度を始めていた秘書役の事務オペレーターにいくつか明日の分の指示を出し、手を振って見送り端末の電源を落とす。その間Scoutはといえば、壁に背を預けたまま興味深そうに私の机の上に残されたエナジードリンクの空き缶を眺めていた。
「それだけ飲んでちゃんと眠れるのか?」
「私を舐めるなよ。どこであっても横になったら三秒で就寝できるのが自慢なんだ」
「それでよく床に落ちてるのか。心配するからできればベッドまでたどり着いてくれ」
「努力はしよう」
と、あまり彼を待たせてもいけないので、そそくさとシャワーブースへと駆け込む。仮眠室に一通りの生活設備をつけることについて聞かされた当初はさしたる興味もなかったのだが、まさかこんなにもすぐに役立つとは思わなかった。手早く身を清めて覗き込んだ鏡の中にはいつもより幾分マシな顔色の自分が映っていて、規則正しい睡眠時間というものの効力を否応なしに私に突き付けてくれる。
「缶は片付けておいたが、他にゴミはあるか」
「大きいものは先ほど持って行ってもらったから、残りはそれだけだ」
本当は試作品の理性回復剤の空き容器がデスクの引き出しには放り込まれているのだが、彼はあれを見るといい顔をしない。薬で身持ちを崩す連中は見飽きたんだと吐き捨てるように言った彼の表情を思い出すと、とうてい口にできることではなかった。こうやって彼にいえない言葉だけがいくつもいくつも降り積もっていく。たとえば今、彼の隣でその長身を見上げながら考えていることだとか。
「荷物を持とうか」
「ただの私用の端末とタオルだ。こんなもので護衛の両手を塞ぐわけにはいかないだろう」
「あの時、あんたに怪我がなくて良かったよ」
「なんだ、もしも怪我してたら背負ってくれたりしたのか」
「お望みなら、今すぐにでも」
本当にいい男だ。なのにどうして私の八つ当たりにすぎない我儘など聞いてくれているのか。ぐるぐると結論の出ない思考を彷徨わせているうちに、あっという間にここ数日で見慣れてしまった部屋のドアへとたどり着いてしまった。
「明日はいつも通りの時間でいいか」
「あぁ、すまないが」
「構わんさ、どうせついでだ」
皆様は朝起きたら朝食が用意されているという天国のような状況に遭遇したことがあるだろうか。私はここ数日ずっとこうだ。羨ましいだろう。あまりにも非現実的すぎる恵まれた状況にまるで夢ではないかと初日はそのまま二度寝しそうになって、あの声で優しく起こされてしまった。なんという失態だ。それもこれも彼が気遣いの塊のような男で、私のような頼りない上司に対してさえその出来た人間っぷりを遺憾なく発揮してくれているだけである。他のオペレーターたちにこのことを話したところ、全員が黙って首を振って『それはアンタにだけだ』と口を揃えて言い切ったのだが、彼らはScoutという男を過小評価しすぎだと思う。その後に続けられた『頼むから早く自覚してくれ』『あれでお互いに無自覚とか嘘だろう』などの意味不明の言葉についてはスルーするとして、早朝のランニングついでに食堂で二人分の朝食を調達してきてくれる彼のおかげで、ここ数日は涙が出るほど温かい目覚めを迎えることができているのである。
ガチャンという施錠の音に我に返ると、心配そうな眼差しに覗き込まれてしまった。まさか君への感謝をあらためてかみしめているのだとは言いづらく、曖昧に首を振って誤魔化す。彼にはロドス号における典型的な一人部屋が宛がわれており、部屋の片隅に武器の整備のためのスペースが設けられてる他はがらんとした部屋だった。オペレーターによっては私物をため込んだり、あれこれ内装に手を入れたりと賑やかであるらしいが、ポスターのひとつもないこの部屋から彼の人となりを読み取るのは難しかった。そんな部屋であるので、私という異物はやけに目立つ。いたたまれなさを誤魔化すためにもうほぼ乾いている髪をタオルで拭うふりなどしている間に、彼はテキパキと手馴れた動作で身に着けた装備品を外し、ベッドの下へと並べ始めた。そして最後にTシャツとワークパンツだけのラフな格好になったところで、ドクター、と私の名前が呼ばれる。
「奥でいいな?」
「あぁ」
促されるままにベッドの壁際におそるおそる潜り込むと、ふわりと優しく毛布を被せられた。そしてカチャリと――これは彼がサングラスをヘッドボードに置いた音だ――聞きなれた音とともに照明が落とされ、ごそごそと衣擦れの音とともに、私の背が温もりに覆われる。
「狭くはないか」
「君が許してくれるのなら、今すぐにでもそこの寝袋を広げるが」
「上官にそんなことをさせる奴がどこにいるんだ」
「なら部下の寝床を占拠する上司だっておかしいだろう」
もう何度目かも忘れてしまったやりとりは、初日から互いに一歩も譲らずに繰り返されているもの。そう、最初は私は当たり前だが床で眠るつもりだったんだ。そのために寝袋も持って来たし、借りられるのであれば正直そこのパイプ椅子でも十分だった。だというのに彼はといえば信じられないものを見る目で私を眺め、まったく相手にならない取っ組み合いの結果、私をベッドに放り込んで自分だけ床に転がろうとした。当然許せるはずもなく私はScoutのシャツを掴みあれこれ言い合いになり、最終的にScoutが私を後ろから抱え込むこの就寝スタイルで落ち着いてしまったのである。どうしてこうなった。
暗闇の中では普段は気にならない音さえやけに大きく聞こえる。わずかな衣擦れの音や、静かに息を吐く音。作戦中はテントで雑魚寝であるため、他人の気配に今さら眠気を遮られるようなことはない。そもそも私は横になれば三秒で寝られるのが自慢の体質である。では何故こんなにも眠気に身を任せてしまうのが惜しいのか。振り返ってマスクもサングラスもない素顔のScoutを眺める勇気すらないというのに、腹に回された腕のあたたかさにずっとしがみついていたいと思ってしまう。自身の感情がこうも理解不能になってしまったのは久しぶりだった。だがこの疑念はどうしてだか心地が良い。ひょっとしたら私は、彼のことを考えているというこの時間をこそ惜しんでいるのかもしれない。まさか自分がそんな人間くさい思考を抱けるようになるとは、人生何が起こるかわからないものである。このぬくもりの記憶だけで那由他の孤独さえ耐えられる気がした。そんな益体もない散らかった思考とともに、私はゆっくりと眠りへと沈んでいったのだった。
なお、期間限定同棲が開始された直後、エリートオペレーターとして名高きScout隊長が出勤してくるなり、
「いい匂いがした……」
とだけ言ってしばらく使い物にならなかったことは、彼自身の名誉のために所属隊員全員によってすみやかに全力で隠蔽されたのだった。