旦那様が長年の猛アタックの末にようやく迎えられた奥様は、今までずっとロドスという企業の陸上艦でテラ全土を飛び回る生活をなさっていたらしい。そんな方ですから心配になってしまうのです。イェラグの長い冬、家から出ることすら難しい雪と氷しかない長い冬に退屈してしまわれるのではないかと。
「まさか仕事が忙しすぎて執務室にこもってたら、退屈すぎて仕事に逃避した人間だと思われていたとはね……」
「彼女たちも悪気があったわけではないのですが」
「うん、純粋に心配してくれただけなのはわかってるよ」
ただ因果関係が逆なだけで。苦笑するマッターホルンから受け取ったカップにほっと一息をついて、私は朝から座りっぱなしだった椅子の上でうーんと伸びをした。ぱきぱきと鳴る背骨にさすがに根を詰めすぎただろうか、いやいやロドスではこのくらいは日常茶飯事だったしと首を振っていると、すかさず追加のお茶請けが並べられる。昔は一部の神殿関係者や巫女しか口にすることができなかったという伝統菓子は、舌が痺れるほどの甘さなのに花の上品な香りが鼻に抜ける。これが必要だったってことは昔から彼女たちも激務だったのだろう。なら大丈夫。問題ない。マッターホルンのため息を無視しながら二つ目に手を伸ばしつつ、目下の心配事について話を続ける。
「心優しい彼女たちに心配をかけるのは申し訳ない。イェラグでは冬の間はどうやって過ごすのが一般的なんだい」
「主に家の中で出来る作業ですね。石や木の細工物を作ったり、編み物や刺しゅうを仕上げたりというのは冬の間に行う仕事です。あとは狩りですが、こちらはドクター様には少々おすすめしにくいですし」
「間違いなく遭難して行方不明になるね。新婚早々でそれはちょっと嫌だなぁ」
何よりエンシオディスに申し訳が立たなすぎる。いまだに自分の名前の最後に追加された煌びやかな家名には気後れしてしまうけれど、彼と同じ名前になれたという点においてはこれ以上の喜びはない。手袋の下の指輪をそっと撫でながら、ドクターはカップを傾けつつ言った。
「彼女たちの心配はすなわち、彼女たちの抱いている退屈の裏返しだろう。彼に屋敷を任されたのにこの体たらくでは愛想を尽かされてしまうな。何かレクリエーションを考えておこう。また相談に乗ってもらっても?」
「旦那様があなたに愛想を尽かすことだけはないと断言いたしますが、ご相談でしたらいつでもお呼びつけ下さい」
相変わらず、マッターホルンの言葉は優しい。ロドスに派遣されていたことだって彼にとっては不本意であっただろうに、そんな様子など微塵も見せずによく務めてくれた。
「それにしても退屈、退屈ねぇ。そんなもの、エンシオディスの隣にいて退屈を感じている暇なんてあるはずがないだろうに」
あれだけ散々こちらを振り回して、こっちだって逆に振り回して現在に至る相手だ。結婚したからといってそのあたりは今さら変えられないし、そんなこと彼だって望んではいないだろう。何故だか一瞬びっくりした後に噛み締めるような優しい表情になったマッターホルンに首を傾げつつ、その話はそこで終わりになったのだった。
「それはな、遠回しに私の甲斐性の無さを非難されているのだ」
「甲斐性って。君が持っていなければテラじゅうを探したって持ってる人がいなくなってしまうよ」
帰宅するなりぐるぐるすりすりはぐはぐとひと通りの激しすぎる愛情表現を受けることもそろそろ慣れてきた。いや無理、一生慣れないと思う。だって玄関先でおかえりなさいと告げた直後に抱き上げられてから、まだ一度も私の足は床についていない。たった二週間会わないことなんて、以前であればむしろ短いほうだったというのに、彼はといえばその冬毛でよりいっそうふわふわになった丸い耳をこれでもかとこちらの頬に擦りつけながら、うるるるると甘えるように喉を鳴らしてくるのだから、どうして抵抗なんてできるだろう。屋敷の使用人の方々の微笑ましいものを見る眼差しにいたたまれなくなりながら、ようやく下ろしてもらったソファの上で――とはいっても彼の膝の上ではあるのだが――ややしょんぼりとした彼の言葉に耳を傾ける。
「長い冬に妻を炉端に一人で放っておく男、というのはイェラグにおいてはかなり強い罵倒の言葉になる」
「*イェラグスラング*! ああ、そういえばドラマで見たな。あれそういう背景のスラングだったのか」
「お前に本社を任せられることに甘えて、出張を多く入れすぎたのは私の手落ちだった」
「むしろそれほどに信頼してもらえて、私は嬉しいんだけれどね」
「お前は寂しくなかったと?」
おや、話が変な方向に飛んだ。じと、と睨まれたところで私のカワイイネコチャンであることに変わりはないのだけれど、というか機嫌を損ねていますというわざとらしいアピールですら顔が良いなこの男。違う、彼の顔が良さは当たり前のことなのでいったん置いておいて、そのふかふかのしっぽを不機嫌そうに揺らす彼の頬を両手でそっとつかまえ、朝焼け前の霊峰の色を写した瞳を覗き込む。
「君の匂いがずいぶんと消えてしまった。寂しかったよ、エンシオディス」
くちづけは私からだったけれども、主導権はあっさりと奪われてしまったし、結局その夜は一度も私の足が床にたどり着くこともなかった。でもまあぐるぐると満足そうな喉の音を真正面から爆音で聞かされてしまっては、体力を使い果たした私は安眠しか出来ないというもので。長期出張帰りだというのに年齢を感じさせないまだまだタフな身体にもたれかかりながらうつらうつらとしていると、私の左手を取り上げた彼が、やわらかく薬指にくちづけてきた。
「きみ、それ好きだねぇ」
「無論だ。昔はこんな小さな物をと思ったこともあったが、お前の指に同じものがはまっているのを見るたびに、奇跡の存在を信じてしまいそうになる」
「ふふ、変なの。……あのね、退屈してないのは本当なんだよ」
「ヤーカから聞いた。使用人の間ではこのところ持ちきりだったそうだ」
「えー、失礼なこと言ったってなってない?」
「むしろ得難い方を娶られたと盛大に喜ばれた」
「よくわからないけど、喜ばれたのならいいや。あとは何か、屋敷内で楽しめるようなレクリエーションを」
「そんなもの、お前と私が揃っていれば十分だ」
「うーん?」
彼の自信満々の言葉の意味はよくわからなかったけれど、そろそろ眠気がピークだった私は大人しく頷くことにした。そのせいで後日、死ぬほど恥ずかしい目に遭うことになるのだけれど、それはまた別のお話。