「申し訳ないが、屑入れを貸してもらえないだろうか」
はいどうぞ、とロドス標準仕様のプラスチックボックスを差し出し聞けば、爪の手入れを忘れていたのだと重岳は恥ずかしそうに眉尻を下げながら言った。
なるほど、武人にとって拳とは身体の一部でありまた重要な武具である。達人ともなれば髪の毛の先端まで神経が通っていると称賛される通り、ほんのわずかな差でさえパフォーマンスに影響を及ぼすもの。ましてや目の前の彼はその身に千年の武芸を積み重ねた身、前衛オペレーターとして来てもらった際のあの頼もしい背中を見れば、爪の手入れがどれほど大切なものかは想像するまでもない。であるからしてドクターは、かねてからの約束通り自室に招いたにも関わらず持ち帰りの仕事が終わっていない罪悪感から目をそらすためにも、こころよく自室のダストボックスを差し出したのであった。
「爪切りは要る? おしゃれな爪やすりなんてものは流石に持っていないけれど」
「いや、それには及ばない」
とは言ってもどうやって? と首をかしげるドクターの前で、彼はあっさりと自身の尾を振ってみせた。
「なるほど、便利だ」
「実際、『これ』については人の身を得てからのほうが重宝しているやもしれん」
剣という武器はかの獣を模して造られたのか、はたまた獣が戯れに人の手元を模したのか。興味は尽きない議題ではあるが、少なくとも彼は自身の尾の先端にある剣を便利に使っているらしかった。さり、と軽い音を立てて彼の黒い爪の先端が削られていく。もしも同様のことを試せば一発で指を切ってしまうだろうなと、自身の不器用さに絶対の自信を持つドクターは深く頷いたが、その手元でようやく待ちに待っていたメールの受信を知らせる電子音が鳴り響き、名残惜しくはあるが仕事の続きへと意識を戻す。タッチパネルの上を指が躍る音と、かすかに聞こえる硬質な何かが削れる音。ロドスの居住区にある多くの部屋の中で、おそらくこの瞬間一番静謐の底に近いのはこの部屋だっただろう。その静けさはやがて、ぱたりとドクターがタブレットを机に置く音で終焉を迎えた。
「終わったかな」
「お待たせしてしまってごめんね。これで私の明日の午前休みは保証されたよ」
もうこれ以上は顧みないぞと強い決意でケースに納めたタブレットを、さらに厳重にデスクの引き出しへ押し込めて短い別れを告げる。おそらく酷使され続けているタブレットのほうも、しばらくドクターの顔を見ずに済んでせいせいしていることだろう。ぐ、と伸ばした背骨からおよそ人体から鳴ってはいけない音が聞こえたが、とうのドクター本人はといえばそれどころではない。なにせここからは短くも喜びに満ちた恋人の時間だからである。
「多忙な貴公の時間をもらってしまうとは、私はなんと贅沢者なのだろうな」
「さて、その言葉が相応しいのは一体どちらだろうかね」
いつの間に立ち上がっていたのか、伸びをしていたドクターの体に、背後からするりと太い両腕が絡みつく。ドクターの不摂生な痩せ気味の胴体などあっさりと閉じ込めてしまえる腕の持ち主は、ふ、とフードを落としたドクターの髪に吐息をこぼした。
「このまま寝台へ連れて行くのと……ああ、いっそこのままここでというのも悪くはないように思える」
「あなたを放って机にかじりついてたのは謝るから、妙な嫉妬はやめてくれないか」
武芸は確かに彼の重要なファクターではあるが、長く生きてなお衰えぬ好奇心こそが彼の根ではないのかと時折ドクターは考えてしまうことがある。とはいえその発露にはいささか驚かされたり、驚かされる暇もなく法悦の天へと連れ去られたりもするので思うところがなくもないのだが、ドクターが口を開くよりも先に、すり、と硬くなめらかな指先がドクターのくちびるへと添えられた。
「ずいぶんと深爪のように見えるけれど」
「無論、貴公を傷つけるわけにはいかないからな」
「ンンッ!?」
元来、拳は彼の重要な武具であり、そのために手入れを欠かすことはない。例え恋人の部屋であったとしても不具合が見つかれば武人の性として即座に手を入れ整えるものだ、というのがドクターの認識であった。だがしかし彼の先ほどの発言はとうていその範疇におさまるだけのものではなく、むしろ爪を短く整えたのはこれからの時間をつつがなく楽しむためであるように聞こえるのだが――――
「うん? その通りだが伝わっていなかったか。貴公ほどの知恵者が色恋については読み違えるというのは、また格別なものがあるな」
「だって! そんな、いきなり」
「私はじゅうぶん大人しく待ったと思わないか?」
大人しく、というわりにはするすると巻き付く長い尾がたわむれに掠める箇所がきわどすぎる気もしたが、しかしすでに本日は残業の延長戦のアディショナルタイムまでをこなしたドクターの理性はゼロになってしまっていたので、あっさりと白旗を上げてその自分のためだけに整えられた美しい指先に、熱い吐息とともに愛の言葉を囁いたのだった。