博愛主義/偏愛 やあやあ、お姉さん。団子をふたつ、くれないか。あとから連れが来るんでね、そこで座って食べるとするよ。……それから、そう、五十ほど持ち帰りに包んでくれないか。ハハ、うちは大家族なんだ。あっという間になくなっちまう。ありがとよ。
ぶらりぶらりと足を揺らし座りながら旅の相棒を待っていると、お茶が冷めるころになって漸く、両手に包みを抱えた男が現れた。
頼まれたものは買えたかい。問うと頷くので、傍らを叩き、座るように誘う。女を呼び、団子をもう一本と、茶のおかわりを頼んだ。あまりにも待ちすぎて、先に頼んだ分は結局自分が食べてしまったのである。
団子屋の店先に立つ女は、特段優れた容姿をしているわけではないが、満面の笑顔に目を惹かれる。人好きのする笑顔というやつだ。
ぼんやりと娘の姿を追っていると、くい、と袖を引かれる。振り返るとそこには仏頂面をした男が座っていた。感情のわかりにくい顔だが、瞳の奥に不満げな様子が見てとれる。団子を持っていない手で撫でてやれば、やめろとばかりに身を捩った。
男の嫉妬は醜いぞ。なあんてな。すると今度は不快の色を隠さなかった。
どうしたんです。団子と茶を持ってきた女が尋ねる。
いいや、なに。俺ばかりがきみと仲良くしているから、この坊やは嫉妬しているのさ。
あらやだ、と女はからからと笑った。そんな、貴方たちのような美丈夫に言われて本気にするわけがないでしょう。それにね、わたしももう少ししたら嫁に行くんです。
へえ、そりゃあめでたい。鶴丸は手を叩く。そんじゃ、お代はこれでいいかい。釣りはいらないぜ。お祝いだと思ってくれりゃいいさ。団子、美味しかったしなあ。ほら、坊もお食べ。
こんないい天気だから、団子が殊更美味く感じるなあ。
あと、十日ほどかな。
帰り道、ぽつりと鶴丸が呟いた。
もうすぐ嫁入りだというのになあ。
その表情には憐憫のようなものは浮かんではいない。ただ、淡々と、思っていることを呟いているだけだ。
ああいうのは、もうやめろ。
いったい何度目の忠告なのだろう。鶴丸はぱちぱちと瞬きをし、ゆっくりと目を細める。聞き分けのない子供に対する態度だ。仕方がないと言わんばかりの笑みに、舌打ちしたくもなる。
別に、着いていくわけじゃないんだからいいだろう。ほら、たくさん買ったからな。最期くらいいい思いをあの子もしていいじゃあないか。
――死に近い人間の匂いがわかるのだと鶴丸が語ったのは、いつのことだったろう。
あいつはもうすぐ死んでしまうよ、伽羅坊。後悔のないようにな。相手にこちらが見えなくとも、さよならくらいはできるだろう。子が生まれたばかりだというのに、大変だなあ。
指差し、教えてくれたことは二度や三度ではない。時代柄、もう大きな戦は遠くとも、亡くなる人間は少なくはない。鶴丸はそんなこれから死ぬ人間のひとりひとりを眺めながら、嗚呼、死んでしまうのだなあと呟くのだ。ふらふらと吸い寄せられるかのようにそちらへと向かう男が恐ろしくて、大倶利伽羅はその手を引いて止めた。鶴丸は手を振り払うことこそなかったものの、ずっとずっと、これから死ぬ人間のことを見つめていたのだった。
人の身を得た鶴丸に生まれた悪癖は、あのころを思い出させる。戦で死ぬのは仕方がないと割り切りつつも、こうして市井で出会う人間の死期が近いと知ってしまえば、その者に少しだけ優しくしたくなるのだという。今だってそうだ。多めに包んだ代金は、最期に少しくらいの贅沢を女に与えるだろう。嫁入り前だと必要なものも多い。これから自分が死ぬなどとわかっていない女は、突然の臨時収入をただ純粋に喜ぶはずだ。
祝言より前に、女の両親は彼女の葬儀を行うことになるだろう。それを、哀れと大倶利伽羅は思う。しかし鶴丸は、そう思わない。ただ、ただ、死んでいく人間に優しくして、それで終わりだ。
昔、きみは、俺が死者に着いていってしまうのではないかと怯えていたな。今もそうかい。
まるで、お化けが怖くて眠れない子供時代を語るかのように言うものだから、不快だった。くつくつと笑う鶴丸は、こちらを馬鹿にしているわけではない。諭すように、優しく、鶴丸は言うのだ。
安心しろ。たったひとつの、「唯一」を供にできなかったのだから、それ以外を選んでしまうのは不公平じゃあないか。
――不公平!
鼻で笑いたくもなる。そんなことを言って、鶴丸が目を惹かれるのはいつだって死に近いものばかりだ。今となりにいる大倶利伽羅は鶴丸の視界にすら入っていないことに、当の鶴丸は気づいていない。その時点で、鶴丸の語る公平とはあまりに脆く、あまりに馬鹿馬鹿しく、大倶利伽羅は呆れるほかないのだった。
懐かしい、花の香りがする。
自分にとって、予感のする死とは花の匂いに近かった。死を間際にした人間は、花の香りがするのだ。それを言ったところで、理解をしてくれる者はいなかった。鶴丸が、あの人間はもうすぐ死ぬだろうと教えたところで、奇妙な顔をする。そのうち、避けていく者も少なくはなかった。鶴丸としては事実を告げているだけなのだが、鶴丸が厄災を運んでいるとでも信じたのかもしれない。
鶴丸にとって死はもう遠いものでも、心はいつだってそばにあった。鶴丸の手から取り上げられてしまった今でも、思い出せば花の香りがするのだ。けれど、取り上げられてしまったそれをもう追いかけることはできないから、鶴丸はほかに特別を選ぶことはできなかった。共に在りたかった存在に着いていけなかったのだから、それ以外を選んでしまうのは不公平だ。流してやる涙も、遙か昔に、乾いてしまった。
だめだ、という。
鶴丸がこれから死ぬ者たちを目で追っていると、必ず止める手があった。
だめ、とは。
なにが駄目なのだろう。鶴丸はただ、慈しみたいだけだ。もう咲き終わってしまう花々を、眺めていたいだけだった。だって、枯れたあと、鶴丸はもうそばにいることはできない。もう昔に、そうする権利を失ってしまったのだから。
あんた、まるで着いていきそうな目で見ている。
それは、確信だった。核心でもあった。鶴丸は今でも本当は、あの日取り上げられてしまった花を、抱きしめたくて堪らないのだ。それができなくなってしまったから、あの日の思い出を追うように、似た香りを求めてしまう。
だめ、かあ。
だめなら仕方がない。でも、やめられないのもほんとうなんだ。なあ、きみ。俺が追いかけていきそうで怖いというのであれば、こうして、俺の手を引いて、とめておくれ。きみが、俺を現世に繋ぎ止めておくれ。
彼は返事をしなかったが、それから幾度も、鶴丸の手を引いた。そちらへ行ってはいけないのだと。お前はここへいるべきだと。
彼がいるから、鶴丸はいつだって、香りを追い続けることができる。彼が手を引いてくれると信じているから、となりも、うしろも、見ないでいられた。見なくともそこに彼がいるのだという安心は、鶴丸の心を穏やかなものにさせたのだ。
死の香りを追い続けてしまう鶴丸にとって、彼だけが、鶴丸にとって現世の唯一だった。彼にとって自分はたまたま目に入っただけの不安定な存在だから手を伸ばしたに過ぎないのだろうが、それでもよかった。彼の視線の先に自分を置いていてくれる限り、それでよかった。大倶利伽羅だけが、鶴丸にとってあの花の香り以外に唯一、そばにいて安心のできる香りがした。