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    namidabara

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    namidabara

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    5/27 進捗
    10日目/尾→月になりました!!!!!!!!これはもう尾→月でいいでしょ!!!!!
    エドガイくんの原作準拠設定あります。尾形まわりも原作と重なる部分多いです。

    #尾月
    tailMoon




    『行きは良い良い帰りは怖い……』
     夢を見ていた。母の夢だ。母の声はすう、とよく通る美しい声で、それが三味線の力強い伸びやかな音とよく合った、らしい。詳しくは知らない。尾形が生まれてから母は芸者を辞めたので、彼女が実際に座敷に上がっているところは見たことがなかった。
     母はそれなりに名の売れた芸妓だった。ある男と恋に堕ちて、愛を信じたまま尾形を身籠った。そうして、現実をまざまざと突きつけられた母は。
    『ちっと通して下しゃんせ、御用のない者通しゃせぬ……』
     初夏の午後。重いランドセル。赤い水。ポタリポタリ、と、ひたすらに零れ落ちる水滴。ベルトに包まれた生白い頸。祝福されていたはずの、自分。

     また遠くで母が歌う。
    『この子の七つのお祝いに——』
     嘘吐き。

     俺が七つになる頃、アンタはもうとっくにこの世に居なかっただろうに。





     気色の悪い暑さでぼんやりと目を覚ました。あつい。まるで一枚の被膜に包まれたかのように体に熱が籠っている。バサリ、と丁寧にかけられた羽毛布団を跳ねのければ、僅かに冷たい空気が流れ込んできて多少マシになった。
     ここは、どこだ。熱を孕んだ視界でぼんやりと暗いあたりを見回す。白と黒で統一されたシンプルな部屋だ。必要最低限のものしか置いていない、人間味のない淡白な部屋。見間違えるはずもない、ここは尾形の自室である。
     何故ここに。自分は確か、定時後に勇作と会っていたはずだ。そしてその祝福された匂いにやられて、——ああそうだ、月島に会ったのだ。
     声をかけられた。そして、前からの約束を棒に振ってまであの男は尾形を自宅に送り届けた。ただの部下を、ただのセフレを。真意が分からずに混乱する。身体に満ちた熱は簡単に尾形の思考を鈍らせた。
    「——起こしたか?」
     ノックもなしにガチャリ、とドアが開けられて、思考の渦中の男が登場する。尾形はベッドの中で目をまん丸にした。なんでここに。
    「悪いが勝手に色々漁ったぞ。お前冷蔵庫空っぽすぎるだろ。コンビニでゼリー買ってきたからそれ飲んで薬飲め」
     手渡されたのはビニール袋に入ったゼリー飲料やスポーツドリンクだった。促されるままに少しだけ口を付けて、家に置いてあった常備薬を飲む。月島はそれをただじっと見つめていた。
    「よし、飲んだな。色々買ってきて冷蔵庫に突っ込んだから、薬飲む前に必ず何かしら食えよ。熱が続くようなら病院に行け、月曜日も休んで構わない」
     暗闇の中すっかり切り替えた月島がそんな風にさっさと話を進めるものだから、尾形は思わずベッドから身を起こしてその腕を掴んだ。冷たい、と思った。自分の掌が熱いのだ。
    「泊まっていかんのですか」
    「……お前、前に『人が居るところでなんて寝れませんよ、無防備に寝顔晒す奴の神経を疑いますね』って言ってただろ」
    「つきしまさんはいいんです」
     どこか舌足らずな我儘にはあ、と深いため息を吐いた月島は、迷った末にベッドに背を預ける形でラグに座った。それを見て尾形は鼻を鳴らして満足げにベッドに潜り込む。
    「勇作さんを、見ましたか。あれが、本物の祝福の子ですよ」
    「ああ、ありゃ凄かったな。祝福の子の中でも上位種だろ。俺も思わず屈しそうになったよ、求められたわけでもないのにな」
    「ダメだ」
     存外鋭い形の声が返ってきて、月島は困惑する。そして尾形自身も、何故即座にその否定が口から飛び出したのか分からないまま、しどろもどろに言葉を続けた。
    「アンタは、ダメでしょう。番が、居るんだから」
    「ああ……」
     暗闇の中で海松色が翳る。番。アンタの、番。誰なんですか、と聞きたいのに、それ以上その瞳を翳らせたくなくて飲み込んだ。自分らしくもない選択に尾形はため息を吐いた。

     沈黙が満ちた。月島の坊主頭は動かずにずっとそこにある。ふうふうと荒い息を吐きながら、尾形はふと先ほど見たネオン街の中でのワンシーンを思い出した。
    ああそういえば、あの隣に居た男は誰だ。他よりは随分と薄かったが、αの匂いがした。あれは確かにαだ。月島の新しい相手か? この男、存外面食いだからな。嘲笑交じりにそう考えたが、思ったよりも不快な気分になって顔を覆う。
    「あの男」
    「ん?」
    「あれ、だれです。いっしょにいた、アイツ」
     言葉を紡ぐのすら気怠いというのに、聞かずにはいられない。熱でぼやけた尾形の脳裏に浮かぶのは、月島と一緒に居た仲の良さそうなあの男。柔らかな雰囲気とは裏腹に、それが纏う匂いは確実にαだった。限りなく弱く薫れども、αは同胞の気配に敏感になるように出来ている。それは遺伝子の優劣を嗅ぎ分ける、厭らしい下卑たαの本能だった。
     随分と仲が良さそうだった。職場じゃ滅多に見ないような緩んだ表情と交わされる軽口、明らかに近い距離感と日常的に会っているような口ぶり。そのどれもが、尾形のささくれだった心の外側を猶更逆撫でしていった。
    「あたらしいおとこですか」
     言うに事欠いてそれかよ、と頭の中の冷静な部分の己が嘲笑する。
     新しい男。そう、自分以外の相手なのかと思ったのだ。尾形との都合が合わないとき、以前と同じように菊田にヘルプを送っていることは知っていた。もとはと言えばあの男が居た場所に割り込んだのだ、気に食わないがそれなりに弁えている。だがアレは誰だ、あんな男は知らない。
     自分にも菊田にも見せない気安い笑み。その顔を見たとき、勇作のフェロモンを喰らった時よりもずっとずっと気持ちが悪かったのは、何故なのだろう。
    「ああ、江渡貝か。ただの友達だよ」
    「でも、αでした」
    「お前な、俺がαなら誰でも彼でも手を出してると思ってるのか?」
    「事実でしょう。アンタは獣なんだから。若くていい男じゃないですか、何回ヤりました?」
     ごん、と鈍い音がして額が殴られる。いたい、おれ病人です。じっとりと射干玉の目で見上げれば、月島は子供の癇癪に呆れるような顔をしていた。
    「江渡貝とは本当にただの友達だ。そもそもアイツは勃たないんだ、間違いなんて起きようがない」
    「勃たない?」
    「……去勢されたんだよ、母親に」
     尾形は静かに目を見開く。キッチンの方からポタリ、ポタリと水滴の音が聞こえた。煩わしい、と思った。
    「江渡貝の母親はβで、父親はαだった。運命の番と出会った父親は二人を捨ててそちらを選んだんだ。日に日に父親に似ていく江渡貝を見て、母親はもう二度と自分のような女を生み出してはいけないと、幼い江渡貝を去勢した」
    「なんで、そんな奴と……」
    「鶴見さんの知り合いでな。何度か顔を合わせているうちに気が合った」
     また鶴見。顔を顰める尾形をよそに、月島は江渡貝との関係の始まりを思い出す。面白い子が居てね、と紹介されて、目を合わせた瞬間にお互いを理解した。どちらも歪で、欠けたもの同士であると。
     それからは早かった。どうしても言えない、普通じゃない自分の体のことを他人と共有できるのは安心した。江渡貝は特段隠しているわけではなかったが、月島は己の全てを隠さなくてはいけないものだと思い込んでいた。だから、江渡貝の生き方には少しだけ救われたのだ。
    「欠けたもの同士って、なんか分かるんだよな。アイツらと一緒に居ると、少し楽に生きられる。人間になれた気がするんだ」
     江渡貝と共通の友人である前山はβだ。だが、彼は数多くいるβのように無知で無関心ではなく、理解があり、分からないことはきちんと学んで考えてくれる人間だった。α失格の江渡貝と、Ω失格の月島を、それぞれ『江渡貝弥作』と『月島基』と言う一人の人間として見てくれる男だ。
     三人で居る時、月島は人間としての生を実感する。自分にもこの二人と同じような人間としての部分が存在しているのだと、安心させてくれるのだ。
    「だから、江渡貝と関係はない。仮にアイツが去勢されてなくたって、俺は絶対に関係は持たなかっただろうな」
     また部屋に沈黙が満ちる。人間になれた気がする瞬間が、尾形にはあっただろうか。そうして自覚した。自分もまた、月島と同じように自分を獣だと思っているのだと。

    「俺、おれは、祝福の子のはずだったんですよ」
     尾形のどこか力ない声は、熱が籠ったぼんやりとした色のまま独白を続ける。月島は何も言わず、硬いベッドのフレームに背を預けながら聞いていた。
    「母は名のある芸妓で、客に惚れて俺を身籠って辞めました。母はそいつのことを運命の番だと信じていた。だから俺は祝福の子なのだと、何度も言い聞かされて育ちました」
    『百之助は祝福の子だからね。私と幸次郎さんの運命の元に生まれてくれた愛しい子。ありがとう、愛してるわ、百之助』
     記憶の中の“壊れていない母”はいつもそうやって尾形の頭を撫でた。壊れていない母は、いつだってあの男のことを口にしていた。顔は朧気にしか覚えていないというのに、あの男の好きな食べ物や花、天気なんかは覚えてしまっていたくらいだ。
     母はあの男のことを愛していた。どれだけ遠く離れていようとも、家に縛られたあの男が本妻を迎え入れようとも。手紙が来る度に一喜一憂しては、あの男が素晴らしいのかを尾形に語って聞かせた。
     だが、本妻との間に第一子が誕生したことによって、薄氷の上の幸福は呆気なく崩れ去った。あの男と本妻の間に生まれた子供——要するに、花沢勇作は。
    「祝福の子だったんです。間違いなく。俺のような偽物の祝福を与えられた子供などではなく」
     αとΩは、本能的に『祝福された子』の匂いを嗅ぎ分ける。それは遺伝子上に組み込まれている、強者への降伏である。屈服されせられるような、息が詰まるような、頭を垂れたくなるようなその感覚を月島は知っていた。抱いてごらん、と鶴見から預けられた赤子を受け取った時に体感していた。オリガは、祝福の子だった。
    「母はそれからあっという間に狂いました。あの人にとってのよすがは、自分があの男の運命の番である、それだけでしたから」
     祝福の子は運命の番からしか生まれない。そして、一人の人間が出会う運命の番はこの世で一人だけだ。——つまり。尾形は祝福の子などではなかった。祝福という型にはめられて歪に育て上げられただけの、ただのαだった。

     尾形の母はそれからあっという間に狂い堕ちた。帰ってきもしない男の為に毎日三人分の食事を作り、月に一度は必ず男の好物のあんこう鍋を作った。変わらず尾形を祝福の子として扱って愛したが、ふと正気に戻っては口汚く罵倒し、手を上げ、泣き喚いた。
     尾形はただじっと、壊れていく母親を眺めていた。
     そんな狂気に満ちた日々も長くは続かなかった。あれは夏を少し予感するような日差しの六月だった。まだランドセルに食われているような様子のまま、じっとりと汗をかきながら小学校から帰って来た幼い尾形は、いつものように自分で鍵を開けた。玄関には珍しく揃えられた母のハイヒールが置かれていた。
    「結局、母は死にました。風呂場で手首を切って、自殺です。遺書らしきものにはあの男のことしか書いていなかった。おれのことは、ひとことも」
     忘れもしない。ぴちゃり、ぴちゃり、ずっと水滴が落ちる音が響いていた。耳障りで仕方がなかったのに、やけにその音は耳についた。呼びかけても返事はない。
     水音が背中をぞわぞわと刺激するのを必死で無視して、靴を脱いでアパートの中に入った。生ぬるい空気は尾形の皮膚に膜を張るように纏わりついてきた。キッチンにも寝室にも彼女は居なかった。残るの、は。

     黒いランドセルを下ろさぬままに幼い尾形が見たのは、浴槽一杯に満たされた真っ赤な水に手首を浸からせて目を閉じる女だった。それは、もうとっくに母親であることを辞めてしまった、変わり果てた母の姿だった。

     ベッドの上からだと月島の坊主頭しか見えない。相変わらず首には無骨なベルトが巻かれている。その頼りない境界だけが、Ωの人権を守っているのだ。尾形はどこか焦点の定まらない目でその境目を見つめた。
     それから尾形は祖父母の元で育てられた。しかし、歪められた認識と価値観はどうにも上手く矯正することは出来ず、どこか育ち切れなかった子供のようなアンバランスな危うさのまま大人になった。
     祝福された子だ、と愛を注がれた。でも実際の己はそうではなかった。ならば、母から与えられたあの愛は偽物か? 祝福の子でない己には受け取る資格がないのだろうか?
     分からない。分からなかった。尾形はずっと分からなかった。迷子のまま、ずっと誰かに答えを与えてほしくて彷徨い続けていた。
    「俺の価値って、何でしょう。祝福されなかった人間に価値など在るのでしょうか。かちがないから、あのひとは、おれを」
     おいていった。じわり、と何かが滲んだ声は掠れていた。月島は初めてこの男の心の剥き出しの部分を見たような気がした。触れていいのだろうか、その恐る恐る開示された箇所に。人間が魚に触れて火傷させてしまうように、価値観の違う人間が容易に触れて傷を負わせてしまう可能性は大いにある。自分にその気がなくとも、自分の放った言葉が弾丸になって貫いてしまうことは、この世界ではよくあることだ。悲しいことに。
     それでも。それでも月島は、口を開いた。体温が同じであると悟ったのか、火傷をさせてもかまわないと思ったのかは、自分でも分からない。だが、この男のあまりにも幼い心の剥き出しの部分を、どうしても抱きしめてやりたくなったのだ。

    「尾形、お前、人間全部に何かしら価値があると思ってるのか。見かけによらず純粋だな」
     くつくつと笑う声と共に、坊主頭が揺れる。その声音に嘲りや憐憫の音色はなく、ただどこまでも愛らしいものを見る色をしていた。
    「そう思えるってんなら、お前は確かに母親に愛されてたよ」
     月島は目を閉じて言った。背後で芋虫のような布団の塊が蠢くのを感じた。
    「仮にだ。両親が健在で、何一つ不自由なく愛を注がれて育った人間が居るとする。要するに生まれながらに持っている人間だな。そいつが人を殺したとする。動機は誰でもいいから殺したかった、とかでどうだ。価値があると思うか?」
    「クズですな」
    「そうだ、元々与えられたものを蔑ろにしたんだ。じゃあ、お前はどうだ。妾の子で、母親に置いて逝かれて、本物だと思ってた祝福が偽物だったお前。でも今は立派に社会で働いていて、今のところ何の罪も犯してない。さっきの人殺しと比べて、お前の方が価値がないと思うか?」
    「…………」
     思いたくない。それは尾形の率直な感想だ。
    「勿論、生まれたときに与えられる価値はあるかもしれんがな。その後どう生きるかで、人間の価値なんて簡単に変動するだろう。どれだけ祝福されたって罪を犯せば悪人だし、どれだけ祝福されなくたって善行をすれば善人だ。生まれたときに全部決まっちまうなら、今頃この世はもっと悲惨だったろうよ」
     それはどこか、自分に言い聞かせているような色も含んでいた。どう生きるかで人間の価値などどうとでも変わる。そう思っていいのだろうか。祝福が与えられなくても、祝福された道があるのだと思っても、いいのだろうか。
    「少なくとも俺は尾形の方が価値があると思うぞ。お前は癖が強いが仕事は出来る。判断力もあるし、面倒見も悪くない。俺が信頼してる部下の一人だ」
     それは飾らない男の飾らない賛美だった。尾形のひび割れた心の壁に、それはするりと簡単に染み込んでいく。ピシリ、とヒビが広がる音がした。尾形が自分を護る為に築き上げた分厚い壁は、月島という存在に傷つけられて、少しずつ傷口を広げつつあった。のそり、と布団から身を起こして月島の坊主頭を見つめた。
    「……今、アンタに迷惑かけてんのに?」
    「仕事で倍にして返してもらう予定だから大丈夫だ」
    「自業自得でダメージ喰らってんのに」
    「それに関しては来週説教してもらうからな。そもそもお前、何でもかんでも一人でやろうとしすぎだ。あのプロジェクトだって普通はもっと大人数でやるべきだ。それなのにお前は——」
    「お説教は今要りません」
     いつも、一人で。上司の顔でそう続けようとする月島の顎を掬って、上から齧り付くように口付けた。かさついた唇を撫でて、半開きの咥内へと熱い熱い舌を差し込んだ。熱い、のは、熱のせいだけじゃないのかもしれない。手を添えた喉仏が隆起する。じゅ、じゅる、と水音を発するキスを不自然な体勢で受け入れた月島は、尾形の熱い舌が抜き取られてから少し苦しそうに咳き込んだ。
    「おい、病人」
    「ははあ、病人ですから。錯乱しとりました」
     寝てろ、とベッドに押し戻されて、尾形は素直に布団に潜り込んだ。ただし、極端に端に寄って。怪訝な顔で月島が見つめていると、尾形はぽすぽすと僅かに開いた自身の隣のスペースを叩いて見せた。
    「泊って行かれるんでしょう。あいにくベッドはこれしかないので」
    「ソファで寝る」
    「アンタならこれくらいでも十分でしょう。ね、早く」
     有無を言わさぬ様子に諦めたのか、月島はシャツとスラックスのまま隣に寝そべった。それを見て尾形は口の端だけを吊り上げて笑った。
    「もういいから早く寝ろ」
    「…………子守歌」
    「は?」
    「子守歌、何か歌ってくださいよ」
    『行きは良い良い帰りは怖い……』
     永遠と耳に残るのは母の声だ。壊れていない母親、壊れてしまった母。それを塗り替えたいのか思い出したいのかは分からないが、尾形は無性にこの男が歌っている姿が見たかった。自分の為だけに、自分の安らぎを願って歌って欲しかったのだ。
    「子守歌なんて、そんなもん……。あ」
     どうやら何か心当たりがあるようだ。黙り込んだ月島に大きな黒い目だけで上手に強請る。観念した月島は、あまり期待するなよ、と前置きをしてから、掠れるような小さな声で歌い始めた。つるりとやすり掛けされたような滑らかな声は、独特な響きの言語でメロディを紡ぎ出す。どこか薄暗い雰囲気が漂うそれは、月島の低い声と合わさってじっとりと重く尾形の鼓膜を震わせた。
    「…………ロシア語」
    「……よく分かったな」
    「大学で、ちょっと齧ってたんです。なんで……」
     月島はそれに答えずまた歌い始める。メロディに合わせてぽす、ぽす、と柔らかく腹の辺りを叩かれて、尾形の熱で満ちた身体はじわじわと蕩けだしていく。暗闇の中、月島の吐息と歌声と、衣擦れの音だけが響く。瞼がどんどんと落ちてきて、視界に映る月島の輪郭はぼやけて行った。その生白い頬が、何故か母親に重なって見える。
    「…………なん、だか。母を、おもい、だしました……」
     言葉の端が夢へと引きずり込まれながら、尾形は幼い声音でそう言った。素直な感想だった。だが。
    「――――」
     だが、月島の顔は、酷く歪んだ。苦しそうな、痛そうな、——泣きそうな。古い傷を抉られた痛みに喘ぐようなその表情が、尾形の脳裏に焼き鏝のように刻みつけられる。何故、何故そんな顔をする? 痛いのか、苦しいのか、それは何故なのだ。アンタにそんな顔をさせるのは誰なんだ。知りたい、と思った。触れたい、と思った。
    「……俺は母親になんかなれんよ、一生」
     月島の消え入りそうなその声だけが、暗く染まった視界の中鼓膜を震わせた。意識が、遠のく。

     あんなに気になっていた水滴の音は、もう耳に入ってこなかった。


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    flask_gk

    DONEメタル吉さんの可愛いイラストを見て、SSを書かせていただきました。
    あの素晴らしいイラストの世界がとても好きです。
    許可頂きありがとうございます!
    アイドルのぐんそーとぐんそー強火担のおがたアイドルのぐんそーとぐんそー強火担のおがた

    ぐんそー!こっち見て~
    ぐんそー!投げキッスして~
    ぐんそー!ムンキック見せて~

    そう、ここは熱狂と狂気が入り交じる通称少女団のコンサート会場。「樺太少女団」は非常に熱いファンが多いことで有名な二人組アイドルユニットである。
    「マタギ」ことゲンジロちゃんと「ぐんそー」ことツキシマからなるユニットで、ムキムキな肉体美をもつ二人が可愛いフリフリなスカート姿で踊るギャップが受けている。
    最初は「こんなムキムキなオッサンたちの女装とか誰得?」「冷やかしに行ってみるか」と、アイドルというよりは見世物小屋という感じで始まったユニットだった。しかし、マタギがワンテンポ遅れたダンスを必死に踊る姿が、観客たちの母性本能などをくすぐり、「なんかマタギ可愛く見えてきたんだが」「俺はゲンジロちゃんの同担拒否」などの声が大きくなっていった。それに連れて、チケットが取りにくくなり、次第に大きな会場でコンサートをするようになっていく。
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