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呼吸音を聞きながらページをめくる。
電子書籍隆盛の昨今だが七海は本の形態を好んでいる。それは「耳と耳の間にある最大の資産」の利率を上げるものだし、「最後まで売ってはならない」ものだから所持しておくこと自体に意味があるし、いずれ自分がこの世のものに所有権を持たなくなったとしても「低きに流す」ことができる媒体だからだ。
とはいえ。
たとえ海辺だろうと高原の一軒家だろうと、電気も電波も無くとも楽しめるものであっても、この状況では些かよろしくない。
ひとり寝の夜ならば好きに光量を調節し好きな姿勢で本を読むことができる。
しかしながら、今夜の七海の傍には五条がいる。
もうすっかり深い眠りに入り、髪の先、指先までぽかぽかと温かくなった、長々しい体を、ゆったりのびのびと弛緩させて、のんびりと呼吸している。砂浜に打ち寄せる波のように、ゆらゆら寄せては返す呼吸で、七海の腕まで揺れる。
五条の頭越しに開いたページは、そうでないとベッドライトの光が当たらず文字が読めないからだ。電子書籍ならバックライトでどの姿勢でも読めるのだろうけれど、薄暗い中では可読領域が制限されてしまう。
七海は伸ばした左腕の先、片手で本を開いている。途中には五条のもふもふとした白い頭があって、そのせいで左のページは半分ほど隠れてしまって見えない。仕方がないのでその部分を読むときは、右手で髪の毛を押さえつけることにした。
そうして静かにページが進み、楽しい思索の散歩にふけってしばらく、うっかり夢中になって五条の頭を押さえつけたままにしていたせいか、手の下で
「……ん〜」
といかにも眠たげな呻き声が聞こえた。
起こしてしまってはうるさいからと手を離したけれどもう遅い。
白い扇のような睫毛がゆるゆる上がり、その下から薄暗い中でも仄かに光を帯びた六眼が現れる。二、三度、まばたきをして、瞳孔が揺れる。それから七海の顔を見て、
「……おふぁよ〜」
と気の抜けた力の抜けたへろへろの挨拶をする。
「……まだ寝てていいですよ」
七海は本心からそう言ったのだけれど、五条はもう一度目を閉じようとはしない。代わりに
「オマエ本読んでんの? なに?」
とタイトルや目次を読もうとするし、栞も挟んでないのに閉じてしまってぽいとその辺に放り投げるし、挙げ句の果てには七海の頭を抱き抱えて
「眠れないんなら僕が腕枕してやる」
と嫌がらせなのか余計なお世話なのか判断しづらいことをしてくる。
「結構です。離してください。本が読めませんので」
「なんで? 僕に腕枕されたくないの?」
「やめてください。本も返してください」
「僕の腕枕、高いよ?」
「査定もとったことないくせに適当なこと言わないでください」
七海は諦めた。腕枕というよりも頭に両腕で抱きつかれているようなものだから寝るにしても寝にくくて、正直やってられないと内心イラっとはしたのだけれど、もうこの際は遠慮会釈もなく五条の肩口に頭を乗せて思い切り体重をかける。そうすると今度は五条の片脚が腰の上に乗ってきて、更に身動きが取れなくなった。
「五条さん、これは腕枕じゃなくて抱き枕じゃないですか?」
「え? そーなの? まーよくない?」
適当だな、七海は五条に対して何度も抱いた感想を今夜も抱く。
満足したらしくすぐに寝入った腕の中、どうしたものか。中途半端な照明の中、本はもう手元になく、抱き枕にされて寝返りも打てず。
暇にあかせて七海は、顔の上を通る五条の二の腕に口をつける。白くてすべすべしている。起こさない程度に、ごくごく軽く吸う。
軽く、ささやかに吸っていても、時間をかければ跡は付く。七海はだいだいいろの照明の中、ためつすがめつしながら、丁度いい色と大きさになるように調節する。
丁度いい色と大きさって何だと、七海は自分でも思ったけれど、今自分が動ける範囲で何かできるいたずらはないかと思いはせ、そのため機嫌も直り愉快な気分で白い腕に口を付ける。
二の腕だけでは足りなくて、肩から肘までかかったけれど、合計十個の小さなキスマーク、端から七個目だけ大きく濃くつけて、できあがりを眺めて満足する。
どうせ目が覚めたら反転術式ですぐに消してしまうだろうけれど、これを目にしたときの反応は面白そうだ。七海は少し朝が楽しみになる。
そうして五条の両腕の中でやっと目を閉じて、大きく息を吸い、ゆったりと長く息を吐く。じわじわと肩や腕や首から力を抜く。五条の呼吸のペースにつられてゆっくりと息をする。そうして七海にしては、寝つきよく眠りについた。