痴話喧嘩な七五.
出会い頭になーなみっとスキンシップをはかろうとして、肩に置こうとした手をはたき落とされる。そんな徹底した拒絶をされるなんて珍しくて、悟は目を丸くする。
高専の、駐車場に向かう道すがら。夕闇迫る薄暗い中に七海のぴかぴかの金髪とキリリと隙のないスーツの背中を見つけて、悟は喜んで飛びついた。いつものことだ。けれど、いつも通りに迷惑そうな顔をしながら、ため息などつきつつ、なんだかんだとくだらない話をダラダラする、そんないつもの七海は、今日はいない。悟の顔を見るなり、眦吊り上げて、叩き落とされた。
「……え、めちゃ怒ってる?」
「自分の胸に聞いてみたらどうですか」
元々低い声だが、今は地を這う低音だ。あまりの迫力で悟を慌てさせる。
「えっ、なに? ゴメンね?」
悟はまったく心当たりはない。最近は七海の好物を勝手に食べたりしてなかったはずだし、七海のものを勝手に使って壊したり汚したりもしていないはずだ。そもそもそんな程度でこんなに怒るような男じゃない。
「……『ゴメンね』? 軽い謝罪だ。軽薄にも程がある」
「うええ……」
こんなに怒るなんて人命に関わることでもあっただろうか。悟は一生懸命に記憶をさらうけれど、やっぱりわからない。近頃の仕事で、この優しい男が芯から腹を立てるような一般人の人命を軽んずる案件はなかったはずだし、悟自身がそんな任務に関わった覚えもない。下手を打ったり気付けなくて弱者を傷つけたり踏み躙ってしまったり、そんな迂闊も、していないはずだ。
本当に訳がわからないのに、目の前の七海は、長い付き合いになるが滅多に見ないほどに怒っている。あれ以来、なんてそっちの記憶もさらうけれど、こんなに、悟に対して怒っている七海を、高専時代でも見たことがあっただろうか。
しかし、何か、それも取り返しがつかない程の重大なことを、やらかしてしまったに違いない。
冗談やノリで押し通せるような限度はとうに過ぎている。原因もわからないまま謝罪を口にしたが怒りを煽っただけだ。さてこの上どうしたら。
怒る人を宥めるなんて慣れないことに腐心して、悟も動揺する。今にも斬りかかってきそうなほどに七海はまとう呪力すら色を為して怒り心頭だ。刃は向けてこなかったが拳は向けて、悟は思わず身構えた。殴られると思ったから、吹っ飛ばずに済むように、だ。
七海の拳は殴りはしなかった。代わりに、スタンドネックのジャケットの喉元を掴まれる。引っ張られてバランスを崩しかけ、二、三歩、たたらを踏む。
「いい気なものですね。見せつけているつもりですか?」
「え? 何を?」
七海は大きな舌打ちをした。
「……気づいてもいないんですか?」
忌々しげにそう吐き捨て、首元を掴んだままの手で、指を伸ばし、悟の首に触れた。
悟はその感触に首をすくめる。
「あ、蚊に……」
そこまで答えて、悟は、いったい何がどうしてこの状況になったのか理解したし、七海も自分の勘違いに気付いてしまったようだ。
「は? 蚊? アナタ無限はどうしたんですか」
「へへへ〜七海、もしかして僕が浮気したって思ってブチキレてたの? ざーんねん、浮気相手は蚊でした〜! ガキの頃以来だから慣れてなくて我慢できなくって掻きむしっちゃって、ちょっと酷いことになってるよねこれ」
「だから無限と、反転術式は?」
「あ、そっか、治せばいいんだ」
「五条さん、質問に答えてください」
悟はすっかりもうニヤニヤしていて、七海はその顔がイラつくとばかりに不機嫌顔だ。ただしさっきまでのような張り詰めたものなど跡形もなくなっている。
「朝、オマエんちで刺されたんだよね」
「だから無限は」
「オマエんちでは切ってるよ。反転術式も」
「初耳ですけど? 私のことは、オート選別じゃなかったんですか?」
「いやーだって特級と一級が一緒にいてるとこに喧嘩売ってくる奴もまぁいないだろうし? オフにしてても問題ないでしょ? 術式全部オフってダラダラするのガキの頃以来だしすごい楽だからちょっとやめたくないなー。でも高層階にも蚊っているもんだねー」
「なぜ今まで残しているんですか」
「日常生活ではエコモードって感じで脳だけの限定範囲で反転術式回してるんだよね。うっかりしてたよ」
悟は言いつつ、今日一日悩まされていた痒みの原因を治癒させてしまおうとした。
ところがその前に、七海が食いついてきた。文字通り、ガブリと。
蚊に刺されてぷくりと腫れたところを歯でつまみあげられる。掻き壊して血が滲み出ているのを、舌でぬるぬる何往復も舐めあげる。それこそまた血が滲みそうなくらいにじゅうと吸い上げられる。
それをしばらく繰り返して、やっと離れた。
「治すんだからいいでしょう」
手の甲で口を拭いながら、七海はしれっと言ってのける。
「オ、オマエな〜! 先に誤解でブチ切れてたのを謝るのがスジじゃないですかねぇ?」
虫刺されの上に重ねられた痕ごと反転術式で消して、悟は抗議する。
「だいたいそういやさ、僕のこと疑ったわけだよね? 浮気すると思ってんの?」
「思っていないからこそ虚をつかれて、つい怒ってしまったんですよ」
それから七海は、もう真っ白に戻った悟の首を指で触れた。悟は咄嗟に、また首をすくめる。指先の感触は、ぬるりとしていた。
「当たり前ですが、ケガは治せても、唾液はついたままですよね。今日はそれをつけたまま過ごしてください、私の溜飲が下がるように」
七海は言い捨てて、自分の車に乗るべくさっさと踵を返し歩き去った。悟はその背中に怒鳴る。
「一言ぐらい謝れー!」
どうやらここからが、ケンカの本番のようだ。