ななごのひ。 黒いフライパンの上ではスフレパンケーキがふるふると震えている。七海はその柔らかい物体を崩さぬよう、細心に気をつけてディッシュへと移す。その目はさながら年季の入った職人のように鋭い。手慣れた手つきでホイップしたバターを添えた。そこに更に、苺をはじめとした各種フルーツを一口サイズに切り揃え盛り付ける。包丁の扱いは剣豪の演舞のようだ。最後にアイスクリームをトッピングし、カウンターテーブルへ。
お待ちかねだった七海の愛妻は満面の笑みだ。早速フォークを手に取り、ひらりと掬い取ってピンクの唇の中へ滑りこませ、咀嚼する。
「おいし〜! とろける~! 七海、最高〜!」
「そうでしょう、日々研鑽を続けていますからね」
エプロン姿で胸を張り、七海は自分の仕事を誇る。そのエプロンの胸には刺繍で「Work is shit」だ。これは愛しい妻から、主夫業を始める際に贈ってもらったハンドメイド。七海はこれをすこぶる気に入り、愛用している。
呪術高専を卒業後、一般企業へと就職をした七海だが、勤務四年目にして寿退社をした。以来、現代最強呪術師の内助の功として主夫業に励んでいる。
七海とて最初は悩んだ。まだまだ若い男だ。呪術界は去ったとはいえ、一般企業では社長にも目をかけてもらい出世コースだ。自分の能力がどこまで通用するのか試してみたい欲望もある。そこそこで早期退職するつもりだが、それまでの間に精々職位を上げて退職金のカサ増しもしておきたい。試算した限りではなかなかの額にもなるし、贅沢さえしなければ悠々自適の生活には充分……。
といったところで、学生結婚をした七海の妻である五条悟は、
「早期退職してから悠々自適生活するのと、今すぐ専業主夫になって悠々自適生活をするのと、なんか違いってある?」
と無邪気な顔をして尋ねてきた。
それは恐らくは七海の仕事ぶりが、無理を通すから無茶をするレベルにブラック度が増してきていることを心配しての提案だったのだろう。
だが七海はそこではたと、妻の顔をまじまじと見た。
同じ屋根の下で寝食を共にしているはずなのに、まともに顔を合わせるのは久しぶりだった。
学生の頃からちっとも変わらないように見える童顔は、しかし少しばかり疲れて見える。
七海はよく知っている。悟は大抵のことは何でもできてしまうからいつでも何でもないようなケロリとした顔をしているけれど、その実、周りの人間を救おうと、この世界を少しでも良くしようと、縦横無尽に走り回って身を削っている。痩せ我慢が得意だから、顔に出るほど疲れを見せるなど、よほどのとき……。
同じ屋根の下で暮らしていて、夫という立場ながら、悟が今現在どんな生活を送っているのか、七海はさっぱりわからなくなっていた。七海はその事実に愕然とした。幸せにすると約束したあの日、こんな結婚生活を送るつもりじゃなかったのに。
七海は寿退社をすることを決めた。最強の呪術師の栄養管理と生活習慣改善が、七海の新しい使命となったのだ。
ほっておくと栄養サプリと甘ったるい飲み物、それからケーキだけで三食済ませてしまう人の、一日の栄養とカロリーを計算して食事をさせる。手入れなどろくすっぽしない人の髪や肌にオイルやクリームなどを塗り込み、髪をブローしてやり、軽食を持たせて送り出す。
部屋は常に過ごしやすいように、落ち着けるように整えて、より快適になるように日々ブラッシュアップも欠かさない。日用品は決して切らすことなく補充し、妻の好みを考慮して新作もチェックする。
そうして暮らすうち、七海は、主夫業こそが天職だったと天啓を得るのだ。
「なーなみ、いってきまーす」
今朝もご機嫌で出勤する妻のほおはあの日とは違い健康的につやつやと輝いている。もともと若く見えるが、肌や髪のツヤなど教え子の十代と並んでも引けを取らないくらいだ。よく手入れされたそれらを見て、七海はここでも自分の仕事に満足する。そして
「お弁当はちゃんとお昼の時間に食べてくださいね」
と、「うっかり食べるの忘れてて、夜になってから慌てて食べた」なんてことにならないように小言を口にして、その口でキスもして、送り出す。
なんでもすぐに顔に出る悟は、今やまさに幸福の絶頂といった笑顔で
「なるべく早く帰ってくるね」
と出勤していった。
さてここからが大忙しだ。
朝食の片付けをし、洗濯、掃除、花瓶の花やベランダの植木鉢の手入れ、手際よくやっても家事は「ここまでやれば充分」の線がないのでどこまででも凝れる。
一人きりの昼食は手抜きをして簡単に済ませ、今夜は何を作ろうかと、二人きりのディナーのメニューを考える。早く決めなければ、メニューによってはいつもの店よりも遠くまで買い出しに行く必要が生まれる。
七海はいつもよりも真剣だ。本日、七月三日は特別な日。七海が十八になってすぐに籍を入れたので、今夜は、五条悟との十年目の結婚記念日なのだ。
七海が愛車を向かわせたのは渋谷方面だ。目的のグロッサリーに目当ての品が入荷しているかどうかと逸る気持ちでアクセルを踏む。もっと早くからメニューも決めて材料も準備しておけばよかったのだが、朝のパンケーキとディナーのデザートをどうするかで頭がいっぱいで、アンティパストの詳細までは練りきれていなかったのだ。
買い物の際によく使っているいつもの駐車場に車を停めた。降車の際に七海は一度、動きを止め、進むか戻るかを僅かだけ逡巡した。が、エコバックを肩に、エプロンの裾を靡かせてアスファルトの上に降りたち、車のドアを閉めた。
渋谷に帳が降りたのだ。それも、特大サイズ。
今日という大事な日に面倒ごとに関わりたくはない。そもそももう呪術師でもない。愛妻の今日の現場も、渋谷ではない。
だが、これだけ大きな帳を降ろしたのであれば、特級呪術師に緊急任務の指令が出てもおかしくはない。顔見知りの補助監督や窓を見つけたら、状況を聞くぐらいはしておこうと。
渋谷の街を歩き始めて七海は驚いた。まっすぐに帳の縁を目指す七海の視界、真昼間だというのにまるで人影を見とめない。そして真円となっている帳の境界線沿いに歩けば、帳の中には逆に密に人々の姿が見える。その一般非術師と思われる人群れが、口々にこう訴えているのだ。
「五条悟を連れてこい」
七海は想定できる帳の境界線沿い、術師が拠点としそうなポイントを絞って足を急がせた。すぐにメトロ渋谷駅出口付近で伊地知を見つける。
「随分と面倒なことになっていますね」
「七海さん、お久しぶりです!」
「それで、五条さんは?」
七月の蒸し暑い昼日中だ。お互い汗をかいている。伊地知は眼鏡の下、鼻の頭を白いハンカチで拭いながら答える。
「今日の任務地へ出かけていらっしゃいましたが、呼び戻させていただき、先ほど到着したとのことで」
「なるほど、やはり五条さんが出ることになったわけですね」
七海は眉間の皺を深くした。
「は、はい。すみません。現時点で敵の目的は不明です。なぜ五条さんを呼んでいるのかはわかりません。ですが……」
七海は腕を組み、ため息をついた。ちょうどその組んだ腕のあたりに、work is shitの刺繍だ。
昼日中の渋谷に、一般人を巻き込んだ巨大な帳、そんな大それたことをしでかす呪詛師が相手なのだ。戦力の逐次投入は愚の骨頂、最初から最強のカード五条悟で一気に平定してしまうのがおそらく最も被害が少ない。それは七海にもわかる。だが、
「現在渋谷に配置されている味方について教えてもらえますか」
そう伊地知に情報漏洩を打診したそのときだ。
巨大な帳はあっけなく解かれた。
閉じ込められていた人々もどっと溢れ、口々に悲鳴や罵声、方々に散っていく。
「あれ?」
伊地知が素っ頓狂な声を上げたそのとき、
「あ、ナーナミーン! 久しぶり! 五条先生が封印されちゃったんだけどー! スイーツビュッフェに!」
と元気な若人の声が轟いた。
「どういうことですか虎杖君!」
「なんか先生の元同級生? 変な宗教家みたいな人がさ、や、悟、久しぶり! 今からスイーツビュッフェ行かない? て、先生を連れていっちゃった。困ったなー、帳を降ろしたハンニン、呪詛師だか呪霊だかわかんないけど、まだ祓えてないよねー? それとも帳がなくなったから、もういいのかなー?」
七海はそのわずかな特徴の報告だけで、相手がいかなる人物か、よくわかった。そして今日この大事な日に有無を言わさず悟を連れ出すためだけに、こういう大規模な犯罪紛いのお騒がせをする人物に、心当たりなど一人しかいなかった。
「……もし封印が本当なら、終わりです、今日のディナーは全て」
七海には更に、我が愛妻がひとたびビュッフェに立ち入れば、時間制限目一杯までケーキを食べ続けることも、そのためディナーが「お腹いっぱいもう食べらんない」となることも、よくわかっていた。
七海はすらりと、愛用の三徳包丁を抜いた。
「……五条さんを奪還します」
「お? おう! てゆーかナナミン、包丁持ち歩いてんの!?」
本日結婚十周年の記念日に、七海は、久々に戦闘の場へと立ち戻ることとなった。