まだみぬ きみへ「あ」
思わず声が出た。
見慣れたアパートの階段からこれまた見慣れた高校指定ジャージを着た大男が大きく足音を立てて降りてきた。慌てているように見えて、実はそれほど慌てていないのは短い付き合いでもよく分かる。
ふらふら、よたよた、と。
その足取りは限りなく危うい。
今なら小学生でも勝てそうだ。
大きな図体のわりに普段の生活では基礎能力の半分も発揮していないように見える。今だってこんな時間にこんなところでぐずぐずしているところをみると朝寝坊に違いない。紅葉の見ごろも過ぎ去ろうとしているこの時期、全国と冬の選抜を逃した陵南高校バスケットボール部は、部員一丸となって切磋琢磨し年明けの新人戦に向かっていた。だが夏季の最盛期と比べれば多少はペースは緩やかだ。
あくまで最盛期と比べればの話だが。
雨上がりのアメンボのようにふらふらと走る男は、それでも髪型を気にしているのかしきりに頭に手をやり往生際悪く毛先を摘まんだり引っ張ったりしている。その後ろ姿を見送り思わず吹き出した。
「全力で走れよ」
ばーか!
越野はそう呟いて、小さく笑った。
ふと、仙道がつんのめるように急ブレーキをかけ後ろを振り返った。
「越野?」
まさか振り返るとは思いもしなくて、越野は数瞬、硬直したように立ち止る。しかしすぐに立ち直ると、こちらを向いて何やら笑っている同輩のエースをじろりと睨んだ。
「…遅刻だぞ!」
「…お前もだろ?」
「俺はいいの!」
笑っていたことを誤魔化すかのように少し怒った顔で言い返した。仙道は怒りんぼうなチームメイトの態度など御見通しとばかりに和やかな表情で、こちらに向かって歩いている越野をその場で待っていた。
「待ってないで走れ!」
「いいじゃん、いっしょに先生に叱られような」
「だから俺はいいんだってば!」
「なんで」
「歯医者!抜歯の日!って昨日言った!」
本当に忘れっぽい男だ。
そうこうしている間に越野は仙道に追いついてしまい、仕方なく、見上げるほどの大男の隣に並んで歩みを進めた。
「あー、それで片方腫れてんのか」
「突くな!」
いたずらな人差し指から腫れてしまった頬をかばうように隠した。
「練習できるのか?」
「今日一日は運動厳禁て言われた」
「え、それなのに来たのか?」
「はあ?一年坊主なんてやることたくさんあるだろ」
呆れたように言ったら仙道は目を丸くしていた。
なんでだよ。
アパートの手前にある郵便局の年末恒例の垂れ幕を横目にやりながら、今年が終わる気配を感じてそういえば仙道は年賀状なんて書かなさそうだなあ、などとぼんやりと思っていた矢先の出来事だった。越野が通う歯医者から高校までの道のりの途中に仙道が一人で暮らすアパートがあるのは知っていたが、こうして二人並んで登校するのは初めてだった。
ひとりだとそれほど気にならなかった景色が、ふたりだととたんに目に入るようになる。
きちんと舗装された横断歩道は渡らずに、アパートの目の前を走る県道を挟んだ向こう側、車が行き来できないのに一方通行でないのが不思議なほど狭い道路がちょっとした近道だ。住宅街を縫うように走る、そこに住んでいる人間しか通らないような細い細い道の支流を越えた先、今まで見逃していた景色たち。熟れ過ぎた柿の木と、まだ青さが残る柚子の木や、かたや立派な邸宅の立派な松の木、庭から飛び出しまるで短いアーチのように広がる名前も知らない花の枝。その中でとりわけ目を引く存在感のある庭先。
「なあなあ、ここんち電飾すげえな」
「夜になるとここだけエレクトリカルパレードになる」
「気合入ってるなあ~」
ちょっと見たいなって笑って呟いたら、隣から「そのうちな」って、楽しそうな声が聞こえた。
すぐに忘れるくせに。
冬季の土曜練習は午前九時から二時間毎に小休憩と昼休憩を挟んで午後四時までである。十時過ぎに練習場に到着した越野と仙道は、三年生が引退した今年の夏以降に副主将に就いた池上の前で揃って並んでいた。れっきとした理由があろうが遅れて行くこと自体に抵抗を感じ、越野は緊張した面持ちで池上の言葉を待っていた。
「二人仲良く重役出勤だな」
「遅れてすみません、池上さん」
「越野はいいよ、田岡先生から聞いてるから」
「じゃあ俺も」
「お前のことは聞いていない」
しれっと逃れようとした仙道を越野が肘で小突いた。
「今日一日、越野はマネージャーの指示で動いてくれ」
「はい!」
「仙道、外周五周してから合流しろ」
「ええー」
「早く行け」
越野がしっしっと追い払うように手を振った。
「越野も行こうよ」
「俺は運動厳禁なんだよ!」
忘れっぽいにもほどがある。
午前練習終了の合図が鳴り響いた。
初冬といえど、練習場は監督田岡に扱き倒されたバスケ部員の熱気をはらみ少し暑いくらいだった。
海沿いの学校らしく、この時期でも晴れた日は暖かく少し動けば汗ばむほどだ。それでも越野が両開きの重い扉を開け放てば、火照った身体にひやりと心地よい風が吹き込んでくる。それぞれコート脇やステージに無造作に置きっぱなしのタオルとドリンクボトルを取り、汗が身体を冷やさないうちに軽く拭って部室棟へと向かって行った。
「ほら」
ずい、と顔面に押し付けられた青いタオル。仙道は、それが自分の物であることはすぐに分かった。
「サンキュ」
「ぼーっとしてるとあっという間に休憩終わっちまうぞ」
ぶっきらぼうに渡されたタオルとドリンクボトルを手に取って、仙道は何とは無しに越野の顔を注視する。朝よりもだいぶ腫れてきた頬を性懲りもなく突いたらまたかと睨み上げられた。
「痛くないのか?」
「まだ平気、ピークは明日らしいけど」
今夜のことを思っているのか、顔が自然としかめ面になる。すると、マネージャーが越野を呼び寄せる声が聞こえてきた。元気よくそれに応えると、じゃあしっかり水分とれよ、冬場でも脱水症になることあるんだからな、と、さながら専属マネージャーのように仙道に言い聞かせて元の場所へ戻ってしまった。なるほど、今日一日は練習に参加出来ない代わりにマネージャー業務に勤しむのか。越野はマネージャーに確認しながら休憩明けの練習で使用する道具を倉庫から出したり、模擬戦でそれぞれ身につけるビブスを人数分用意したりと、まあ何かと動き回っていた。
適当に昼食をとって練習場に戻ってきた仙道は、スクイズボトルにひとつずつウォータージャグからスポーツドリンクを詰めている越野をみて少し眉をひそめた。
「越野」
「ん?ああ、早いな、ちゃんとめし食った?」
それはこっちの台詞だ。
「ボトルの補充は個人に任せてるだろ」
「やさしーだろ」
そんな仙道の態度をものともせず、今日だけだからなと笑う表情は少し得意気だ。きっちり人数分のボトルに詰め終わると、よいせと台車にジャグを乗せて各部共通の給湯室へ引っ張って行った。越野は何やら隣でぼんやりと付いてくる仙道を訝しげに見上げた。
「おまえ休んでこいよ。いつも昼寝してるだろ」
「そっちこそ休んでないだろ」
「めし食えねえし、練習してないからそんな疲れてないし」
だから俺はいいの!と平気そうな顔で言う。
「朝からそればっかり」
身体を屈めて越野の顔を覗きこんだ。
「マネージャーたちほんと忙しそうなんだよ、こんな時くらい手伝いたいだろ」
「まあ、それは」
少々きまりが悪そうに顔をあげた。
(もしかして心配でもしてくれているのだろうか)
「こんなのバスケ好きじゃなきゃできねーよ」
よく分からないが自分を気にかけてくれている仙道に少し宥めるように言った。生意気盛りの高校生相手に、少し大人な彼らは真剣に、時として肉親以上に親身にサポートする。プレイヤーではなく、監督と二人三脚でサポートとしてバスケに関わることを選んだ理由を越野は知らない。それほどまでに好きな情熱を、コートではなく選手ひとりひとりに注ぐ姿を不思議に思ったことすらある。
いずれは、遠い未来。
自分もその道を選ぶ時が来るかもしれないと、時々漠然と感じる時がある。
高校に、陵南に入ってバスケットボールに対する見方が、少し変わってきたのかもしれない。
(でも、今はまだ)
ちらりと隣を見上げる。
天才と謳われた最高のプレイヤー。
田岡が東京から連れてきた大物ルーキー。
越野の同輩。越野の憧れ。
こんなすごい男がチームにいるのだ。
三年間いっしょにバスケをめいいっぱい楽しみたい。一分一秒でも時間が惜しかった。
「あー、はやくバスケしたいなあ」
「今日一日の辛抱だろ」
「来週から部活禁止じゃん!」
「そうだったっけ?」
どれだけ記憶を失えばすむのだ。
「赤点取るなよ」
「後で試験範囲教えて」
ついでにノートも見せてと言われたのでおもいっきり尻を叩いてやった。
順調に午後の練習も無事に終わりコートには生ける屍が大量に転がっていた。定期考査を一週間後に控えた最後の練習日らしく田岡の檄もいつも以上に飛び交う一日だった。
「おい福田、生きてるか」
「………」
越野はおそるおそる声をかけ、コートに突っ伏していた福田は応えるように身体を起こした。田岡は一年生の中で特に福田に厳しく指導をしている。期待の表れだということは全員理解はしていたが、それでも時折不安になる。
(本当に大丈夫なんだろうか…)
越野の不安は、三ヶ月後に見事に的中することになる。
一年生全員でコートの後片付けを終え、先に上がった二年生がいなくなった部室でだらだらと喋りながら着替えていると、突然部室のドアが開かれ早く帰って勉強しろと田岡が雷を落としていった。慌てて外に出てみればタイミングよく日没を迎える頃の空だった。
マジックアワー
今ごろは、七里ヶ浜の砂浜には夕暮れ時の幻想的な空のショーを楽しむ人達が集まっていることだろう。
西の稜線に太陽が沈み、海まで茜色に染めた焼けた空。日没後の数分間、誰もが足を止めて空を仰ぐ。
鎌倉の海沿い育ちで幼い頃から見慣れてしまったけど、初めて仙道を連れて海岸からこの幻想的な空を見せた時、珍しく感嘆とした声をあげたことを越野はずっと覚えていた。
「越野」
「なに?」
みんなと共に駅まで向かう時だった。
「観ないのかよ、エレクトリカルパレード」
仙道が少し拗ねたように言うと、一瞬呆けたようにした越野が大笑いした。
「観る!」
弾むような足取りで仙道の隣に並ぶと、植草たちがなんのことだ?と不思議そうな顔をしていた。
何でもかんでもすぐに忘れる男なのにどうしてこんなくだらないことは覚えているのか。仕方ないから出題範囲もノートも見せてやるか。仙道が写し終えるのが先か越野の奥歯が悲鳴を上げるのが先か。
そもそも今日中に終わるのだろうか。
さんざん突つかれた頬に手を当てて、明日は仙道の部屋から歯医者へ行ってもいいかな、と。
長い夜になりそうだ
そんな予感がして、越野は機嫌よく歩く仙道を見上げて少し笑った。
end