Good-bye Snow Whiteさよなら、スノウホワイト
まったく、恋する女ってのは綺麗なもんだ───。
白魚の様な指先が、天に向かって伸ばされて。
温かく柔らかで、無防備な雛の子でも包む様にしてその掌に載せるのは、真逆の無機質な冷たさなのだから、マルコは鼻を啜って自分の愛用のブランケットを肩に羽織直すのだった。
「トキよい、雪にはしゃぐ気持ちは分からないでもないけどさ、風邪引いちまうよ?」
「あら、マルコ。ごめんなさい、起こしてしまったかしら」
「見習いの朝は早いんだ、気にすんな」
まだ、光月おでんがトキと共に船に乗っていた頃の話だ。
空には月がまだ冴えざえと残っていたが、青みがかった銀の皿の下では昨日の夜から雪が止むことなく降り続けていた。さくり、とブーツを踏み出せば甲板に跡がくっきりと付く。そのまま歩み寄って、華奢な掌に自分の手袋を外して付けてやれば鼻の先を仄かに赤くした女が瞳を瞬かせた後、少女の様に屈託なく笑う。
「ありがとう、マルコは優しいわ」
「優しいと思うなら、さっさと船室内に戻りなよ。…冷えは身体に障るよい」
「うふふ、そうね…ごめんなさい、珍しかったから…ついつい見惚れてしまったの」
「雪が?」
背丈こそあれそのほっそりとした身体に、もう一つの命を授かっていると知った時。マルコが船医の後ろに控えながら覚えたのは、心臓の裏から囁きかける様な密やかな恐怖だった。
人間は暗闇を恐れるのではない。暗闇の中に潜む何かが自分を傷付けるのではないかと恐れている。見知らぬ海という冒険に繰り出す時の高揚にさえ僅かに、ほんの少しばかりの死の恐怖が隠れている。
ならば、人体という世界の中で今一つの"異変"が起きようとしている。喜びに咲う母親と、期待に破顔う父親になったトキとおでんが途方もなく遥か彼方の存在に感じられたのが、まだ三ヶ月ほど前の話だった。
「雪、珍しいのか?トキの育った国では」
「雪自体が珍しいんじゃないの。ほら、見て?貸してくれた手袋のおかげで、よく分かるでしょう」
言っても聞かないのだから仕方がない。
暴れる患者としての野郎なら、麻酔という名前の金槌を持って殴り付けるところではあるが、身重の女性にあげる拳なんてものほ持ち合わせていない。
せめてもの雪除けに、バサリと右腕のみを翼に広げ娘から母へと変わろうとする仲間を覆ってやる。仲間同士の距離に腹を立てる様な狭量な男ではなかったが、そもそもおでんは遠征に赴いている。
最初、おでんの帰りを待ち侘びて遠くを見渡しているのかと思った。一瞬だけだ、トキはそんなに弱くない。
「雪の形…」
「えぇ、ほら。雪の形は、出来た境遇で変わるの、出来た気温や湿度によって随分と…でも、同じ状況で今は天から降ってきているのに、こんなに種類が違うのはどうしてかしら」
トキの言葉は、柔らかく嫋やかで凛としていて耳に残る。産まれたのが八百年も過去であると、大真面目に口にする出生を誰一人立ち入ろうとはしない。
産まれた場所も、環境も、知ろうとしないのは薄情ではなく今ある場所で咲く彼女だけ知っていれば、それで充分だったからだ。
「これがほら、樹枝付角板、六角形の頂点からそれぞれ枝の様に結晶が伸びているでしょう?こっちは、扇六花に広幅六花…綺麗……、そっちは十二花なのね、偉大なる航路は不思議がいっぱい…」
「雪の花ってか、んじゃ…こっちの単純な形のは?」
「それはね、砲弾」
「な、洒落た名前ばっかりだったってのに!?」
「でも、そういう名前だもの」
くすくすと声を立てて笑う、その顔の穏やかさに自分が選んだ武骨な結晶までが溶けていく思いでマルコは頭を掻く。
「わーった、わかったよ、ほら中に入ろう、トキ。お前だけの身体じゃねぇんだ、なんかあったらおれはおでんに顔向け出来ねェよ」
船旅だって危ないのに、乗り込んだのは海賊船だ。惹かれ合う男女があれば、当然の結果とはいえ万全を期して備えなくてはならない。
「おでんが居なくて心細いかもしれねェが、なるべく甲板に出る時だって誰か連れてから上がってくれ。海には近寄らない様に、落ちたとしてもすぐに助け出せる面々とは限らないからな」
「えぇ、気を付けるわ。小さなお医者さんの言う通りにする」
「あれ、やけに素直だな」
「心配させたいわけじゃないもの。今日は…何だか胸がワクワクしてしまって、雪があんまり綺麗だから寒さを忘れてしまったの。反省してるわ」
「ふぅん…、」
「手袋ありがとう、洗って返すわ」
「別に良いよ、それより…なんだかな」
「えっ?」
仮にも医学の道を志した者としては、それで宜しいとする場であった。だが、マルコの一度緩く閉じられた唇から言葉は勝手に落ちていく。
「いつものトキだったら、私はそんなに弱くないもの、とか言い返すから…」
何を言っているのかと、自分でも思っていた。
だから、変なことを言ったと船室への扉に手をかけて促そうとした相手の眼差しの真っ直ぐさに、指先が寒さではなく取手を掴み損ねて滑る。
「弱くはないわ、でも……強くもない。まだ、強くないの」
「…それって、どういう」
「強くなりたいって思えるってことは、まだ強くないのよ。……マルコにも、そのうち分かるわ」
紅の引かれた唇が、雪の中ではよく映える。
掌を、自分のまだ膨らみを見せてきたばかりの腹部に当てて、落ちていた視線が再び合わさった時。トキは確かに笑っていた。
「マルコは、こわい…?」
「怖いだって?何がだよい、おれァ別に怖いものなんて…、」
その眼差しを、マルコは知っている。
自分には備わっていない、自分に惜しむことなく注がれる眼差しは常に近くにあったことも。
「だってマルコ、────は、─────……、」
思い出そうとしても、思い出すことができない。
雪の中に、まるでその記憶を全て置いてきてしまったようで。
トキの動く唇が、雪の中に咲く赤い花弁のようでもあり、別の見慣れた赤の色であったような気がして。
マルコの心を、雪の日には酷く騒がせる。
✳︎
「───マルコ、マルコ、マルコ!!待てって、何でそんなに怒ってんだよ!!まだ、話聞いてねェじゃんか!!」
「冗談でも許さねェこと言ってる自覚、あるか?お前が船を降りる時は…オールブルーを見付けるか、病で陸に上がるか、死んで海に還る時か…その三つだろ」
「は、初耳〜〜……」
サッチは投げ付けるように押し付けられたベッドを背に、両手を挙げる。降参、敵意はなし、丸腰。流石に、無法者とはいえ少しは警戒が和らぎそうなものだが、鉤爪をサッチの肩に対して楔のように打ち込んできたマルコの覇気は少しも引いていかない。
覇王色の覇気は生まれながらの素質で決まるというが、威圧感だけでいうならマルコも中々だ。
「ふざけんな、オールブルーは見つかってねェ。病の気はねェ。そんでもって、まだ生きてるお前が…何を降りるって?」
「お前が説明させてくれないんだろうが、……降りるって言っても、一生降りるわけじゃない。おれの夢は今でもオールブルーを見付けることだよ」
「それに一番近い船が、これじゃなかったのかよい」
サッチがマルコの脚を軽く叩く。
「夢を叶える為には、この船に乗ってるだけじゃ駄目だってことに気付いたんだ。これ、どかせよ」
「……」
「ちゃんと説明するから、理由は二つある」
じっと見つめる眼差しに、人差し指と中指を立て返す口元は笑みには足りないながら緩やかな曲線を描いている。脚部をゆっくりと警戒しながら引っ込めながら憤りを隠せないマルコとは違い、漸く自由になった肩を摩りながらサッチは身を起こした。
「船に乗ってるだけで駄目ってのはなんだよ」
「いてて、本当に脳筋なんだから……、言ってる通りだ。この船はさ、どこに進んでると思う?」
「どこって…、」
「ロジャーが言ってたワンピースを探そうって考えも、ラフテルに到着しようって考えもオヤジにはない。おれはそれで良いと思ってるよ、旅の中でいつかオールブルーに辿り着ければ良い。でも、思うんだ」
サッチは変わらず、気の抜けた顔でへらりと笑う。
「多分、おれがおれの信念を貫き通すには、もうそろそろ限界だって。いや、もう越しちまってて本当は溢れ始めてるんだ。グラスの中の…水みたいに。少しずつ溢れてる。これ以上、目を瞑って気付かないフリをしてたくないんだ」
「どういう…分かんねぇよ、おれに分かるように言えって!」
焦ったいと首元を掴む兄弟分に、サッチは笑みを崩さない。それがマルコの神経を逆立てたとしても、決意が揺るがないという証拠のように。
いつか見た光景だった。
「───マルコ、おれが投げた包丁覚えてるだろ」
噛み付かんばかりの勢いだったマルコの圧が、鼻っ柱で掌でも叩かれた犬のように怯んで霧散する。淡々とした口調で、サッチはその隙を逃すことなく言葉を連ねていく。
「あれが…きっと、おれの限界……、お前に、この船に乗っていくには、おれは…弱過ぎるんだよ、はやい話が、"こわい"んだ」
「何言って…、弱くねェよ!お前は、おれを助けてくれたじゃねェか!船燃やして、ぶつけて、その間に夜の海泳いで…、撃たれまでして、おれを救ってくれたじゃねェか…!」
眉を八の字に垂らすサッチは、その話をしたがらない。だが、マルコにとっては永遠に忘れることのできない時間で、記憶で、自分の力を過信した傲慢さへの戒めだった。
「……っおれはもう、隊長だ!強くなったし、これからの海が不安だって言うなら、おれがお前を導く…怖くねぇ、モビーに乗ることを決めたのはお前自身かも知らねぇが…連れて来たのはおれだ、そうだろ…?」
怖くない。
怖くないと、暗示のように繰り返す。
白ひげ海賊団は、規模を拡大するにつれて構成も大きく変わった。複数の隊に分けられ、隊長同士は五分の盃。能力や地位に序列はない。中でもマルコが最年少で隊長格を勝ち取ったのは、白ひげに対して"有能"な息子であろうと思ったのも事実であるが、それだけでない。
「お前のことは、あの時から根性あるヤツだって…、そりゃいきなり船に乗るとか言い出した時は、還る場所があるのにだの、思ったりはしたが…!!」
「じゃあさ、何で根性あるヤツだって思ってくれたの?」
「それ、は───…、」
マルコの好きな緑の瞳がこんな時ばかり、陸を思わせて嫌になる。言葉を詰まらせるマルコに、悪ぃと困ったようにまた笑うのは宴の夜にこんな言い争いになったことか。それとも、既に決めた心はどんなに打ち付ける波にも揺るがないと分かっているからなのか。
「……おれが、決めたことを馬鹿みたいに守れたからじゃねぇのか?」
するりと、サッチの両掌が首元を掴んだままのマルコの掌を包み込む。離したら、きっともう二度と掴むことはない。本能が告げていたのに、マルコの指先からは力が抜けていく。
「後悔はしてない。けど、おれの拳が…投げ付ける包丁より速くて強かったら?おれは包丁投げずに、この手でアイツを殴ってたよ。……あの時…おれは、相手を止まる為に、包丁を投げ付けた。アイツが、死んでも構わないって思ってたから投げられた」
海に触れた時みたいに、意志も何もかもお構いなしに───呆気なく。
「それじゃ、次は……?仲間を助ける為なら、おれは……"食材に毒を仕込む"かもしれない…おれ、そうは…」
─── そうはなりたくないんだ。
その時、マルコが心底殴り付けたかったのは、それが怖いと両手の拳に項垂れ肩を振るわせる兄弟分ではなくて、どこまでも間抜けな自分の脳天だった。
✳︎
「……いつ、出る」
それでも、マルコが絞り出した言葉にサッチは分かりやすく安堵を浮かべる。元からマルコの承諾があろうとなかろうと、船に乗るのも降りるのも許可を出すのは船長だ。関係はないが、お互いの関係を拗れさせるのはもう御免だった。
「おまえは…ならねェよ、絶対…絶対に、おれ達が望んでねェからだ。料理に毒仕込むなんてこと、しない」
「……セルレジーアのことは忘れられない。おれの根っこだ」
サッチの生まれ故郷の話だ。
北の海の内乱が、サッチの小さい妹と弟達を奪った。自勇軍達が奪った王国側の食材に巧妙に混ぜ込まれていた毒物は、反乱因子という虫を駆除する為の罠餌としてわざと送られて来たのである。
腕の中で帰らぬ命となったその重さを、サッチは今膝の上におろした上に再び感じ取っているかのようだった。
「……けど、それだって逆の方向から見ればどうだ?仲間達をこれ以上減らさない為に…誰かが苦渋の選択で決めたことかもしれない。許すことなんかできない、だが…、」
「敵に同情してたらキリがねェ、そういう弱さはお前が目指す強さってのとは真逆なところにあるんだ」
すっかり酔いなんてものは醒めていたが、飲まずにはいられなかった。マルコは辛うじて中身の残っていた瓶を荒々しく口元に付けて一気に煽ると、唇を拭う。外の喧々囂々たる様子がいつの間にか、ひっそりと音を潜めていたかと思えば窓外には酔っ払いの足取りより覚束ない回雪が一片、二片。落ちては、硝子に溶けて張り付く様だった。
「そう…だな、今後は割り切って、そういうの捨てねぇと」
違う。
言いたいことは間違ってないが、そんな事を言いたいのではなかった。非戦闘員でいてくれたからこそ、サッチの甘っちょろい考えや涙脆さにマルコは救われていたのだ。マルコが捨てなければ強くならないと置き去りにしてきたものを、抱えていてくれるのはサッチだった筈なのに。
「マルコに伝えたらすぐにでも出ようと思ってたんだ」
「迎えは…いや、そもそもどこに行くんだよ、陸に降りるのか?」
「んぁ、違う違う!降りるって言っても、おれの事見込んでくれた人のところにお世話になりに行くだけ。なんでも、見聞色の覇気を鍛えるには白ひげ傘下でも一番だって…ほら、マルコもご存知の雷卿の船に乗るんだ」
「なっ…勿体付けやがって!マクガイかよ、おれァてっきり…、」
一瞬、きょとんと瞳を瞬かせた後に身体が震えてくるのは怒りに似た呆然からだ。サッチが覇気の見聞色に特出していたのは分かっていたが、暴走しない為のコントロールを担当していたのがビスタともなれば、さらに鍛え上げる為にビスタの師匠である白ひげ傘下のマクガイに繋がるのは、極々自然な流れにさえ思えた。
まどろっこしい、分かりにくい言い方をされたからだと、苛立ち混じりに枕をサッチの顔面にぶん投げれば、文句を返しながらも片手で受け止めるのがまた腹立たしい。
「てっきり?……いててて!すぐ暴力に頼るの良くないぜ!」
「うるせぇ!おれは海賊だ、武力行使は基本だよい!」
「まず言葉での交渉から入ろ?」
「威圧が一番効く。で、いつ戻るんだよ、言わねェと関節決めるぞ」
「きゃっ野蛮!!─── おれも自分がどこまでやれるか分からないんだ、雷卿が見極めてくれるって。おれの力が伸ばせそうか、それともここまでか…」
サッチが自分の掌をじっと見つめる。覇気は意志の力、誰にでも備わっている代わりに、それを伸ばせるか伸ばせないかは本人の素質や取り組み方によって大きく左右される。だが、それを恐れてはおらず前向きに捉えているのは横顔からも分かったから、マルコは交差していた脚に頬杖をつく。
「素直におれに守られてりゃァ良いのに…言っても聞かねェんだろうな、お前は。相談もなしに勝手に決めて、やっぱり義兄弟だってのにお前は冷たいヤツだよい」
「え?何?おれってそんなにCOOL?」
「ぶぁーーか、調子に乗んな…一年だか、二年だか…、とにかくさっさと戻って来い、ヤブサカのうっせェのを抑えられるのはお前と料理長だけなんだから」
途端にサッチの瞳があらぬ方向を向いて瞬きを始める。放っておけば、普段なら包丁で下拵えしながら軽快なメロディを乗せる唇から、調子外れの誤魔化しが聞こえてきそうで。マルコは糸の様に目を細めるのだった。
「……ヤブサカも行くってのか、サッチ…?他におれに隠してる事、ねぇよな…?」
「んぶぶぶ…料理長がぁ、せっかくの機会だからヤブサカも世間の荒波に揉まれて来いってェ…、ヤブサカも乗り気だし、しょーーじき!おれも一人より、二人の方が気が楽って言うかぁ〜〜?」
「………はぁ、ちょっと手ェ出せ」
「抓ったりしない?」
怒ったの?と首を傾げるサッチが、女なら良かっただなんて間違いだ。何も分からないで、この素振り。同じ男だろうと、マルコは直接言葉にして伝えないと最早自分の気持ちが伝わらないことは重々理解していた。
「(ここまで来ると、最早狙ってんじゃねェかと思うよい……)」
理解している。
理解してなかったら、流石に阿呆だ。
タイミングが悪すぎる。まさかだ、まさか、自分が気持ちを告げようとしたタイミングで決意の旅立ちを告げるだなんて、サッチの顔面にクッションをぶつける位では気落ちした心は持ち上げられないが。
その強くなりたいとする決意を、同じ男だからこそ止められるものか。
マルコはズボンのポケットから取り出した紙切れを、サッチの掌に押し付ける。サッチの瞳が、ぱちぱちと瞬く。
「何これ?ゴミ?」
「海に蹴り落とすぞ」
「ガーン!!辛辣ゥゥッッ!?」
「ゴミじゃねぇ。ビブルカードだ」
「ビブルカード…えっ!マルコ、ビブルカード作ってたの!?すごいじゃん!!」
ビブルカード───、別名"命の紙"だ。
新世界において専門の店に自分の爪を持ち込むことによって作成されるその紙は、一枚の大きな厚手の紙となっており、通常は切り分けて使用される。爪の持ち主がどこに居ようと、距離は掴めないが紙片の示す方角によって持ち主の居場所を大まかながら把握することが出来る。そして、命の紙の名にふさわしく、紙を分け与えた者の生命力を測る指針にもなる。
持ち主の命は炎となり、消耗すれば端から焦げ落ちて行く。死亡した場合、ビブルカードは燃え尽きて消滅するのだ。
「あぁ、オヤジが…隊長になった奴らは全員作れって言ってな、お前、これ持ってけよい。おれのだ、おれに何かあったら…これが教えてくれる。だが、おれに何かあっても一度お前はモビーを降りるんだ、マクガイに従え。決して、途中で戻ってくるなよ」
キラキラと未知の食材を前にしたかの様に輝いていたサッチの顔が、一気に引き締まる。
「マルコ、おれ…、」
「海賊の前に、男だろい。一度決めたことは、最後まで貫けよ。義兄弟として…おまえの旅立ちに出来ることは、おれにはこれくらいだ」
「じゅ、充分だってんだよ…!!なくさねぇ、絶対に…、何だったらパンツの中にでも入れて守っておく!」
「や・め・ろ、汚ねェだろうが!」
「そ、そっか、うん、それもそうだ…パンツならいつも履いてるなって動転しちまった…、マルコに何かあった時、ちんこが燃えるのは流石に困るわ…」
「…ふはっ!!おまえ、ちんこって…ちんこが燃えるって…ふ、ふふっ…、はは…!!はー…いや、……そこは普通におれが死んだことの方が困るだろうが!困るところ違うだろ!」
「いてーーー!!?」
鋭角に脳天に落とされたチョップに、サッチが飛び上がる。既に追加したアルコールなんてものは飛んでしまっていたが、やれやれと頭の背後に手を組むと、マルコはベッドに背中を預けて寝転がる。
「おれもお前に言うことあったんだよ…、」
「え?なに?」
「……けど、今じゃねェなァ……、」
隊長になって、認められて。
その重さに似合う任務をこなせる様になって、それでようやく一人前の男になれる。結果がどうなろうと、最早回りくどい伝え方で分かる男ではない。直接、言葉にして初めて意識するなら最初の返答が"ごめん"でも、"そういう目では見れない"でも、どちらでも構わなかった。そこから詰めて行けば良いだけだと思っていたから。
「(だってのに、……今、動揺させるのは…男じゃねぇな…)」
海賊としての仁義がある。仁義を通すには、男として一本通った筋がある。その正しいと思う価値観の中に、当て嵌まらないことは女々しい。女々しいことは、絶対にしたくない。まして、サッチの前では絶対に。
「お前が…」
「おれが?」
「……お前が、戻ってきたその時に言う…覚悟しておけ…、」
「そんな先で良いのかよ」
サッチの掌がマルコの額を撫でる。眠気を誘う、暖かな手のひらだ、寝かしつけに入っているのは不服だったが、この部屋で眠るつもりでいたマルコにとって異論はない。
「そんな先にならないようにしてくれ…」
「……あぁ、頑張るよ」
「それまで、よーく…首洗って待ってろ…」
「え?おれ帰ったら殺されちゃう?ちょちょちょ、寝ないでマルコ、わー、寝ないで〜!?」
「疲れてんだ、寝かせろい…、」
怒ったり、落ち込んだり、サッチの側にいると感情が忙しい。
守ってやりたくて、みっともないところは見せたくない、格好付けていたい。酒も煙草も、覚えるだけ覚えても、結局"良い男"にはまだ程遠い。
「……おれは、お前が…船降りてる間に、絶対…なるからな…、」
「気になるじゃんもう〜〜、なに、何になんの〜?」
「だから、覚悟してろ……、」
「まーた、おれの首取る話してない〜〜〜!?」
素直になろう。今度こそ。
戻って来てサッチに相応しい男になる。誰もが振り向く男になれば良い。オヤジの様な男になれば良い。男だの、女だの、そんなのどうでも良いとまで思える男に、おれはなる。
おれは、"変われる"んだ───。
✳︎
「……マジで寝たよ、自由人だよなー、マルコってなァ……」
あとは知らん、とばかりに寝息を立て始める姿に呆れ顔でブツブツと文句は呟きながらも、サッチ寝っ転がる上から引っ張り出した毛布をそっと掛けてやる。
「……うぅ、待てよ何で一枚しかねぇ毛布を、こいつに掛けてやんなきゃならないんだ…?おれ、凍死しちゃうじゃん…」
大袈裟な言葉にしても、流石に雪が降れば船室内は寒い。窓に歩み寄って外を除けば、しんしんと天から降ってくる白い花弁は大きさを増して行く様だった。この様子なら、明日の朝にはきっと降り積もっていることだろう。
雪は、北の海にはよく降る。
静かに降り積もっていく雪は、体温と熱を奪っていくものか、溶かして水として使う為のもので。綺麗だ、と初めて思ったのはこんな夜だったかもしれない。
まだ、船に乗って間もない頃。
─── 雪かぁ〜〜…。積もるなぁ〜〜。
─── ……なんだよ、嫌いか?
─── 好きか嫌いか言えば嫌いかな、冷たいから。
─── そりゃ冷たいだろ、雪なんだから。
─── 食べても腹は膨れないし、腹下すし、雪って得意じゃねぇや。
二人して、理由は忘れてしまったが大喧嘩の結果として見張り台に挙げられていた時だから安全な海域だったのは間違いない。二人して同じ毛布に包まって、鼻先だけ出して、背中合わせだったのは喧嘩後の気まずさもあったし、幼いなりに別々の方向を見張らなくてはならないという責任感がうまく合致したからだった。
サッチの言葉は独り言だったが、マルコが拾ってくれたのにホッとしたのは覚えている。喧嘩は、仲直りのタイミングが難しくて。自分が先に謝ってしまえば良い、その方が早いと気付くまでは意地の張り合いで数日口を利かないなんてこともあった。
─── まぁ…な、おれも寒いのは嫌いだ。眠くなる。……眠くなって、起きるのに時間がかかる。
もごもごと口元を毛布で覆ったのだろう、マルコの方に引っ張られて若干締まりそうになった首元をサッチが抑えれば、ぼそっとそれこそ独り言の様な囁きが白く上がる吐息に溶けて行った。
─── ……そのまま、目が覚めなくなるんじゃないかって思うと、怖くなる…。
闇を照らす灯りがある、毛布もある。
それでも、雪は何かを連想させるから、怖くなる。奪われていく体温と、そしてその先に起こることを。
─── ……ふーん、けど、マルコが寝ちまったら、おれそっちの方角見張れないじゃん。
─── ……そうだねい…。
─── お前が寝ちゃったら、毛布が引っ張られるから分かるっての。だから、……安心して寝たら良いんじゃね?
─── はぁ?
振り返るマルコの鼻先が寒さで赤く染まっていて、その上に風に乗って覆いの下にも辿り着いた白い雪が、丁度落ちて行って。
─── おれが頑張る!だから、おれが寝たらお前が頑張って?
─── ……そりゃ心配で寝てらんねェっての。
─── あ、ひどいなー?信用してないなー?
小さな結晶が、青い瞳を縁取る金の睫毛の先に灯って。
あ、綺麗だな…って思ったんだ。
雪も。雪、以外も───。
雪の気候が巡る度に、少しずつ積もっていった思いは春になっても、夏を越して、秋を迎えても溶けることなく残って積もって、形を変えながら今では溶かせない深さになってサッチの胸の中に形作ってしまった。
崩そうとは、思わない。
叶うならば、このまま、形を変えずに残り続ければ良い。
深く埋めてしまおう、気持ちを隠すなら得意だった。
最高の親友、最高の兄弟、それを壊すつもりはなかった。これからも、これからも、ずっと───隠し通せる。
「(なぁ、マルコ……だってそうだろ?"変わって"いくのは…、)」
雪は明日の朝まで降り続けるだろう。
一面を銀世界にして、何もかも覆い尽くしてしまう。
寝息を立てるマルコの隣に寝転がって、何年経てば、何年別れていればこの想いは溶けていくだろうか。
言えなかった二つ目の理由は、目元に透かすビブルカードの向こう。
だって仕方がないだろう、こうするしかないんだろう。
「………おやすみ、マルコ」
─── 変わっていくのは、"怖い"んだ。
TO BE CONTINUED_