五指を伸ばして、その先に「よっと……、協力に感謝する。変に暴れないでいてくれたおかげで運びやすかった」
「もがっ……!!ぜぇ、はぁ……っぜ…、ひ、人の口と鼻塞いでおいて…、あ、あんな、速さで……、か、海賊……!!」
「あはは、"海賊"か。面白いこと言うんだな。別に攫ったわけじゃないだろう?ここには、元々顔を出すつもりだったんだ……、」
広々とした、小高い丘だった。
色とりどりの花が美しく咲いていた。鳥が歌い、蝶々が戯れるあまりに美しい草原に、二つの墓石が並んでいた。そして、それらを取り込む様に無数の───主人を失ったカトラスや剣の類が無言で鎮座していた。
「ここは……」
「何だ、マルコは連れてきてくれなかったのか?」
下ろしたきり暫く噎せて込んだいたものの、すっかり立ち尽くすサッチを脇目に何処に隠し持っていたのか。取り出した酒瓶の蓋を、盃と共に取り出したシャンクスに、慌ててサッチは歩み寄る。
隻腕の男と目が合えば、相変わらず底の知れない瞳ではあったが今は緩められていた。
「開けてくれるのか」
「……片腕じゃ、開け辛い…でしょう」
「慣れればそんなに不便でもないさ、だが溢しちまったら勿体無い。頼んで良いか?」
敬うべき相手なのかは、ここに来てからの言動においては大分アウトではあったが、赤髪のシャンクスともなれば話が違う。
瓶の蓋を容易に開けながらも、サッチは胸のざわめきに墓前に立ち尽くす。
「……エドワード…ニューゲート、……ポートガス…、ディー…エース……、」
「白ひげは敵ながら偉大な男だった。別に海賊だからと言って、日々殺し合いしてるわけじゃない。味方じゃないなら敵だが、憎んだり恨んだりしたことは一度もない」
サッチの手から酒瓶を抜き取った男が、盃三つに中身を注いでいく。そのうち、腰の刀を鞘ごと掌に抜き取ると、どっかりと芝の上に胡座をかいて座り込む。
「エースもそうだな、おれからしてみれば色々と因縁こそあったが……マルコや白ひげにとっては歳の離れた弟でもあり息子でもあり、…とにかく可愛かっただろうよ」
「………」
「不安定な、自分まで燃やしちまう様な若いのが、落ち着ける場所としては───なんだ、言葉はアレだが運命的な出逢いを果たしたもんだと思ってたんだがな」
外の世界の情報はマルコが与えてくれていた。加えて、無知ではいられないと新聞にも自分ではきっちりと目を通していたつもりである。それでも、過去については知識に過ぎず情報としては根付いてはいなかった。
白い髭のジョリー・ロジャーに持ち主の身体がいかに大きかったかを偲ばせるコートが墓標代わりの薙刀に寄り添う。その傍には、きっと愛用の品だったのだろう。カウボーイハットと腰に下げるには手頃なナイフが少しばかり小振りの墓に飾られていて。
親子、親子揃っての墓だと見て取れるその光景が次第に歪んでいく。
「──────、」
赤髪のシャンクス。
マリンフォードでの頂上決戦を終わらせ、この二人と数多くの戦死者の弔いを果たした男に違いなかった。
無言で立ち尽くしたままのサッチに一度だけ視線を挙げたようだったが、すぐにその眼差しは高々と右手で掲げた盃へ向けられる。
サッチの瞳から、次から次に涙が溢れては世界を水浸しにしていた。
緑の瞳を覆うようにして、一体何処から湧き出てくるのか。体内を通したせいで、すっかり温度を持った水が、次から次へと確かに一つ一つ、涙一つ分の雫として静かに湧き上がっては頬を滑り落ちていく。
声にならなかった。
何故だか分からなかったことが悔しかった、記憶がないことが恨めしかった。どうしようもなく苦しく切なく狂おしく、溢れ出て睫毛ごと包んでは重力に負けて落ちていく涙の訳を知りたかった。
「───どうして」
「ん」
「おれ……、どうしてだろう、何も覚えちゃいねェのに……、この場所に立ってると…、涙が止まらねェ…、胸の中が苦しい、いっぱいいっぱいだ…、全部それが、涙で落ちて行っちまう……、」
胸に掌を当てて、肺に溜まった空気を苦しいとするように、胸の中で際限なく膨らんでいく狂おしいほどの切なさの名前が、愛おしさだと分かった瞬間に一際大粒の涙が片目から零れ落ちていた。
「マルコはどうしてお前をここに連れて来なかったのか、おれにも分からないが……、そうか、記憶がないってなら半分は分かる。もう半分は、理解できるが…おれなら取らねえ方法ではあるな」
「……ッ言ってる意味が分かんねェよ…!!分かんねェが、分かる…!おれは、この墓前にいることを…悔いている…、この墓が作られなきゃならなかったことを…、苦しいと感じている……、」
名前も知らない、顔も分からない。その通りだ。頭は覚えていない。それでも次から次に落ちていく涙が知っている。墓石に触れる。冷たい、物語らぬその石に。
「……おれ、海賊だったのか…?白ひげ…白ひげ海賊団の…、おれの、大切な人達だったんじゃねェのか…?」
✳︎
「………よし、決めた」
沈黙は、たったの数秒間だった。
「……へ?」
「なぁ、名前はサッチで間違いないんだろう?おれはシャンクスだ、通り名は赤髪のシャンクス。まぁ、色んな世の中のしがらみで四皇として知られてはいるが、そこら辺は後で必要なら説明してやろう。─── おまえ、船に乗れよ」
サッチの頭の上に、鳩が三羽仲良くクルクルと回り始める。涙がまだ止まらないままで瞳を見開いたせいで、緩い粘着性を持った体液は睫毛に絡んで眼球を刺激する。
この男、いま何だって?
「おれの船に乗ると良い。今いくつ位なんだ?あぁ、いや推測すると…まだ三十にもなってなさそうだ。刺青は?あっても消せとは言わねェよ、うちは別にそういうのは気にしない」
盃をグッと飲み干すと、妙に爺臭く膝に手をやってから起き上がる男はマジマジとサッチの顔を覗き込んでいた。ギョッとサッチが身を引けば、それを予測したように一歩分の距離を詰めてくる。
顎に手を当て、表情こそやけに明るいが。
その爛々と眩しい瞳が、決して場を和ませるための冗談ではないと物語っていた。恐ろしい、何処までも透き通っているのに何も見透かさない瞳にサッチの全身の毛穴から嫌な汗が吐き出すようだった。
「ふ…船って何のことだってんだよ…!」
「どこから話すのが正解だろうな、あー…うん、そうだな。ここに来る時に、多少の威嚇をさせてもらった。いつもの先触れとしての覇気じゃなく…、ちょっとした気まぐれで、マルコの脇腹でも擽ってやろうかと」
全く話が読めない。覇気、それくらいは一般常識として身に付けてある。だが、そんなにも自由自在に扱えるものだっただろうか。硬直するサッチの腕を、シャンクスは躊躇なくもう一歩踏み出して掴んでいた。
風が吹く、男の錆びた赤い髪が揺れる。
「あれを感じただろう、それで逃げずに浜辺に残った。…おれ達が本気でこの島に攻め入ろうとしていたら、…"今のお前"なら何の役にも立たないだろうにな」
「……ッッ」
「だから、それが良いんじゃないか。うん、やっぱり船に乗ってくれ、今から成長期だろう!海は良いぞ、波を枕に島から島へ渡るんだ。刀がいるな…、腕の良い鍛治職人達を知っている。良い刀を…うん、二振り作らせよう。やっぱりそっちの方がしっくり来る」
「だから、何言って…!!」
片腕の男がサッチを引き寄せる。
隻腕で、まるでこの花が咲き乱れる野の上でダンスでも始めようとばかりにサッチの腰に手が回る。
「───おれは兄弟にはなってやれないが、もっと良いものになれるぞ。例えば……、」
腰に添えられた掌に導かれ、背筋が逸らされる。
悪意がない、だからこそ本能が危険だと仰け反る喉奥で叫ぶ。深海にいきなり突き落とされたなら、こんな感覚になるだろうか。
この男、本当に
人間なのか───?
「……何でも意のままに出来る、神にでもなったつもりかい」
ザァァァァァッ………、
「神…か、ソイツはちょっと嫌いな相手だな」
浜辺での光景とは違い、炎を纏わない男の手が隻腕の腕を握りこむ。丘の向こうからマルコの後方に額に手を当てて天を仰ぐホンゴウと呼ばれる男の姿が見えたが、サッチはマルコの側に寄るでもなくゆっくりとその場で後ずさっていた。
涙の乾いた頬が吹き抜ける風に痛んだ気がしたが、マルコはそんな様子に一瞥をくれただけで直ぐに向かい合うシャンクスの腕をパッと離す。
「そうかい、そりゃ奇遇だねい。おれもまさか、信じちゃいねェよ。昔から、信じられるもんはそんなに多くねェ」
「気が合うな、なぁマルコ……サッチみたいな若者は海がよく似合うと思わないか?」
軽く腕をどこか嬉しげに摩りながら、シャンクスは唇の端を持ち上げる。
「船に乗らないか、と誘ったんだ。その返事をまだ聞いてないんだが」
「へェ……、確かおれの記憶がまだ確かなら、おまえはおれを懲りずに誘いに来ていたと思ってたんだが、鞍替えか?」
「妬くなよ、勿論おまえを船に乗せたいって気持ちは変わってないぜ。ただ、目新しいものも好きなんだ」
側から聞いていれば、男同士とはいえど何処となく艶めいた言葉の応酬にも取れただろう。マルコの青い瞳が一切笑っていないのも、シャンクスの頬が笑みのままぴくりとも形を変えないのも、除けばだ。
「あー…うちの船長が悪い、本当にごめん」
「あ…、いや」
真正面から謝られても、果たして謝られるようなことをされてはいない。サッチ一人が状況についていけていないだけだ。
ホンゴウだと自ら名乗った男は、呆然と場を見守るしかないサッチに立てた掌と共に頭を下げては、腰に手を当て唸る。互いの視線の先では渦中の二人が言葉を交わしているのだが、半ば諦めた顔で苦笑する存在に徐々にサッチも我に帰っていた。
「……ちょっと色々と、追い付いてなくて…、あんた…ホンゴウって言ったっけ」
「おう、あっちで不死鳥に構ってもらって嬉しそうなのが、おれ達のお頭の赤髪のシャンクス。どうにもな、根は悪い人間じゃないんだが……、どうも素行が悪い」
海賊で素行が良い方が珍しい気もするが、自然災害を前になす術もないとなれば少しばかりこの男に同情したい気にもなっていた。
「…あのさ」
「うん?」
「……何であんたのところの船長は、マルコさんを…そんなに船に乗せたいんだ…?聞いてるぜ、白ひげの…墓を作ってくれたことも、頂上決戦を終わらせに来てくれたことも…、」
「……白ひげ、ね」
ホンゴウの言葉は大分含みがあったが、小馬鹿にしたでもなくどこか慈しむような面持ちだったからか。サッチの言葉は素直に唇からこぼれ落ちていく。
月から、金の砂がさらさらとこぼれ落ちていくように。
「……あんたの船長は、"マルコ"がそんなに…好きなのか?」
「んんっ…!!…サッチ、いや…あー……、質問の意味は?」
「その通りだって、別に野郎同士とか…そういうのはどうでも良いけど……、」
派手に咳き込むホンゴウを横目に、サッチはひりつく頬を片手でなぞる。
「……マルコさんは…、おれを餌にしたって意味ないぜ。あの人は、別に……誰かに頼まれて、ここにいるんじゃないんだ。マルコさんの意思で…、それを覆せるほどの何かを、あのオッサンは持ってんのか?」
「オッサンなのは事実だが、そうだな〜。……サッチの納得する答えじゃないかもしれないが…、時計の針を動かしたいだけなんだよ、うちの船長は」
ホンゴウが腰のポケットから取り出したのは、銀の鎖で腰のサッシュにしっかりと繋がれた懐中時計だった。
何故そんな壊れやすいものを、と呟き掛けて発言する前にすぐに思い直す。壊れやすいものを壊す様に扱う男ではないのだろう、確か船医の男だった。マルコと、専門的な何やら小難しい話をしていたのも多少は聞こえていたのだから。
「別にこれの話じゃないが、分かりやすく言うと…見事な時計があるとするだろ?一点物の、刀で言うなら最上級大業物。的確で、誰もが欲しがるが…持ち主が亡くなった途端に、時を刻むのをやめちまった。刻み方が分からなくなったんだと」
「………、」
文字盤の上で、休むことなく秒針が規則的に動いていく。
「まだ充分に動ける時計だ、皆が欲しがるが、雑な扱い方ひとつで二度と動かなくなるだろう。扱いがかなり難しい。お頭は、ガキの頃から欲しがってた時計が、動かなくなる前にどうしてもほしいんだ。航海に連れて行きたい……ってのが半分」
「半分?」
「そ、半分」
パタン、とサッチの目の前で銀の蓋が閉じられる。
「あとの半分を語るのは、ちょっと野暮ってもんだろ?」
✳︎
「オヤジとエースの墓の前で…アイツを自分の船に誘おうってのは、流石のおれも想像がつかなかったよい。テメェのところはどうか知らねェが、うちは仁義を欠くヤツには容赦しねェが」
腕を組み、淡々と言葉を放つマルコに流石に詰める距離がないのか。それとも、言葉さえ交わせれば良いのか。シャンクスは白ひげの海賊旗が風に音を立てて泳ぐのを眇めた瞳で見上げる。
「仁義なら通しただろう、親の前で子供が欲しいって言ってるんだ。おまえもそうだぞ、マルコ。サッチと一緒に船に乗ってくれ。おれの記憶が確かなら、腕の良いコックだった。キムチチャーハン美味かったな!また食いてェもんだ」
「……」
「それに音楽家は何人いても良い、フィドル弾けただろ?宴の時にパッと華やかになる。剣の腕も買ってる。あぁ、太陽の下も大丈夫そうだな。海水を被るとダメ、とかはあるのか?」
「……聞き出してェことを、そうやって露骨にはぐらかして面白いか?」
「楽しいさ、おまえの顔に表情が出来るから。それがおれが原因でなくても嬉しい」
「趣味が悪いよい、こっちは反吐が出る」
「じゃあ、要望に応えて真正面から聞くが───、海に出る理由にならないか?おれが、アイツを海に連れ出したなら」
淡々と、言葉に熱を乗せることもなく重たい瞼を更に下ろしていたマルコの片眉が風に乱れた金髪の下で、僅かに上がる。
「偉大なる航路だ、何かしらが起きてもおかしくないだろ。おまえが、サッチを何故かここには一度も連れてきていないらしい。それだけ分かれば、一々細かい理由や原因やらをおれは必要とはしていないんだ。大体、マルコ。おまえだって本当は分かってねェんじゃないか?」
わざとらしいまでに、直角に傾げられる首にマルコの厚い唇から隠す気もない舌打ちが落とされる。
図星である、と手の内を明かして喜ばせた様なものだったが、苛立ちがそれを上回っていた。
「当ててやろうか、ここに連れて来ちまったら……サッチが消えちまうとでも思ったんじゃないか?記憶もない、歳も若い、偉大なる航路だとは言ってもこりゃやり過ぎだ。異質な存在ってのは、排除されるのが自然の摂理。それを賢いおまえが分からないわけないもんな」
「……それで?」
「んん?」
マルコは組んだ腕はそのままに、顔を遥か上方へと向ける。父親である男は、この不毛なやり取りに何を思うだろうか。手が掛かって仕方がなかった歳の離れた弟は、言葉と声があれば伝えるものがあるだろうか。
「それで、サッチを連れて行ってどうする。箱にでも詰めて、おれを罠にでも掛けようってのかい。そこまで頭に花が咲いてるとは思っちゃいねェが」
「おいおい、サッチが欲しくなったのは確かだぜ。アイツの作る飯はマジでうまかったからな!今のアイツは忘れてるとはいえ強さの素質がある。うちの船でも充分やっていけるさ」
「……んで?」
気怠げな口元が緩く挙げられた掌と共に僅かに持ち上がる。決して微笑でも、心を開く鍵を差し込まれたのでもない。
共有される思い出に、不躾だと自ら深く鍵をかける音だ。
「だから何だって?それをおれが許すと思ってんのか?記憶がなかろうと、姿が多少若かろうと、お前の預かる話じゃねェよい、これ以上その底抜けの貪欲さで引っ掻き回すな」
「おまえこそ関係ないだろう、マルコ。今のサッチと何の関係がある?家族か?歳の離れた友人にしては、薄情な真似するじゃねェか」
「何が言いたい」
隻腕の男の右手が、自分より若干背丈のある男に伸ばされる。
「サッチと一緒に来れば良い、おまえ達を、引き剥がそうってんじゃない。なァマルコ、戻って来い、もう一度海賊になっちまえよ」
この青の瞳は海の色だ、そう信じて疑わない指先が目元に伸ばされても、瞬き一つ落ちてこないのが証明とばかりに男は子供の様に無邪気に笑う。
「なぁ、まだ、飛べるだろ?」
「と……ぶか、飛ばねェか選ぶのは、鳥の意志だろ…、決めんのは、あんたじゃねェよ…!!」
眼前に差し出された掌に、マルコの伏せる程に下げられていた瞳が瞬く。
星屑を垂らした様なその瞬きの先に、自分に背を向ける青年の姿があった。気配もなくどうやって距離を詰めたのか、次の瞬きがその驚きを映して更に回数を繰り返すのに対して三本傷の男は笑みを益々深める様だった。
「促すのも駄目なのか?手厳しいな、サッチ!」
「促すっつぅかもう側から見たら脅しだろ!あのな、鳥なら!飛びたい時に……飛びゃいいんだよ」
割って入ったサッチの掌は誰か傷つける為に伸ばしたわけでも、掬い上げてやろうと仰々しく差し伸べたわけでもなかった。
ただ、胸の中を渦巻いた憤りが、子供の癇癪の様に後先もなく弾けただけだった。四皇の一人である海賊に突き詰めた人差し指が、高く高く空へと向けられる。
「ソイツにとって!良い風が吹いたら……いくらでも、いつだって、どこまでだって好きに飛んでいけるだろうが…!!」
「────── サッチ…、」
─── このアンクレットに込められてるのはさ…"良い風が吹くように"だって
─── 良い風が、吹くように…。
あの時も、サッチは空を指差していた。
こんな寂しいばかりに青く広い空ではなく
星灯りの夜空を高く、高く。
─── ほら、すでに良い風が吹いてきてるだろ?順風満帆…とは行かない時も…それを着けてりゃどんな嵐だって逆風だって、おまえなら上手く乗りこなせる飛べる…!
風がマルコの脚に巻かれた、金の脚飾りを揺らしていた。
シャラララン、と奏でられた風の音に背を押され、マルコは手を伸ばす。
「だから、時計だか鳥だか知らねェけどなァ〜!マルコさんが困ることは、控えてくれって…おわっ!!……え、ちょ、ま、マルコさん〜!?」
サッチの身体を、腕に抱き留めていた。
髪の香りを、肌からの体温を。
どうして求めないことが、利口だと思っていたのだろう。
最善策を選んできたつもりで、最後に何が残ったのか。
どれだけ多くのモノを、この掌の隙間から取り溢して来たのだろう。
利口面して、もう、何一つ失いたくはなかった。
「……悪ィ」
「わ、わわ悪いってこたねェッスけど…!!マルコ、さん…?」
その自分の位置より低い肩に、顔を埋める。
頭を押し付ける。動揺は伝わるが、振り払おうとも逃げようとしない背中ごしに、迷うように指先を彷徨わせながらも頭に触れてくれる掌がずっと欲しかった。
握り返される掌を、無責任にも信じていた。
ザァァァァァ………、
「お頭、今回はあんたの負けだな」
「そうか?あとちょっとな気がしたんだがなァ〜」
「どこがだよ」
ホンゴウは呆れたという顔で傍の船長を見上げるが、負け惜しみでも何でもなく嬉しそうに瞳を細める横顔に嘘なんてものは存在していない。
「死人みたいな面してたマルコが、今あんな顔してるんだ。そこに勝ちも負けもないだろ」
「…まったく、あんたって人は……、」
「けどそれとこれとは別だな!マルコ、おれの船に乗ってくれよ〜!サッチも一緒に!」
「やかましいわ!!」
高く片手をブンブンと振って、空気などお構いなしの赤髪を優秀と名高い船医は拳で殴り付ける。パッカーン!!と良い音が丘に響いた。
「いたっ、痛いぞホンゴウ…一人よりこの際二人だろ!」
「人数の話じゃねぇんだよ!ほら、帰る。ちょっと寄るってだけで来てるんだからな……、これ以上遅くなって叱られたくねェだろ」
「そんなこと言うなよ〜ベックマンだって、常々マルコが欲しいって言ってんじゃねェか〜!」
首根っこを捕まれ仲間に引き摺られていく男が、果たして四皇であり政府からの懸賞金額が一番高い男であって良いものか。
ぎゃあぎゃあと文句を呟き続ける男をそのままに、ホンゴウはペコリと頭を下げる。
「それは!誰だってそうだろ、子守りは多ければ多い方が良いからな……、マルコ、サッチ、面倒掛けたな。特にサッチの方、マルコは…まぁいつも通りだから悪い。それしか言えねぇ…」
「諸々を諦めんなよい、ホンゴウ」
流石にホンゴウが自分の船の頭を、言葉通り拳で殴り付ける頃にはマルコの身体は既に起こされていた。抜け出るように離れた掌に、ドギマギと意味を探して見つめるサッチとは違い、通常運転とばかりにいつものどことなく鼻白んだ表情へと戻っているのだ。
「赤髪も気は済んだろ、島から蹴り出されねェうちにさっさと帰れ」
「ホンゴウの薄情者〜〜!マルコ、おれは諦めてねェからな〜!!」
✳︎
最後まで引き摺られて行った男と、最後まで振り返っては片手を振ってくれた男とを乗せた船が水平線の彼方に消える頃には、すっかり日も暮れて夕方になっていた。
スフィンクス。同じ島の名前と、どちらが名前の由来にもなったかは定かではないが、巨軀の割に穏やかな性格と仲間意識を持つ生き物を落ち着かせるために随分と活躍してくれたらしいステファンが役目を果たしたと戻ってきても、サッチとマルコの間に目立った会話はなかった。
「……戻るか」
「そっスね、ステファンもお疲れ。……いや、別に怒ってねェよ?ヤバいオッサンだったことには変わらないけどさ…うひひ、顔舐めんなって!」
わふ、と一声鳴いて脚元に飛びついた犬を腕に抱き上げてやる。置かれたままの、その男が献杯した酒瓶を持ち上げるマルコの隣でサッチは墓石の、墓標達を振り返る。
黒く伸びた、長い影。墓標のない者も居るだろう、残らなかっただけで、島を守るということが一体どういう意味だったのかが改めて夕陽に照らされる全身から染み込んで行くようだった。
「───、(まだもう少し…もう少し待っててください…、今のおれじゃ…まだあんたらに、遅れてすみませんでした…って言う資格は…ないから)」
家への短い帰路の間、マルコから「後で話がある」と言われなくても、サッチは自分から切り出すつもりだった。
だからこそ、
「先に言っておくと、おれは謝らねェ」
と開口一番、きっぱり告げられては勧められた椅子に腰を下ろす途中だっただけに、思った以上に椅子の足が床に擦れる音を立てていた。
「えーと…?」
「謝るってのは、自分の行為に対して悔やむと同時に赦しを求める行為だろ、おれは今お前を拾った浜に戻ったとしても間違いなく同じことをする。それに対して、許せと言うつもりもねェ」
そういうものなのか?
……いや、絶対違うだろ。
サッチの雄弁な瞳から言いたいことは伝わったのか、ベッドに腰掛けるマルコの厚い唇が意固地に結ばれた気がして、思わず笑ってしまった。
生憎、朝に予定していた魚料理ではないながらにサッチが整えた二人と一匹夕食を終えて、風呂まで済ませてからマルコに部屋に呼ばれた時の緊張が少しほぐれいく。
初めて入ったマルコの部屋は、想像よりもずっと物に溢れていた。几帳面な性格かと思っていたが、案外違うのかもしれないと思い直すばかりに積み上げられた書物に、その間に挟まれたメモか何かの紙片は生活感の形跡に溢れている。
ただ、薬品の保管場所や恐らくは本人にとって大切なものがしまわれている一画は埃一つなく片付けられており、そこに性格の片鱗を見た気がした。
「……何笑ってんだよい」
「別に……、……あの、多分だけど…おれ、マルコさんのこと許すも許さないもないっつうか…、…そもそも恩を感じこそすれ、何も恨みなんかないと思うんで」
「そりゃまだ何も話してねェからだろ」
「ええ、話してくれるんスよね。……んー…、色々と…おれの中で考えてる予想とか、想像とかあって…、」
ステファンも今夜ははソファを占領して眠れるが、空気に敏感な犬のことだ。もしかしたら部屋の前で待っているかもしれない。人の理屈は不可解だと早々に寝入ってしまったかもしれない。
サッチは咳払いを一つ落として、膝の上で指を組む。
「おれは…いや、おれのことを…マルコさん、あんたは知ってる。知っていた」
「……」
「おれはマジで海賊で、しかも、あんたと同じ海賊団だった。白ひげ海賊団の船員だった。……多分、結構親しくさせてもらってたんじゃないかな。だとしたら嬉しいんだけど」
否定も肯定もしないマルコの表情に、サッチはその矜持の高さを垣間見た気がした。
恐らく、隻腕の男は自分が求めるものの為ならば、矜持などいくらでも捨てられてしまう男で。
その対極に居るのが、マルコという男なのだと。
「それでさ、これはあくまで推測で…憶測で、もしかしたら笑っちまう様な妄想なのかも知れないんだけど……、もしかしたら…、おれ、ちょっとはマルコさんの……、"特別"で……、」
答えなんか聞かなくても、もう分かっていた。
「…そっかぁ、ごめん」
厚い唇を真一文字に強く結んでこちらを見下ろす、その眼差しが答えを物語っていた。
サッチの三日月を刻んだ瞳が、テーブルの上の灯りが揺らめくに合わせて緩く細められる。
へにゃりと下がる眉に、上がる口元。
不思議と鼓動は穏やなままだった。
「─── おれ、死んじゃってたんだな」
五指を伸ばして、その先に
その姿は、月明かりに照らされて足取りも軽くやって来ていた。
片耳を挙げた白い犬がピクリと顔を挙げたが、間近にあったその姿には吠えることもなく、すぐに自分の寝床を半分ずれて与える。
互いの表情には笑みが溢れる。
ソファに乗り出した小さな掌が、ステファンの白い毛並みを愛おしげに撫でる。
尻尾が左右に揺れるものだから、小さな姿もそれに合わせて小さく笑っては足を揺らすのだ。
ひとりと一匹。
伸びる影は、たった一つ。
その夜の小さな出来事を、誰も知らない。