就任式 報いることだけが、信条だ。特に名誉も、肩書きも欲してはいない。それで良い筈だが、未だ恩を返しきれていない主君の命となれば承知するより他は無かった。
回廊を歩き続け、誂えたばかりの履物は漸く馴染む。就任式自体は滞り無く終わった。諸葛亮殿と趙雲殿は勿論のこと、演説に眉を顰める者ばかり居た様だが好き勝手生きることには変わらない。この悪党を、一度表舞台に立たせてしまった方の責任ですから。
『法正殿には、報われて欲しかったから』
更に眉を下げつつ、何故か口元を緩めて徐庶が言った。俺は常日頃、好きに生きて来たが。こいつは偶に、俺が考えもしない感情を告げてくる。何時までも着慣れていない正装で、余計なことを。まぁこれからは同じ立場だ、そのお人好し振りも使わせて貰おう。
「法正殿」
聞き慣れた明瞭な声に、思わず振り向いた。兜を脱いでも、風に揺らいだ金髪が鎧に負けず眩く照らす。近付いて来るなり、何処か胸が震える。
「……先程の演説は素晴らしかった」
「それはどうも……」
嫌でも視界に入りますよ、貴方だけ何故か終始目線が合いましたから。
「その髪も似合っているぞ!」
「一応式典ですので、整えました」
後方へ固めた髪を掻き上げると、黄金の瞳を更に輝かせるのに視線を逸らすしか無い。
「その衣装も良い、此方の生地は鴨の如く鮮やかだ」
風に翻る羽織った布を指先で摘みながらの言葉に、眼を見開いた。仕立てる際に呼んだ職人が生地を見せる中、この一色で記憶が蘇ってしまう。
「流石法正殿だ……あれは美味い上、羽も使える」
鴨の羽は衣となり、命尽きれば肉となり育てられた恩をその身を以て返すという。
幼い頃に祖父が語った知識こそ、全ての始まり。決して言いたくは無いが、時折勘付かれた様に指摘されるのが敵わない。
「うむ、普段の法正殿もだが……今の法正殿も、本当に美しいな」
真っ直ぐ過ぎる程の言葉が全身に響き、身動きも止まる。遅かれ早かれ、好きに生きた分積年の恨みに命で報いるのは当然だ。たとえ、志半ばでも。だが揃いも揃ってお人好しに囲まれた影響か、まだ此処に居る。恩は返してきた、それで満たされていた筈。仕方無く窮屈に閉じた胸の奥底が、熱を帯びる。初めて、知る感覚だ。何故か、とても。
「壮観だ、格好良いぞ!綺麗だ!」
「う、煩いですよ……聞こえていない訳では無いです」
「む、そうか」
黙したせいか大音量で繰り返され苛立つのに、頬が緩むのを必死に堪えた。全く面倒で、暑苦しいが。嘘偽りが無さ過ぎて、気付かされるとは。
「ともかく……これからは更に、たっぷりと働いて貰いますよ……馬将軍殿」
またしても劉備殿へ大いに報える機会を与えられた、逃す手は無い。一気に強い眼光を携え、口角を上げ拱手する。
「無論だ……共に仁の世を成す為、御身は必ずお守りしよう……丞相殿」
精々、こき使ってやりますよ。この身が未だ在ることが、主君への恩と共に貴方に返せることが。これ以上無く、『嬉しい』と思わされた分を。疾風に木々が揺らぎ、薄紅の花弁が舞い降りてくる。瞬間、馬岱殿が身支度を手伝うと髪を整えた際の言葉を思い起こす。
『俺が生き残ることが信条な理由、今なら解ってくれるんじゃない?』
徐庶もだが食えない奴等だ、これ程不本意な切っ掛けで知ると解っていたのか。『報われる』とは、この様な感情なのだろう。悔しいが、髪に引っ掛かる花弁を摘み微笑むのに体温が心地好く上気する。
「頼みますよ」
受け取った花弁を、柔らかく包みながら瞼を伏せる。生き長らえるというのは、考えていたよりも幸福なことらしい。