夕暮れの空を飛ぶコックピットに、エンジンの規則的な唸りとは違う音が響く。
南風が、はっとして腕で腹を抱える。「……すみません」
風信は小さく笑い、横目で見た。「腹へってるのか?」
「はい。その、ちょっと節制しておこうかと」
ああ、と風信は察する。
もうすぐやってくる航空身体検査。それはパイロットの健康診断だが、結果いかんによっては飛べなくなることもありうる。もちろん永遠に飛べなくなるような重篤なことは滅多にないとはいえ、ひっかからないに越したことはない。
「前回、数値がちょっと悪くなってたので……今回は食事もしばらくサラダだけにしたりして頑張ってるんですけど……」
「ハードな仕事なんだから、しっかり食べないともたないぞ」と風信は眉をひそめるが、向こうも大人だ。食生活に口を出すこともあるまい、とそれ以上は何も言わなかった。
「やっぱりなかなか荒れるな」
風信がつぶやく。嵐に見舞われた空が飛行機を弄ぼうとするのを、風信の手元が必死に抵抗する。ぎりぎり直撃前に帰って来られたとはいえ、強い横風に煽られ、一度は着陸を断念し上空へ戻った。
風を見計らってもう一度着陸体勢に入る。滑走路への接地直後に風上側の翼が突然持ち上げられ、機体が傾き大きく跳ねる。一瞬、二人の胸がひやりとするが、風信は冷静な操縦で、なんとか機体を安定させて全ての車輪を地面につけた。
駐機させた機体のエンジンが全て止まって初めて、二人は静かに息を吐く。やれやれと風信は肩を回して操縦席から立ち上がった。
「おつかれ」まだ放心したように席に座っていた南風に風信が声をかけると、南風は、はっとしたように勢いよく立ち上がり、操縦席から出た。
だがその途端、南風の目の前が真っ暗になった。
「……南風!?」
コックピットから出ていこうとしていた風信が、崩れ落ちる南風をすんでのところで抱きとめた。ずしりと重みのある体の全体重がかかり、床に膝をつく。
「どうした、だいじょうぶか?!」
風信は、即座に南風の首元に手を当て、口元に頬を近づける。若干脈が早いが、息もありそうだと少しは胸を撫でおろす。
風信の膝と腕の中で、うっすら意識が戻った南風は、風信の手が自分のネクタイを緩め、シャツの第一ボタンを外すのを感じた。耳と頭は水の中にいるようなのに、南風の首元はシャツ越しに動く風信の指先をはっきりと感じとっていた。
とりあえず首元をゆるめた風信は、南風の様子を伺う。だが、このコックピットでは暗いし狭い。風信は、コックピットのドアを開けると、南風の片腕を肩の後ろにまわし、片腕で上体、片腕で膝裏をしっかりと抱えて立ち上がった。キャビンのクルー達はもう皆降りたようだ。南風の体を抱え直し機体から出る。出口ですれ違った地上職員が驚いた顔で、大丈夫ですか? と声をかける。風信はああと頷き、とりあえず降りてすぐのところにベンチがあったはずだと考えながら「荷物、すぐに取りに戻るから」と振り返りながら言う。
風信に抱え上げられた南風は、薄っすらと目を開けたものの、目の前に風信のブレザーの胸元が見えて、また目を閉じてしまっていた。自分の頭を支えているのが風信の胸だと気づいた途端、心臓が早く打ち始める。体越しに風信にそれが伝わってしまいそうで、落ち着かせようと息を吸う。
南風の鼻腔をかすかに香水の香りが撫でた。普段、締め切ったコックピットを意識してか、隣に座っていても風信がつけている香水の匂いを感じるようなことはない。思わずもう一度静かにそっと深く息を吸い込む。ウッド系のような深みのある大人の香り。どこの香水だろうと考えながら、もう一度——
「大丈夫か?」
腕の中で南風が繰り返し深く息をするのに気づいた風信が声をかけると、南風の目が開いた。見下ろす風信の目と合い、さらにその目が大きく見開かれる。
「す……すみません」
風信は、窓際のベンチにそっと南風を下ろした。南風は大きく息をつくと体を起こす。
「おい、無理するなよ」風信が思わずその体を支える。
「ありがとうございます……たぶんもう大丈夫、です」
南風の俯いた顔に風信の手が添えられる。持ち上げられた顔の目の前に、しゃがんだ風信の心配そうな顔が現れ、南風の顔が熱くなる。
「ん、血色もどってきたな。たぶん貧血だろう。まったく、ちゃんと食べないからだぞ」
はい、と南風はなおもぼんやりとしたまま答える。
「身体検査、違うところで引っかかるぞ」
南風の視線が落ちる。「……どうしよう」南風の瞳が不安で潤む。失神など、パイロットとして致命的だ。
「まあ、とりあえずは血だな」風信が言う。「赤身の肉でも食べに行くか」
涙で潤んだ南風の顔が少し明るくなる。
「だが」風信は毅然とした顔で立ち上がる。「その前に医務室だ。歩けるか」
「……ちょっと無理かもしれません」上目遣いで言う南風に、風信が眉を上げる。「そうか、じゃあ車椅子を取っ……」
「あ、いえ、歩けます!」南風が急いで立ち上がろうとするのを風信がとどめる。
「荷物取ってくるから、もう少し座ってろ」
笑いを堪えるような顔に、南風はおとなしく椅子に腰を下ろした。