「座談会……ですか?」
怪訝な顔で聞き返す南風に、広報担当職員がにこやかな顔で頷く。
「はい、今度、機内誌の記事用にいろんな職種の人たちで集まって座談会をすることになりまして。副操縦士として抜擢されました、おめでとうござ……」
「いや、あの、なんで僕……話なんてできないですけど」南風がおもわず遮る。
「そりゃあ、若手の有望株ですし、それに——」ぐっと南風の耳元に口を寄せる。「見栄えも、しますしね」
「は……?」思わず身を引いた南風の頬が赤くなる。
「あ、そういえば、風信機長にも声かけてますので」
風信の名を出せば南風が断らないと知っているのだろう。だがどちらにしろ南風に拒否権はなかった。
「では、再来月の14日、よろしくお願いします!」
整備工場の隅にぐるりと並べられた椅子。後ろには、南陽航空が導入したばかりの新型の飛行機。
まずは一人ずつアップの写真撮影から始まった。小さなカットくらいだと思っていた南風は、どうりで念入りに髪を整えられたわけだと溜息をつく。視線の先では、風信機長がまだ二人がかりで髪を整えられ、顔にメイクブラシを当てられている。
「十時間のフライトから戻ったばかりなので」
疲れた顔の機長を見ながら、自社の人使いの荒さに南風は静かに慄く。
なんとか準備が整い、座談会が始まった。パイロット、CA、整備士、地上職員と、普段ゆっくり話すことがない面々、はじめはぽつぽつと言葉が行き交うだけだったが、少しずつ場が温まってくると、面白い裏話なども飛び出す。今だから話せる新人時代の失敗談などに混じって、その質問は突然投げ込まれた。
「ところで、今日はバレンタインですけど、やっぱりパイロットの皆さんはモテるんですか?」
突然向けられたその質問に、風信と南風が固まり、そして同時にぶんぶんと首を振った。
「いえいえ、そんな」「そんなことないですよ」
「えー、だって風信機長なんて絶対今日は大量にプレゼント渡されるでしょ」
みんなが笑いながら頷く。
「大型スーツケース何個分ですかね」
「ぜんぶ本命だったりして」
「えっ、風信機長ってまだお相手は……?」
驚いたような声に風信は瞬時に首を振る。「いえ、いないですよ!」
風信の顔がひきつっていく。彼が女性を苦手としていることは社内でもまだ知らない人は多い。
「お客様との出会いとかは?」
「な、ないですね。あまりお客様と合う場面はないですし……」
「じゃあ、社内では? 気になる人とかは?」
風信は口を開いたまま一瞬固まった。
「……いえ」
固唾をのんで見つめていた面々の間で沈黙が流れる。
まさか……いるのか? 今の微妙な間は、怪しい。
南風も思わず風信を見た。と、その目線が風信と合った。
南風は即座にその視線が意味するところを察した。
「そりゃあ、常にとなりにいますよ」南風の声に皆の視線が南風へ移る。
「キャプテンの想い人は——」南風が上を指さす。「空ですよ。永遠の恋人」
「えー、またそんな」「パイロットって、みんなそんなこと言うんですか?」
また場がわいわいとし始め、南風はほっと息をつく。うまく助け船を出せた。
そのあとはそれぞれの業務ならではの話なども出そろい、座談会はつつがなく終わった。広報担当者が腕時計を見る。
「だいぶ早く終わりましたけど、このあとは自由ということで」
皆、リラックスした表情で挨拶を交わし、散っていく。
南風が風信のほうに行くと、風信は疲れた表情ながら、ほっとしたような笑顔を見せた。
「お疲れ。今日はこのあとは仕事か?」
「いえ、これが終わったら今日はあがりの予定だったので」
「俺もだ。……どこかで一休みしないか?」
南風はすかさず頷く。この予定が入ってからひそかに期待していたのだ。
二人は会社には戻らず、空港内のカフェに入った。
座談会ではお茶を濁したが、二人とも、今日は会社内でうろうろしてるとすぐに捕まるとわかっていた。義理とわかる菓子なら、渡されても気軽に受け取っておやつの足しにするだけだが、たまにそれに混じって差し出される何やら意図がありそうなものには、二人とも気まずいものを感じてしまうのだ。
飛行機が見える窓際のカウンター席に並んで座る。どちらの前にも大きなケーキと熱いコーヒー。
二人でゆっくりと時間を過ごすのは随分久しぶりだった。少しばかり近況など交わしたところで南風がフォークを置いたのと風信がカップを下ろしたのが同時だった。
「あの実は」「ところで」
言葉が重なる。
「お前が先だ」風信が微笑むと南風はカバンに手を伸ばし、中から、掌にやっと乗るほどの四角い箱を取り出し、風信に差し出した。受け取りながら、その表面のロゴとハート柄を見た風信の目が丸くなる。
「これは、ひょっとして……」
「はい、この間ちょうどフライトで行ったので」
ロンドンで今世界中から注目を集めているショコラティエの店。そこで、このバレンタインの時期にだけ販売される限定商品。
「なんで……知ってたんだ?」風信の熱い視線に南風は得意げな顔をした。
「風信機長がそのチョコが気になっているけど今月はロンドンフライトがないと、いたくガッカリしていらっしゃると聞いて」
「べ、べつにそんな……」と目を泳がせる。だが口の緩みようは隠せない。
「いや、その……」風信は一つ咳払いをすると、隣の南風を真っ直ぐ見つめて言った。
「ありがとう」
今度は南風のほうが恥ずかしそうに目を逸らし、急いでケーキをぱくりと一口食べる。それを見ながら風信もカバンに手を伸ばした。
「実は俺もお前に買ってきたものがあるんだ」
「えっ」南風がさっと顔を上げる。
差し出された黒い箱を南風が見つめる。艶消しの高級感のある箱には何も書いていない。
「なんかラッピングが大仰ですまん」
プレゼント用ですかと聞かれ、人に渡すものだしと頷いた結果、箱には丁寧にサテンのリボンが結ばれ、ご丁寧に真っ赤なハートのチャームまでついている。
「開けてみればいい」
南風の指がそっとリボンを解き、箱の蓋を持ち上げる。中には小さな小瓶が六本並んでいた。
「お前があちこちの空港の免税店で、俺の香水を探してると聞いたんでな」
見る間に南風の頬が赤くなる。
「この間フライトの合間に本店に行ったら、期間限定でディスカバリーセットが売られているのを見つけて」
店にディスプレイされたそれを見つけたとき、風信の頭に思い浮かんだのは南風の顔だった。これを南風にあげよう、そう思った途端、滑走路から飛び立つ瞬間のように心がふわりと舞い上がる感じがした。誰かにプレゼントを買うのは苦手だったはずなのに。
「この中に正解があるぞ」
小さなボトルをそっと一つずつ鼻先に持っていく南風を、風信は肘をついて楽しそうに眺めた。
「付け方は知ってるか? 手首につけてから……」
一つのボトルを手に取ってプッシュしようとする南風に声をかける。
「耳の後ろに」
ワンプッシュした南風が首を傾げる。「耳の、後ろ?」
風信は少し身を乗り出すと、手を伸ばして南風の手首をそっとつかみ、その頭の横に持っていった。南風の肩がぴくりと震え、風信は手を離した。
「そう。そうやって付けるのが王道なんだが、コックピットでは香りすぎるから──」
手首を頭の横につけたままの南風の耳を、風信の声が通り抜けていく。
「臍のあたりとか足首につけるのもいいぞ。あとは夜に付けるとか……」
「は、はい……」動きを取り戻した南風がくんくんと鼻を動かす。
「でもこれは機長のじゃないような……」
南風はそう言って別のボトルを取り、もう片方の手首に付けると、そっと鼻に持って行った。その顔に笑顔が広がる。
「これじゃないですか?」
覗き込んだ風信が目を丸くする。「正確だ」
すごいな、と感心する風信に南風が満面の笑みを返す。
「でもお前はお前の好みの香りを見つけるといい。同じじゃなくて──」
そこまで言った風信は口をつぐんだ。
同じ香りでは寂しい──俺はお前の匂いが好きだから、思わず頭に浮かんだその言葉に、風信自身が動揺していた。思わず目を逸らし、カップを持ち上げる。
「ありがとうございます」
きらきらと目を輝かせて言う南風をちらりと見た風信は、そうだ、とカップを置いた。
「このチョコレート、お前も食べないか?」
えっそんな、と言いながらも南風は箱を開けていく風信の指を見つめた。その綺麗な指は、洒落た箱に合わせてあつらえたようだった。
蓋を開けると、様々な形、装飾の粒が行儀よく並んでいた。
「どれがいい?」風信が聞く。南風は小さく首を振る。「そ、そんな」
「じゃあこうしよう」と風信が指を立てる「目をつぶって指差してみろ」「えっ?」
じっと見つめる風信の目の力に押されるように南風は目をつぶり、遠慮がちに指を下ろした。
「よし」
南風が目を開けると目の前にチョコレートを摘んだ風信の指があった。
「ほら」言われるままに開けた南風の口の中に茶色い粒がそっと飛び込む。口の中で転がしたあと、そっと噛むと、中のほろ苦いガナッシュが舌の上でとろける。
「すご、美味しい……」思わず南風の目が潤む。
「うまいか?」風信も一つ摘んで自分の口に入れた。それを見つめる南風が、自分もやりたかったと少し残念そうな表情を浮かべていることに風信は気づかない。だが口を動かす風信が「うーん、最高だな……」と言いながらうっとりと目を閉じるのを見て、南風の口元もゆるむ。
二人の間で笑顔が溶け合う。
「なんか、バレンタインの日に物を渡し合うなんて……」カップを両手で包みながら南風が言う。
「恋人どうしみたいですね」
風信も笑って髪に手をやる。「ほんとだな。渡せるのが偶然今日だっただけなのにな」
南風はおどけたように風信の肩にトンと軽く寄りかかる。
「僕、風信機長のこと大好きですよ」
風信も笑いながら小突き返す。
「そうか、俺もお前が大好きだぞ」
くすくすと笑いながらちらりと目線を交わしたあと、南風は笑みを浮かべたまま視線を前に戻し、何事もなかったかのようにカップに口をつけた。
だがその心の中には不思議な感情が湧き上がっていた。
違う、本当は自分はこう言いたいんじゃないのか?
──風信さんのことが、好きです、と。
大好き──最上級のはずのその言葉は臆面もなく言えるのに。
好き、という言葉は南風には縁遠かった。いや、言い直そう。今日世界中で交わされているであろう意味での「好き」という言葉は、南風にとって誰かに言ったことはない言葉だった。
風信機長のことは大好きだ。だがそれは尊敬であり、気心の通じ合う者に対する親近感だと思っていた。あろうことか唇を重ねてしまったことすらあったが、それすら酔いにまかせた過ちでしかなかった。でも今、となりでケーキを食べながら窓の外を動いていく飛行機を見つめている姿に湧き上がる感情は、ひょっとすると──。
南風は静かにコーヒーを飲み込む。視線の先では駐機していた飛行機が専用車両に引かれて後ろへ動いていく。飛行機は自力でバックできない。前に進むことしかできない。
自分がそんな気持ちを抱いていることを伝えてしまったら、もう後戻りはできないのだ。もしも困った顔をして謝られたら、たぶん自分はもう平静な気持ちで一緒に飛ぶことはできないだろう。
南風は心の中で大きく首を振った。そんな危ない賭けをしなくても、こうやって時に笑い合い、時に寄りかかれる存在としていてもらえる方がいいじゃないか──少なくとも今は。南風はカップを持った手首からほのかに香る匂いに微笑んだ。
南風は知らなかった──隣でケーキを頬張る風信も同じようなことを考えていたことを。
大好きですと朗らかに言う南風の姿に、自分が抱いているこの感情はなんだろう、と風信はぼんやりと考えた。これまで何度か頭の隅を掠めていった考えが、また目の前に顔を出す。
恋人と呼べる人が今までいなかったわけではない。
お前みたいに顔も性格もいい奴が誰とも付き合ってないなんておかしい──そんな周りの言葉に押されるように、こちらで出会った同郷の女性と付き合ってみたことはある。それなりに気が合い楽しかったが、いつしか義務感のようになり、そしていつの間にか関係は立ち消えていた。
恋に落ちるっていったい何なんだ? パイロットになってからは一層、男女問わずそういう目線で見られることが増えたが、自分のほうは誰かにそういう感情が芽生えることはなく、それが何なのかわからないままだった。自分には一生わからないのかもしれない。そう諦めかけていた。それなのに──。
隣でカップを見つめながら微笑みを浮かべる彼と一緒に過ごすたびに生まれるこの感情は、ひょっとして「それ」なのだろうか。気になる人はいないのかと聞かれたとき、思わず見てしまったその真っすぐな瞳。一瞬触れた手首の力強さと皮膚の柔らかさ。
駄目だ。風信の頭の中で、飛行機を誘導する地上ハンドラーのように腕を大きくバツ印に交差させた姿が立ちはだかる。
仕事上の上下関係があるところに対等な恋愛関係は成立しない──少し前に会社の研修で聞いた言葉が風信の頭に蘇る。
もし、自分にそんなふうに見られていると南風が知っても、彼には機長であり先輩の自分を拒むことはできないだろうから。自分からそんな関係を求めることはできない。
それでも、この気持ちを消してしまうことができなければ、いつか伝えることができるのだろうか。
遠くで南陽航空の飛行機が滑走路を走るのが見える。エンジン出力を最大にし一気にスピードを上げていく。
Vワン、と頭の中に操縦席で聞く機械音声が響く。──離陸決心速度。この速度を超えたらもう止まることは出来ない。何があっても離陸するしかないのだ。あっという間に夕日に染まった空に消えた飛行機を見送り、地上を動く飛行機に視線を戻す。
風信はケーキの最後のひとかけを口に入れながら思った。自分はたぶん滑走路に行くのが恐くて、ずっと空港の中をのろのろとタキシングしているのだ。なんて臆病なんだろう。だが焦って取り返しのつかない事故を起こすよりはいい。
南風は隣で箱にもう一度リボンをかけようとしている。リボンや包装紙なんで適当に丸めてしまいがちなのに、その指が愛おしむようにそれを弄んでいる。風信もそっとチョコレートの箱を閉じて両手にとり、その表面を指で撫でた。
「ありがとうな」箱を軽く持ち上げて風信が言うと、南風もまぶしそうに目を細めながら「こちらこそありがとうございます」と言った。
「空、すごく綺麗ですね」
南風が窓の外を見ながら言う。
二人の目の前の空は、オレンジ色の太陽の名残と紺色の夜の予感が美しくグラデーションを描いている。風信も、本当だなと頷く。
「俺は、お前と見る空が好きだ」と風信が言う。
「僕も、風信さんと一緒の時の空が好きです」と南風も言う。
二人とも、空を間に挟めば素直にその言葉を言うことができるのに。
暗くなっていく空を映す窓ガラス越しに、もどかしい想いを秘めた二人の目が見つめ合った。