自室の窓から差し込む陽の光。風信はぼんやりと窓の外に視線をやる。
いつもなら、休日ともなれば春の陽気に誘われるように特に用事がなくてもふらりと外に行くところだが、今年はそうはいかない。
目が上滑りするほど何度も読んだ資料に目を戻し、溜息をつく。
機長昇格訓練。
肩の線を一つ増やすそれが簡単なものだとは全く思っていなかったが、何か月もの期間、集中力と精神力を保つ大変さは半端ではない。
ここまで、座学やシュミレーター試験は順調にこなし、ついに終盤の実際のフライトでの訓練までたどりついた。だがすでに消耗してきた最後での、このステップはやはり楽ではない。
席が左側の機長席に変わるだけで、こうも勝手が違うものだとは。いつもは絶対にしないようなミスをしそうになりひやりとしたこともある。
ここを乗り越えられなければ、これまでの全てが水の泡だと自分を奮い立たせようとする。知識はもうしっかり頭に入っているし訓練も嫌というほど重ねた。だが、あとひと踏ん張り、自分で自分を鼓舞する方法がわからない。
悶々とそんなことを考えていると、スマホの画面が光った。通知に目をやる。
慕情からだ。
邪魔をするな、と思いながらも、とうに集中は切れていて、指はメッセージを開けている。『日焼け止めを買いに行く。一緒に来るか?』
――なんなんだ突然。
だがしばらくして思い出した。
あれはもう随分前のこと――。
「お前、日焼け止め塗ってないのか?」
空港のカフェで優雅に紅茶カップを持ち上げながら慕情が目を丸くしている。
南陽航空と玄真航空というライバル社のパイロットでありながら、二人はよく顔を合わせていた。腐れ縁としかいいようがない。
風信は眉をひそめて言い返す。
「別に日焼けなんて気にすることないだろ」
「コックピットであんなに長時間、紫外線にさらされ続けるのに?」
確かに雲の上に出れば、昼間のフライト中はずっと日差しにさらされる。でもだからといって日焼け止めを塗ったりはしていないというと、慕情は未知の生物でも見るように風信を見た。失礼な奴だ。
「せめて右だけでも塗ったほうがいいと思うぞ」
副操縦士は必ず操縦席の右側に座る。操縦中は半袖のパイロットが多いから、右腕が日焼けしやすい。
「まあ、確かに塗ったほうがいいのかもしれないが――」なぜ弱気になっているんだ、と思いながらも続ける。
「店に買いに行っても、たくさんありすぎてわからん」
慕情が、ぶっ、といささか大げさに紅茶を吹くフリをする。いつも澄ましているクセに、風信を馬鹿にするときだけは下品な真似を惜しまない。
「目をつぶって指さしたのとかにしそうだな」
「……」
「……ほんとにやったのか」
慕情が眉を下げて薄笑いを浮かべる。「で?」
「……なんか、やけに高いのだったからやめた。いい肉が数回食べられそうな値段だったぞ」
「肉で数えるな、馬鹿」
風信はふんとそっぽを向く。どうせ自分には美容など異世界の話だ。
「じゃあ、どれがいいのか教えろ」風信がそう言うと慕情は肩をすくめた。
「そのうち気が向いたらな」
――そのうちなんて、どうせ来ないと思っていたのだが。
しかし、なぜよりによって今なんだ。画面を見ながら溜息をつく。
慕情も、ちょうど時を同じくして玄真航空で機長昇格訓練を受けているはずだ。訓練がきついのは向こうも同じだろう。
なるほど、さては—―訓練中でも余裕だと見せつけるつもりか。
『わかった。何時にどこだ?』
資料を閉じて立ち上がる。気分転換だって必要だ。
「…………」
思わず立ち尽くす風信を、振り返った慕情がじろりと上から下まで見つめる。
「どうした」
「べ、べつに……」
やってきたのは、なにやら広大なフロアに化粧品やらなんやらが並んでいる店。小さなスーパーの日用品コーナーなら、洗濯洗剤からペットフードまで家じゅうのものが揃いそうな棚が、すべて日焼け止めだと聞いておもわず眩暈がしそうになった—―なんて言えるはずもない。
「い、いろいろあるんだな。このスプレーとかも日焼け止めか?」
「ああ。スプレータイプは手軽だな。だがどうしても細かいところに塗りムラができる」
「なるほど」ピンとこないが、とりあえず頷いておく。
「王道はやっぱりクリームかミルクタイプだな」
風信が日焼け止めと聞いて想像するのもそれだった。慕情は続けた。
「だが、それも今はいろいろある。肌になじみやすいタイプ、セラミド配合とか、ノンケミカル、カラーコントロール、ウォータープルーフ、ノンコメドジェニック――おい、風信」
思わず数万フィートほど上空にいっていた意識を急いで地上に引き戻す。慕情はお見通しとばかりに口の端を上げている。
「と、いうのはお前にはまだレベルが高いだろうし、さしあたり、強さはどのくらいがいい?」
「強さ?」
やれやれといった調子で慕情が一つ棚から取って見せる。
「ここにSPFとPAと書いてあるだろ。この数字とプラスの数で紫外線防止効果の強さがわかる」
「SPF……? PA……?」聞き返すことしかできないのが悔しい。慕情は一瞬考えて言った。
「グライドスロープとローカライザーみたいなものだと思え」
「なるほど」
頷く風信の隣で、かなり雑な例えだったな、と自分で納得いかないといった顔で慕情が呟く。
商品棚を見つめると確かに数字はいろいろある。見た感じ、数字が低いほうが肌には優しいということだろうか、と見当をつける。
「やっぱり日光にさらされる程度と時間を考えたら、強めのほうがいいのか?」
そうだな、と慕情は一つを取るとシャカシャカとボトルを振った。
「腕、だせ」「え?」「試してみないのか?」
風信がシャツの袖をまくると慕情がボトルを風信の腕に傾けた。腕にのった乳白色の液体を見つめていると、慕情の指がその上に伸びた。
細いが力強い指が、風信の腕の上を優しく滑る。
少しひんやりした液体と慕情の体温が混じり合う。その柔らかな指先の感触に、思わず息が止まる。
「どうだ?」慕情が聞く。
「……気持ちいい」思わずそう呟いてからはっとするが、慕情は得意げに笑った。
「だろ? これは冷感タイプだ。どうせお前はそういうの好きだろ」
「あ、ああ、うん、そうだな」急いで平静を装う。腕を持ち上げて見つめると微かに爽やかな香りがした。
「なんかいい匂いするな」
「シトラスの香りだな」慕情がボトルの裏を見ながら言う。
「日焼け止めってもっと、油っぽい嫌な匂いだと思ってた」風信が言うと慕情がじろりと横目で見た。
「お前、もしかして今使ってる日焼け止め、いつ買ったやつだ?」
洗面所のボトルを思い出しながら考える。屋外のレジャーやスポーツ観戦くらいでしか使わないから、十年くらいあるような気がする。
「7、8年くらい……?」
おずおずと言うと慕情は、大きく目を見開き、そしてぐるりと白眼をむいた。
「捨てろ……! いますぐ捨てろ!!」
囁き声ながら、あまりの剣幕に思わず身を引く。
「わ……わかったわかった……! 買う、今日新しいの買うから!」
そのあとも慕情の買い物に付き合わされた後、カフェに入った。やれやれとワッフルを齧る。
疲れたが、しかし傍らの紙袋にはしっかり日焼け止めが入っているから、まあ良しとしたものだろう。試したミルクタイプだけでなく、どうせお前は家で塗り忘れるだろうからコックピットで手を汚さずに塗れるようにという慕情の有難い指南により、スティックタイプも入っている。慕情も自分用に同じものを買っていた。
「それにしてもなんで急に?」
買い物に誘われるなど珍しい。そう聞くと慕情はにやりと笑った。
「日焼け止めがたくさん必要になったから」
「は?」
抑えきれないというように笑みを大きくしながら慕情が続けた。
「これからは左にもたっぷり塗らないといけなくなったからな」
「……へ?」
何を言っているんだとしばし考えたのち――思わず目を見開く。
「まさか……機長に昇格したのか?!」
慕情は満面の笑みで腕を組んで椅子の背にもたれた。
「そう。これからは左席だ。慕情機長と呼べ」
風信は思わず目をむきたくなった。まさかそれを言いたいがために……?
「お前……まわりくどすぎるだろ!」
風信が言うと、慕情がむっとした顔をする。
「普通に言ったって面白くないだろうが」
……こいつの面白さの基準がわからない。
だが、たまに漏れ聞こえてくる慕情の玄真航空での評判は、人好きしないし愛想もなければ小さなことを根に持つ友人のいない堅物で面白みもない嫌味な奴、といったところなので、風信に見せるこんな一面はレアなのかもしれない――などと思ってしまうのがまた癪なのだが。
「お前はまだなのか?」
楽しそうな顔をぐっと睨みつける。
「ふん、うちはそうホイホイなれないからな。だが俺ももうすぐ、左からがっつり日差しを受けてやる」
「そうか、早く追いつけよ」
「すぐ追い越す。俺の機体は加速力があるからな」
腕組みして言い返す。焚きつけられると燃える風信の性格を読まれている気がしたが、構わなかった。
受けてやろうじゃないか。
消えかけていたエンジンは、燃料を得て一気に燃え上がっていた。