ちょはん 300万円編(後)「趙、話がある。ハン・ジュンギ、お前は先に出ていろ」
「かしこまりました、ソンヒ」
ある場所の、ある部屋。内部の引継ぎも終え、ようやく体を動かせるようになったので春日一番と合流する予定となっていた。馬淵と高部の件に加えて、己が肉の壁の崩壊の片棒を担いでしまった後ろめたさもあり、彼らとの合流は考えていなかった。だが彼女の優秀な参謀は、春日一番にはあなたの力が必要になると珍しく喧しいわ、宿泊に関しても絶対に断らない人物に話は通してあるから大丈夫だと譲らない。
春日一番達をコミジュルに応援に行かせたのは、ナンバの件もあった。俺たちはナンバを追わないし、あの日は「追えなくなった」が正しい。コミジュルに向かわせた方が異人三全体の利益になると判断したからだった。
ソンヒがヒールを鳴らして近づいてくる。
「趙、ハン・ジュンギを頼む」
「なんて?」
女王然とした態度はいつも通りに、参謀を託されてしまった。
「あれは、そうだな。何といえば良いか、少し難しい」
「気難しいし、面倒くさいのはよ~く知ってるけど?」
「お前、分かっていて言っているな?」
いや、全然分からん。俺が知るハン・ジュンギは慇懃無礼で気難しく細かいお澄まし野郎だ。初めて、平安樓で会った日のことは忘れられない。猟犬よろしく生粋の裏稼業の人間だ。きっちり血抜きと簡易的な防腐処置まで施した首を贈られた高部が少し気の毒だった。ハン・ジュンギ曰く「思ったよりも時間が余ったから」だそうだ。おかげで、荻久保側の人間にも納得してもらえたようだったが、ソンヒがまた頭を抱えていたのは傑作だった。
「とにかく、目を離さないでくれ。頼むぞ」
無理を言って総帥を兼任してもらうため、断ることはできない。
「分かったよ。とりあえず、見てりゃいいんでしょ?了解了解」
「本当に頼むぞ、趙」
ソンヒの目は、真剣だった。
***
頭が寒い。
大量の空き缶をゴミ袋にまとめて、食べ残しを冷蔵庫に仕舞い、河童像をどかして敷布団を引っ張り出し、おっさん3人を転がす予定外の重労働。遮光性のないカーテンから透ける街灯の光に加えて初めての雑魚寝。シャワーを浴びてとりあえず横になってみたものの、しっかりと眠れるはずがなかった。狭いし近い。あと寒い。さすがに11月にもなって畳に布団を直に敷いて寒くないわけがない。背中の底付き感も相まって眠りが最も浅いタイミングで目が覚めてしまったようだ。
足を伸ばすと何か硬いものがつま先に当たった。奥から順番に布団を敷いたせいで、必然的に箪笥の横で寝ることになってしまったことを思い出す。今は何時だろうか。
自分のスマートフォンを取ろうと、体を起こすと引き戸越しに人影が見えた。一気に覚醒し、体制を元に戻す。薄明りなのではっきりとは分からないが、少なくとも河童像ではない。あの謎のアーティファクトは押入れ側の隅に立たせてコート掛けに使った。全員分の上着を掛けられて、なんだかよく分からないオブジェになっているはずだ。それに、あんな重いものを俺に気づかれずに動かすなんて不可能だ。
出来る限り静かに、反対の隅で眠っている同業者を起こそうと布団に手を延ばす。ひんやりした布の感触に驚き目を凝らすともぬけの殻だった。
まさかと食器棚の方を見ると、その影の背丈はダンゴムシになっていた御同業のようだ。
なにやってんだ、あいつ。
おっさん3人を起こさないようにゆっくりと引戸を開ける。ガラガラとそれなりの音が出たが、誰も起きない。そして食器棚の前に佇む人影も動かなかった。前者はともかく後者は妙だ。俺たちのような人間は、他人の気配に敏感でいるように叩き込まれている。背後を取られるなんてもってのほか。致命的を通り越して羞恥心で死んでしまう。
彼のプライドを傷つけないように、戸の隙間から声をかけた。
「ハンくん、どうしたの。もしかして、コミジュルで何かあった?」
コンビニに行く直前にすれ違ったときの彼を思い出す。彼らしくない。そこまで親しい間柄とはいえないが、誰に対しても平等に慇懃無礼が売りの男が上の空でサバイバーに戻っていったのはさすがに引っ掛かっていた。だからアイスの件では起こさなかったのだが。
カチャカチャと金属が重なりあう音が聞こえる。
「お~い。まさか寝ぼけてんの?」
返事はない。仕方がないな、とゆっくり彼の背後に立つ。
「ハン・ジュンギくん、俺に後ろを取られるとは功夫が足りないんじゃない?」
そう言って両肩をバンと掴んだ。反応がない。肩を掴んでいる感覚はある。ただ、触れた体は布団と同じく冷えきっていた。
部屋で3人眠っているため台所の電気を点けるのはさすがに憚られる。一旦自分のスマートフォンを取りに部屋に戻り、スリープ状態を解除した。充電し忘れていたが、まだ元気そうだ。午前4時。案の定、全然眠れていない。
台所に戻りスマホのライトで人影を照らすと、やはりそれはハン・ジュンギで部屋着のまま、カチャカチャと何かいじっていた。
「お前マジで何やってんの?」
と手元を照らすと、そこには両手いっぱいのカトラリーがあった。食器棚の引き出しに入っていたフォークやスプーンにナイフ。それらを両手いっぱいに掴んで、ごちゃ混ぜにしていじっていた。
「……お前マジで何やってんの?」
何かブツブツ言っているがよく聞こえない。ライトで顔を照らすと、ようやく俺を見た。それと同時に手元も止まった。
「もしかしてお腹空いたとか?」
スプーン、フォークにナイフ。凶器になるものばかりであるものの、背後をとっても襲われなかったのだ。かなり気を抜いているのか、疲れているのだろう。もしかしたら単純に腹が減っているのかもしれない。酒ばかりで何か食べている様子は無かった気がする。
「あ~……残り物なら冷蔵庫にあるけど。あとダッツも」
少し首をかしげられた。違うらしい。そういえばえりちゃんが『ハン・ジュンギは寝起きが悪い』と言っていたのを思い出した。これまで有能な参謀でヒットマンの姿しか見たことがなかったが、短期間でも春日一行と過ごして緊張が抜けているのかもしれない。
「ま、俺も目覚めちゃったし。朝飯でも作るかな」
ハン・ジュンギは数度瞬きをした。まだ頭がしっかり働いていないのだろう。世話の焼ける奴だ。ソンヒが言っていたのはこの事か?と訝しみつつも話を続けた。
「ほら、食器閉まって。下行くよ」
彼は先程とは逆に首を傾げ、ゆっくりと瞬きをする。何か言いたげだが構わず強引に手を掴み、二人して2階の部屋を出た。
***
階段と裏口側、そしてキッチンカウンターの電気を点けて暖房を入れた。早朝から誰か来るとは思っていないが、こうゆうのは必要最小限で十分だ。
とりあえず階段下のソファー席に座らせて、まだ数本握ったままのカトラリーを回収した。ごく家庭用のデザインだ。レトロで懐かしくもある。プラスチックの柄はヒビが入っており、カトラリーもやや黒ずんでいた。長いこと使われていないらしい。マスターこれはさすがに棄てろよ、と心の中で悪態をつきつつカウンター上にまとめて置いた。
寝ぼけ眼の殺し屋は、もうカトラリーに興味がないらしい。日の出前のスナック街の裏道をぼんやり眺めている。
「なに作ろうか?呑み明けだしな……中華粥か雑炊ならすぐできるよ」
投げ掛けても返事がない。さすがに寝起きが悪すぎる。よくこんな調子でコミジュル参謀が務まっているなと段々腹がたってきた。体の痛みと眠れていないのも相まって、イライラが高まる。
「ハンくん、中華粥と雑炊どっちがいい?」
少し大きな声でもう一度聞くと、ゆっくり振り向いた。髪を下ろしただけで、ここまで雰囲気が変わるものだろうか。普段よりもずっと若く見える。
「中華粥」
と抑揚無く応えて、また外を向いた。
何だコイツ。
せっかくだから多めに作っておくか、と鍋を2つ用意し生米、ごま油そして卵を冷蔵庫から取り出す。薬味になりそうなものはいろいろあるが、ここは定番のネギと塩昆布がいいだろう。
ウチの若い子以外の人間が自分の料理を食べてくれるなんて考えたこともなかった。俺は少し楽しくなってきていた。
***
「はい!お待たせしました~。趙天佑特製中華粥でございま~す」
玉子とじ中華粥に塩昆布を少々。深めの鉢とレンゲに盛り付ければ、中々に贅沢な朝食だ。外はまだ暗いが朝帰りの嬢や新聞配達のバイクが店の脇を通っていった。もうそんな時間かと、出来立ての中華粥をハン・ジュンギの前に差し出し、自分の分も用意して同じソファー席の空いている方に腰かけた。
「いただきま~す」
何の声もしなかったのでチラリと様子を伺うと、彼はレンゲを手にぼんやりしている。
「早く食べないと冷めちゃうよ」
「え、あぁ……いただきます」
ようやく喋った。彼がこの10日ほど、情報収集やらコミジュルと横浜流氓の調整で疲労が溜まっているのは十分承知している。二階での様子にせよ、言いたいことはそれなりにある。だが、もう彼に何か言える立場には無い。彼への苦言を全部、粥と一緒に飲み込んだ。
特に会話もなく、あっという間に食べきってしまったところで2階の扉が開いた音がした。ドスドスと重い音で誰がきたのか察する。
「なに、二人してこそこそ飯食ってんだよ。俺の分あるか?」
「おはよう足立さん。昨晩はお楽しみだったようで?」
「何がお楽しみだよ。紗栄子だけじゃなくてエリちゃんまで酒が強いとはなぁ」
足立さんは大きく肩を落とした。
「で?なに食ってたんだ?」
「俺特製中華粥フィーチャリング塩昆布で~す」
「おぉ~朝から贅沢じゃねえか。そんじゃ、1杯貰えるか?」
「もっちろん!ちゃんと多めに作ってあるよ。すぐ温めるよ。じゃ、足立さんは俺と交代!」
「さすがだぜ趙さんよ!やっぱりできる男は違うねぇ」
褒められて悪い気はしない。
「ごちそうさまでした」
と声の方を向けばハン・ジュンギだ。ようやく頭が起きたらしく、律儀に食器をカウンターまで持ってきてくれた。
「お粗末様でした。忙しいの分かってるけど、ちゃんと休みなよ?」
「えぇ、そうさせていただきます。中華粥、美味しかったです」
そう言って彼は2階へと戻っていった。ちゃんと感想をいえるタイプなのかと、彼への認識を少し改めた。
スイーツは選びたい、寝起きが悪い、食事の感想が言える。これまで仕事上の付き合いしか無かった相手だ。何も知らなくて当然だ。仲良くなれるといいなと考えていると、足立さんに呼ばれた。
「何~?おかわり?」
「なぁ趙、あいつと何かあったのか?」
目が少し厳しい。刑事の目だ。
「何もないけど……あぁなんかお腹空いてたっぽかったから、朝飯作って食わせてた。あ~もしかして、あまり口に会わなかったかな?」
「それはねぇだろ。あいつも、美味しかったですって言ってたじゃねぇか。さすがうめぇぜ。おかわりもらえるか?」
「もちろん!じゃんじゃん食べてよ!」
足立さんの鉢を下げて、新しい鉢に8分目に盛り付ける。
「いやなぁ、ハン・ジュンギ飯食ってる間中手が震えてたんだよ。本人は隠してる様子だったが、怪我でも隠してんのかあいつ」
「寒かったんじゃない?疲れてはいそうだけど、怪我はしてないと思うよ?」
「ま、コミジュルで何かあったのかもな。ところで趙、そこの古いスプーンやらフォークどっから出てきたんだ?そんなもの」
「どこって2階の食器棚だよ。ハンくんったらさ、何を考えてんのか分かんないけど、それずっと両手でガチャガチャやってたんだよ。お腹空いてんの?って聞いても返事しないし、冷蔵庫の残り物嫌だったみたいだしさ。心優しいこの俺特製中華粥を振舞ってたわけ」
ほう、と足立さんは小さな声で呟いた。薬味をネギに変えたお代わりを運ぶと、おっ分かってんじゃねえかと褒められた。
「で、よう。ハン・ジュンギが食器棚いじってたってか」
「そう」
「なあ趙、あいつから目離さないほうがいいかも知れねぇぞ」
足立さんもソンヒと同じ真剣な目をしている。
「なんで?」
「刑事の勘ってやつだな」
刑事の勘ね。あの時、食器棚の前で彼は何と言っていたのだろうか。俺は、ハン・ジュンギが戻った2階への階段を見つめていた。