ちょはん キムチ編 例えば、自分の好物が自身のルーツと異なるものだとしよう。普通は自由に選択して食べられる。日本はそうゆう事由が許される国だ。ハンバーガー、グラタン、パフェ、他に何がある?とにかく「好きな食べ物は?」と尋ねられたところで、日本人は日本食を答えないといけないという決まりは無い。
だが、俺は違う。確かに中華料理は日常的に食べているし、食べ慣れている。ただ、横浜流氓の総帥が表向きは敵対関係に組織に関連する食べ物が好物だとは言いにくい。俺はキムチが好きだ。スーパーの市販の奴じゃなくて、本格的なキムチを食べたい。
総帥になる前の若い頃は、コミジュルのシマにずけずけと入って適当に荒らしてキムチを調達してきた。馬淵にからかわれ激辛キムチ炒飯の試食に付き合わせたのも、今となっては懐かしい。
「いや~趙さんが作る飯は最高だな~!」
「あのさ、鉄爪。俺はもっと具体的な感想が欲しいの。もう少し油が多い方がいいとか、キムチの酸味が弱い方がいいとかそうゆうやつが聞きたいんだよ!」
「そんなこと言われたって旨すぎて『美味い』以外の感想なんて出てきませんよ……」
部下の体が縮こまった。最近は忙しそうな若手を適当に捕まえては、料理の試食をさせている。まぁ、彼の気持ちも分からなくはない。ランダムに仕事終わりに上司に攫われ、ここ佑天飯店でひたすら飯を食わされる。そもそも感想なんて在って無いようなものだ。鉄爪のような一端の若手戦闘員は、総帥の不興を買うと肉饅頭の具にされると本当に信じているのだ。そう考えると鉄爪が少し不憫に思えてくる。
「本当はさ、コミジュルのシマに売ってるキムチを試したいんだよね。鉄爪、ちょっとお使い行ってきてくれない?」
「無理っす」
「あぁ?」
十字傷に顔を寄せると、彼は目を白黒させた。
「マジで無理なんですよ!ちょっと前から福徳町どころかコリアン街に近づくだけで、コミジュルの奴らに囲まれるんすよ!あいつら何かするわけでもないんすが、ずっとついてくるんすよ。正直気味が悪くて……」
なんじゃそりゃ。昔は遠巻きに見られてはいたが、気味が悪いとは一体……と思案したところで、心当たりがあった。
「分かったよ。理由も分かった。ごめんね鉄爪、なんか食いたいもんあったら作ったげる」
「マジすか!?じゃあ俺エビチリ食いたいっす!」
***
月に一度、誰にも見られないように贋札の材料をコミジュルに流す。もしかしたら総帥として最も重要で危険な仕事かもしれない。何年経っても慣れないこの仕事の唯一の楽しみは、製造現場を直に拝見できるところだった。
そういえば今の機械の組み立てにも無理を言って立ち会わせてもらったな、と特殊インクの印刷工程を眺めていた。材料に何層も手間をかけてインクが乗せられていく。最先端の工場見学だ。自分のシマ内にはこういった未来的な施設は無い。まるでゲームの世界である。
振動が近づいてきた。
「お待たせいたしました趙総帥。今月分の材料確認が完了いたしました。以上でございます。お忙しいところ御足労をお掛け致しました」
要約すると「早よ帰れ」である。
だが、俺には彼に重要な用事があった。仕事は早くて確実なのはお墨付き。そして「一応」異人三内では俺の方が格がひとつ上だ。ソンヒに頼めないこともないが、それはそれで癪である。そうひとりごちていると、背中に刃物より鋭い視線が刺さる。早よ帰れが、さっさと出ていけに変わっている気がした。
「趙総帥、何か不足でも?ソンヒにお繋ぎしましょうか?」
一応は参謀としての体面は保ってくれている今のうちに切り出した方が良さそうだ。
「あのさ」
振り返らずに、背後に控えるハン・ジュンギに投げかける。
「はぁ」
返事なのか溜め息なのか分からない、目の前の印刷機の音に書き消されそうな返事だ。無視されなかった事実にいけると判断し、できるだけ威厳を漂わせながらゆっくりと彼のほうを向く。
振り返るとハン・ジュンギは片目を閉じて眉をしかませていた。そんなに嫌なのか。もっとポーカーフェイスが得意だと思っていたが違うらしい。
「君に折り入って頼みたいことがあるんだ」
意味ありげに切り出すと、さすがの彼も身構える。横浜流氓総帥直々の依頼だ。おそらく今ハン・ジュンギの頭の中は、様々な可能性と情報とがフル回転していることだろう。印刷機の音が不規則に聞こえる。
ここは彼が返事するのを待つしかない。彼はこの現場の責任者だ。贋札製造に関しての決定権は新米参謀が握っている。ここで不興を買って、俺が異人三を裏切る可能性を考慮しているならば答えは決まっている。
「できるだけ手短にお願いします」
乗った。舞台に乗ってもらえればこちらのものだ。
「マジ?本当?本当に話してもいい?」
「趙総帥、手短に、お願いします」
期待通りの反応に、うんうんと頷く。さすがは俺。伊達に無理して総帥を続けているだけはある。
「コミジュルのシマで美味しいキムチ上位5つ買ってきてくれない?」
機械音が変わった。印刷機が別の工程に移っている。
「……もう一度伺っても?」
「コミジュルのシマで美味しいキムチ上位5つ買ってきてくんな~い?お金は払うからさ、ね?お願~いハン参謀~」
距離を一気に縮めて、彼の肩をぐいと引き寄せる。ついでにウインクで親しみを込めてみた。参謀は顔を背け目線を逸らせた。
「……念のため確認させていただきたいのですが、本当に純粋にキムチを御所望で?私が知らされていない隠語では無く?」
「ないない。そんな隠語なんてないでしょ普通。本当に、純粋に、キムチが欲しいの。コミジュルの中で評判のキムチを……」
「ネットで注文すれば良いじゃないですか。店によっては持ってますよ自社EC」
肩を組んだ腕の力を強めて顔を近づける。
「お前、知らないの?」
ハン・ジュンギの顔色が変わった。
「俺、実はさぁ……すっごく通販苦手なの」
ハン・ジュンギが両手で自分の顔を覆った。笑ってはいない。笑ってくれた方が俺としては気楽なのだが。参謀殿は色々な計算や懸念を全部台無しにされて脱力しているのかもしれない。絶対的な縦社会に身を置く俺たちにとっては、些細な断りも組織バランスに影響する。
「失敗は成功の母、と言いますので一度お試し頂いた方が宜しいかと」
逃がすつもりはない。俺は何としてもコミジュルのシマのキムチが食べたい。
「頼むよ参謀。俺の立場上、コミジュルのシマで買い物できないの知ってるでしょ?もちろん代理購入も考えたよ、うん。でもさ、こうゆう食べ物って地元の人の舌と情報が確かじゃない?正式に依頼するからお願い!代金と別で依頼料払うからお願い!!」
合掌して少し頭を下げる素振りをする。ハンジュンギの顔が一瞬で真っ白になった。
「分かりました!分かりましたから、や……止めて下さい趙総帥!!誰かに見られたらどうするんですか!?」
作戦通り。俺は心の中で一層悪いしたり顔をしてみせた。それにしても大きな声出せるんだなこいつ。
「で?量はいかほど御所望ですか?」
「とりあえず500グラムずつかな。食べ比べしたいし、料理にも使いたい」
やや訝しみながらも、彼は頷いた。
「承りました。明日までに手配します。別途連絡をいれますので、壁の外でお渡ししましょう」
「さっすがハン参謀!ソンヒが見込んだだけはあるねぇ~?仕事が早くて助かるよ。さすがの俺も、キムチ食べたいって誰にも頼めなくってさ」
本当に頼めないのだ。ついでに通販は失敗する未来しか見えないし、本当においしいキムチは通販では買えない。ご当地グルメとはそうゆうものである。
「お褒めいただき光栄です、趙総帥。ですが、依頼料はいただけません。明日商品総額をお伝えしますので、お品代のみご用意願います」
「え、なんで?」
「表向きは対立組織の幹部同士です。金銭の授受は好ましくないと判断いたしました」
なるほど。確かに一理ある。ソンヒに知られるなら大したことは無いが、馬淵に知られるのは好ましくない。キムチひとつ、いや5つを手に入れるために、なぜここまで気を揉まなければならないのか。だが、今回は伝手ができた。正直かなり助かる。
「なるほどね。でもそれじゃあ俺の気が収まらないや。本当に個人的な依頼だし」
俺が謝礼金以外でできることと言ったら、それこそ一つしかない。
「分かった!ハンくん、好きな食べ物教えてよ。俺の料理は旨いよ~」