恋愛映画 珍しく早く帰宅し、夕食が出来るのをビール片手に待つ母が、通勤鞄からチケットを出して渡してきた。
「今話題の映画の割引チケット、会社でもらったんだけど、あげるわね。」
皿をテーブルに並べていたメフィスト三世は、手を止めてチケットを受け取る。泣けると評判の恋愛映画のチケットだった。
「二枚あるじゃん。パパと行ってくれば?」
「もう既に行きましたー。すっごく良かったよ!」
「え、いつの間に。二度観れば?」
「そんな使い方勿体無いでしょ。誰か誘って行っておいでよ。」
「誰かって…」
面子は決まっている。
さなえの笑顔がぽんと浮かんで、三世は慌てて打ち消す。
(さなえさんは土日仕事忙しいから!じゃなくて、ダメだろ人の奥さんだぞ!)
さなえがバイバイと手を振りながら消えていくのと入れ替わりに、みおと一郎の顔がじわじわと湧いてきて、口からうへぇが出る。
(恋愛映画だぞ…)
「無理。」
「あら。」
「アクション映画とかならまだしも恋愛物は無理。」
「どうしたの?映画?」
両手に鰤の照焼きを持ってキッチンから出てきたメフィストニ世が、息子の手の中のチケットを見る。
「ああそれね、よかったよー。誰と行くの?」
「一人で行く…」
「二枚あるのに勿体無い。一郎くんは?」
「無理。」
そうかい?と鰤の皿をテーブルに配置する夫を眺めてビールをゴクリと飲んだエツ子は、ああ、と声を上げる。
「真吾伯父さんと行っといで。」
「嘘だろ。」
本当になってしまった。
久しぶりの映画だ、と嬉しそうに発券したチケットを受け取る伯父の笑顔が思いの外幼くて、三世は鳩尾にぐっと力を込める。
「髄分とシステムが変わっていて驚いたよ。ドリンクも飲み放題の時代か…」
「この映画館は飲み放題なんです。でも、結局いつも一杯だけで終わりになっちゃうんですよねぇ。伯父さん、ポップコーン食べます?」
「食べたいけど食べきれるかな。」
レジに置いてあるカップの見本を見て慄く真吾にホッコリする。そうですよね、びっくりしますよね。
「小さいの買って分けましょう。」
二度頷く真吾を促し売店の列に並ぶ。事情を知らない他人から見れば、自分達は仲の良い友達なのだろうか。
(下手すれば、俺の方が年上に見えるのかも。)
いつもは格好良くて頼れる大人なのに、今は立場が逆転して三世に頼り切りの真吾がこそばゆい。手慣れた手付きでセルフオーダー端末に入力していくのを、横で感心して見ている。
(もしかして、俺のこの目線って、昔のパパの目線なのかな。)
チラリと伯父を見ると目が合う。真吾はすごいね、と言って楽しそうに笑った。
映画のストーリーは、重い病気に罹り余命僅かな女の子が、恋をして想いが実り、短くも幸福で切ない時間を精一杯生きるいうものだった。流行りなのか、最近似たような設定の悲恋映画が多い。
女の子が病気の不安を彼氏にぶつけてしまい、言い争いになってしまったシーンで、なんとなく伯父の様子を伺うと、腕を組み険しい顔でスクリーンに見入っていた。
女の子の入院が長びくようになり、徐々に痩せていきながらも笑顔を絶やさない彼女の姿に、彼氏が陰でひとり泣く。三世は鼻の奥がツンとするのをジュースで抑え込むと、相変わらず腕を組んで眉間に皺を寄せている真吾に吹きそうになった。
最後の外出で、一面鮮やかに咲き広がるコスモス畑に二人は訪れ、優しいキスをする。お互いを慈しむように抱きしめ合う二人が切なくて、いよいよ三世の涙腺の堤防が限界を迎えた時、ふと視線を感じて横を見ると真吾がこちらを凝視していた。びっくりして涙が引っ込んだ。
クライマックスの別れのシーンで、三世は滝のように涙を流しながらも、せめて声は漏らすまいと顔面に力を入れる。横から、泣く男に恥をかかせてはならないと気を遣う伯父の緊張が伝わってきた。やめて伯父さん面白いから。
エンドロールの間に、三世は苦労して顔をリセットする。館内が明るくなるまで、真吾は椅子に凭れて眼を閉じていた。
観客が動き出すのに合わせて、二人も立ち上がり身支度を整える。早い段階で空になったポップコーンの容器を取ると、ジュースの残りを一気に処理する真吾に話しかけた。
「どうでした?」
「三世くん泣いていたね。」
それは言わないでよと苦笑いする。
「切なくていい映画だったね、でも可哀想だったよ。やっぱり生きて幸せになるのがいいかな。僕は二人の未来が見たかったよ。」
「感動するけど、俺もその方がいいなぁ。」
さすが初代悪魔くんはただの映画の感想でも言葉の重みが一味違うなと思いながら、真吾の手の中の空になったジュースを回収した。素直に渡しながらも真吾は不思議そうにする。
「自分で捨てられるよ。」
言われて三世は自分の無意識の行動に気付くと顔を真っ赤にした。
「いつも悪魔くんの世話やいてるから癖で…」
「成程…なんだかごめんね三世くん。」
夕食にはまだ少し早い時間だったが、二人共お腹が空いていたのでファストフードの店に入った。真吾のリクエストだった。
ここでも時代の経過に興奮し、真吾は三世に教えられながらセルフオーダーを初体験した。
ウキウキでレシートを握りしめる伯父に、甥は連れてきてよかったと喜びを噛み締めた。
トレイを窓際のテーブルに置き、向かい合って座る。ニコニコして窓の外を見渡す赤い頬の伯父は、何もかもが楽しいようだ。
「これが噂の紙ストロー。」
袋からストローを引き出して目を輝かせる。ナゲットのソースの蓋を捲りながら三世は苦笑いした。
「伯父さんはもう少し小まめに魔界から出てきた方がいいと思いますよ。」
「時間の経過が違うから、うっかりすると何ヶ月も経っちゃうんだよね。」
えへへと頭を掻く。そのたまの機会も、伯父は要件を済ませると遊ぶことなく魔界へ帰ってしまう。大体が研究所、メフィスト家との行き来だけだ。
「映画、声をかけてくれて嬉しかったけど、一郎は誘わなかったのかい?」
「悪魔くんと恋愛物は無理でしょ…」
あの無神経に折角の感動を台無しにされるオチが見えている。口を尖らせる三世に、真吾は確かにねぇと苦笑いする。
「でも、意外に恋愛映画はマシな反応するよ。避けるべきは推理物だよ。作りが甘いと終わらない反省会が始まるんだ。」
「ああ…目に浮かぶ…」
想像するだけで疲れる。
「無難なのはノンフィクションとか、単純なストーリーのアクション映画かな…それもたまに矛盾見つけては拘ってるけどね。ホラーは三世くんが苦手だろう?」
「また行く時は伯父さん誘います。」
二人に仲良くなって欲しい真吾の気持ちはわかるが、正直気の合う人と行かないと映画はつまらない。でも、無神経くんの反応を見るのもまた面白いかもしれない。
三世の言葉に、眉をハの字にしながらも嬉しそうな真吾に、つくづく嘘のつけない人だなと、三世は思う。
こんな人に頼られたらずっとそばで守りたくなる。三世は、今でも相棒を大切にしたがる父親の気持ちが少し分かったような気がした。
「恋愛物はやっぱり好きな人と行くのが一番いいよね。三世くんにはそういう人いないのかい?」
屈託なく訊く伯父に、三世の脳の機能が一瞬停止した。
「ああ、さなえさんが好きなんだっけ、この間一郎が…」
「悪魔くんが何言ったか知らないですけど、さなえさんは旦那さんいますから!」
「そうなんだよね、残念だね。」
うふふと笑ってホットアップルパイに齧り付く真吾に、遣り返そうとばかりに三世も訊く。
「伯父さんはそう云うの無かったんですか?初恋誰ですか?」
「僕かぁ」
慌てる素振りもなく、まるで資料の内容を思い出すように、口の端を親指で拭いながら斜め上を見る。
「僕は忙しかったからなぁ。他に考えなくちゃいけない事が沢山あったから気持ちに余裕もなかったし。東嶽大帝を倒して落ち着いた後も、結局すぐに魔界で暮らし始めてしまったからね、機会がなかったかな。今思うとそうだったのかな、と云う人は居るけど、その人が別の人の事を好きなのを知っていたしね。」
「伯父さん、好きな人いたんですね…」
「うーん、その年頃の好きって気持ちは友情の続きみたいなものだから、恋愛感情かと言われたら正直自信ないけどね。」
得体の知れない衝撃を受け止めるため、三世はナゲットを口に入れる。聞いておいてなんだがショックだ。
「三世くんは全部これからなんだね。素敵な人と出会って、恋をして…楽しみだね、羨ましいな。」
アップルパイの容器を平たく潰しながら、真吾は動揺する三世に微笑んだ。
風呂上がりに手作りプリンを食べていると、仕事部屋から出てきた父親がキッチンへ行き、麦茶を注いだグラスを手に、息子の向かいに座った。
「映画どうだった?」
「楽しかったよ、ちょっと泣いちゃった。でも映画より真吾伯父さんの方が面白かったな。」
久しく遊びに出た人間界の文明の進歩に興奮していた様子を説明すると、父親は愉快そうに笑った。
「ああいう時の伯父さんって子供に戻るよね。凄く楽しそうだったよ。誘って正解だったかも。伯父さん勝手がわからないから、俺ずっと頼られてて新鮮だった。でも伯父さん、たぶん次一人で行ってもオーダー端末使えると思うよ、しっかり教えたから。世界情勢には精通しているのに不思議だよね。」
メフィスト二世は目を細めると、麦茶を一口含む。
「パパの初恋って母さんだったよね?」
「初恋…と言えばそうなるのかなぁ。」
二世は照れながら頬杖を突く。
「埋れ木家で出会ったんだろ?」
「よく埋れ木家特製ラーメン作ってくれたよ。すごく美味しかったなぁ。久しぶりに食べたいな、今度頼んでみよっかな。」
惚気ける父の緩んだ顔に、訊かなきゃよかったと三世は薄ら笑いをする。
ニ世はおもむろに立ち上がり伸びをすると、冷蔵庫からプリンを二つ取り出して紙袋に入れる。
「伯父さんの所行くの?」
「プリンは保存きかないし、お礼にね。」
早く寝るんだよと言い残して部屋を出て行く父を見送ると、三世は底に残るプリンを掻き集めた。
歯を磨いてベッドに入ると、暗い天井に真吾の顔を思い出した。そして先程の父親の顔を思い出した。
(そうだよなぁ、普通ちょっと照れたりするよな。)
全く顔色を変えず淡々と話す真吾に感じた違和感。はにかむどころか、懐かしむ様子もなかった。同じ時間を過ごしてきた父の反応とこうも違うものだろうか。
寝返りをうち、壁を眺める。
(伯父さんには子供時代が無いんだ。)
忙しくて、と伯父は言った。
やっと年齢が二桁になったばかりの幼い子なのに、学校に通い、友達と遊び、好きな人ができ、普通の子供が一歩ずつ成長していくそんな日々が、彼にとっては非日常だったのだ。悪魔くんとしての日々も充実して楽しかったのだろうが、それでも、と三世は目をギュッと瞑る。
自分の事なのに、映画のあらすじを思い出すみたいに話すなんて。
猛烈に淋しくなって、三世は丸くなった。
きっとまだ遅くない。楽しい思い出をこれからたくさん作っていけばいい。年齢を忘れて子供に帰れるのなら、気付かず通り過ぎたものを取り戻せるなら、どこにだって連れて行ってあげよう。
瞼の裏に、差し出された手に戸惑う小さな真吾が映る。
(恋だってこれからすればいい。全部これからだよ。)
真吾の無邪気にはしゃぐ上気した頰を思い出し、ぎゅっとする胸を抑える。三世はきっとそうしようと密かに誓い、目を閉じた。
二〇二四年五月十一日 かがみのせなか