情人節の贈りもの 「・・・・・・貴様、今なんと?」
ここは魔界宮殿の謁見の間。
上奏したいことがあると呼び出され、長い脚を組んで手摺に肩肘をつき玉座にふんぞり返った洛冰河は、魔王業の執務の都合上渋々魔界に戻っていた期間であり、そもそもが上機嫌ではなかった。が、話を進めるにつれそれは更に悪化し、目を眇めて眉間の皺を深めていき、こめかみに浮かんだ血管をヒクつかせると、ついに憤怒の様相を露わにし始めた。
えー・・・と と、尚清華はこめかみを掻く。コレ絶対何か誤解してるやつ。
しかし目の前の魔王は激マジだ。氷点下のオーラを放ちながら地を這うような低音で、一言一句を確認するかのように言葉を紡ぐ。
「つまり・・・貴様は、この俺を使って、俺の・・・俺の師尊を、暗殺するつも・・・」
「あぁあああああああああ違いますぅ違う違うぅううっ! 違いますってばぁああ、なんでそうなるんですかぁあっ」
ほらやっぱりだよ、ホント何なの? 何をどうすりゃそんな発想になるのさ?
尚清華にとっては信じ難いほどの飛躍ぶりだが、洛冰河は椅子から腰を浮かせながらなおも言い募る。
「何が違うものか! さては貴様、俺の・・・俺の師尊の人気ぶりを妬んで・・・」
「ぜんっぜん違いますっ!」
「では美しさを妬んで・・・」
「どこの童話の継母ですかっ! それも違います! だいたい・・・」
「では!」
「ではじゃないですっ! ・・・ていうか、『俺の』って言うたびいちいち照れないで下さいよ」
「なんだと 照れてなど・・・」
・・・・・・いるだろ。
明らかに照れてるだろ、それ。そもそも、いちいち『俺の』付ける必要だってないだろ。言いたいだけだろ。噎せるくせにタバコ吸うやつと同じだろ。照れるくせに言いたくて仕方ないだけだろ。
(あ〜もう本当に嫌になっちゃう)
この絶世魔王が俺を良く思ってないことはわかってる。同郷と称して奴の敬愛してやまない師と妙に親しげだからだ。このヤキモチ魔王は、己の師に近づく者は犬猫鳥に至るまで排除したいような奴なのだ。奴の理解の及ばない話をヒソヒソくすくす語り合ってる俺なんて、何かと頼られに現れる百戦峰主の次くらいに煙たい存在だってのはわかってんのよ、こっちだって。
でもねぇ、爸爸としてはそんな子でも幸せになってほしいわけよ。だから瓜兄が懐かしがって喜びそうな企画を耳打ちしにわざわざ足を運んだってのに。
(本当にヒドい)
さっきだって、何の用だくらいの塩対応から始まって、こっちの話をたいして興味も持たず適当に聞いてたもんだから途中で妙な聞き違いを起こしてさ。そこからは勝手な誤解の大暴走よ。
言いたかったのはこういうこと。
俺たちの故郷では、情人節っていう恋人達の行事があって、男性から女性に花やプレゼントを渡すのが一般的なんだけれど、きっと沈師兄ならチョコレートを用意したら大喜びすると思うんですよ、と。
ちょうどタイミング良くカカオが手に入ったことですし、他の材料も・・・たとえドンピシャじゃなくても、似たようなものを取り揃えて手順を覚えれば、君上ならかなり上質なものを作れちゃうんじゃないですか?
(・・・って、さすがに本物のカカオじゃないんだけど、かなり近いやつだからイケるっしょ!)
この辺りではまずお目にかかれない珍しい甘味ですし、沈師兄も驚きと懐かしさで感激してくれること間違いなしですって! ────と。
(タイミングを見計らってお茶にでも押しかければ、残りものを出してもらえるかもしれないし。うん、イイじゃな〜い!)
そんな秘かなおこぼれ目当ても含めて、素晴らしく良いことを思いついたとウッキウキでお目通りを願ったというのに。
(冰河ときたら、瓜兄のこととなると本当にIQ下がるっていうか・・・・・・)
「血汚霊吐?・・・なんだそれは」
から始まり
「・・・・・・嫁禍惡、だと?」
って、あんたねぇ。まぁ、そりゃあそう変換すりゃ確かに毒か呪いにしか思えんわな。
そして、誤変換が頭に残ったままの冰河に、手作りして瓜兄に食べてもらえば・・・・って提案したところ、冒頭のあのやり取りに至ったってわけ。
暗殺?毒殺?呪詛? ソレ勧めて、俺に何の得があんのよって話。
とりあえず、殺されそうになりながらも何とか落ち着かせた冰河からは、なおも胡乱な視線が向けられている。
「それで」と言ってから、魔王はクイっと顎をあげて俺を指した。
「今の話がおまえの善意からの提案だったとしよう」
だからそうだってさっきから何度言わせんの。
「まずは、それをおまえが作って漠北に食わせてみろ。すべて俺が見ている目の前でだ。それで漠北が何ともなかったら、改めて俺が作って俺・・・の師尊にもお出しする」
間違いなく喜んでいただけるのだろうな?と圧をかけられてもね。そこは保障できますよ。できる、けどさぁ・・・・・・
「大王が食べるところに同席されるのは、ちょっとぉ・・・・・・」
言った瞬間、魔王が暗黒のオーラをたち昇らせて、座っていた椅子を蹴倒し立ち上がったので、俺はまた喚く羽目になる。
「あぁあああああ違います、違うんですぅうう! 毒だからとかじゃなくってぇええええ」
イライラと、では何だ早く言え!ってさ。本当に親切のし甲斐のない君上様だよ。
「えーと、まず。下ごしらえに結構日数がかかるんですけど、それ何日もずっと私の横で見てるんですか?っていうのと、私が作っても美味しく仕上がらず、大王にひたすら殴られるだけで終わる恐れもあるってのはまぁこの際置いておくとして・・・・・・これ、魔族が口にすると、その・・・ムラムラしちゃうんです」
「・・・・・・は?」
一瞬目にした超絶美形のマヌケ面が、なんだか爽快。
「だから、エッチな気分になっちゃうんです」
そ・・・それは、と目に見えて狼狽える絶世魔王推定25歳。いや、26歳かな? まぁそれはいいとして。
「効き目、結構強烈なんで。君上だって嫌でしょ?大王が急に迫ってきたら。そんで、その後ド修羅場になるところを俺に一部始終見られちゃうんですよ?」
いやたぶん、実際に迫られるのは俺だけど。
抑えのきかなくなった大王にご無体を働かれるのを見られちゃうのも、間違いなく俺だけど。
マニア寄りの事態を回避するために、ここはひとつ敢えて主語を入れ替えてお送りしますよ。保身、大事なんで!
「君上はとてもお美しいですし、大王がキマっちゃったらと思うと・・・・・・」
さも心配そうなそぶりで両手を胸の前で組んで目をうるうるさせてみる。けれど、折角の迫真の演技も上の空で、冰河はやや上擦った声で俺に確認してきやがった。
「それは・・・人間にも同じ効き目が?」
「ありません」
露骨に「な〜んだつまんねー」みたいな顔すんなって。
もう面倒くさくなってきたので、手早く話をまとめることにする。
とにかく毒じゃありません。人間にとってはただの甘くて美味しいお菓子です。間違いなく沈師兄の好物です。もし、それでも心配なら、いっそ師兄と一緒に作ってみたら如何ですか? 沈師兄は材料も作り方もたぶん知ってるから、怪しいと思ったら止めてくれますよ。
(もう、なんでこんな話を命懸けでせにゃあならんのよ?)
だから、最後にちょっとした嫌がらせも加えておいた。
罪の無い程度のやつ。
「ああ、だからお味見はホドホドに」
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「師尊、よろしいでしょうか?」
大きな身体を屈めて、首を僅かに倒しながら、洛冰河が竹舎の居室に入ってくる。
「お忙しかったでしょうか?」と、気遣わしげに尋ねてくるので、「構わぬよ、ひと休みしようと思っていたところだ」と微笑んで見せる。峰主会議に呼び出され、清静峰に戻っていた沈清秋は、この機会に是非とばかりに積み上げられた案件に目を通している最中だった。
ではちょうど良かったようですね。お茶をお持ちしました と洛冰河が卓の上に茶器を並べ始めたので、沈清秋は優雅な仕草でゆったりと袖と裾を翻えし、そちらへと移動した。
茶杯を手に取った師に向かい、冰河が何気無い様子で「師尊は〝ちょこれいと〟なる菓子をご存知ですか?」と聞いてきたので、「ああ、尚師弟に聞いたのか?」と聞き返す。
はい、と冰河が素直に応えたので、「情人節の話でもされたか?」と問えば「やはり本当だったのですね」とホッとしたような様子を見せた。
「尚清華から材料を渡されたのですが、聞いたことの無い風習なうえ、その菓子の名も少々怪しげな響きのように感じたもので」
師尊もご存知ならば安心です と、にっこりと笑う。
なるほど、洛冰河ならばこっそりチョコレートを用意してサプライズで渡してきてもおかしくはないが、尚清華に担がれたのではないかと確認しておきたかったのだな と沈清秋は思った。さすがに毒だの呪詛だのまで話が跳んだとは思いもよらない。
それであの・・・と、茶を飲み下す師の喉元に目を向けながら、洛冰河は話を続ける。
「師尊がお好きなのではないかと聞きまして。作り方はひと通り尚清華から教わったのですが、なにぶん見たことも口にしたことも無いものなので少々心許なく。もしよろしければ、師尊と一緒に作ることができたらと思ったのですが」
「うむ。確かに好物であるし、いただけるのであればとても嬉しい。が、私も作り方に詳しいわけでは・・・・・・」
えーと、カカオ豆をどうやってカカオニブにするんだっけ?と、昔どこかで読んだ記憶をチョコレート食べたさに必死に引っ張ろうとしていたところ、洛冰河に「下ごしらえは済ませてありますので」とあっさり言われてしまった。
「では、あとは材料を混ぜて溶かして冷やして固めるくらいかな?」と確認すれば、弟子から「流石です」と褒められた。
全然流石でも何でも無い内容だが、ふと転生前に妹のチョコ作りを手伝った記憶が蘇り、少ししんみりとした笑みが口許に乗る。
どうかされましたか?と、師の変化は少しも見落とさない洛冰河に柔らかく問われ、なんでもないと、沈清秋はその笑みを苦笑に変えた。
郷愁は湧けど、自分の幸せは今ここに在る。
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洛冰河は本当に厨房を綺麗に使う。
手順に従って端から並べられた材料は、これから撮影する食品サンプルのように整然と積み上げられている。調理器具もピカピカに磨いてあって、床にも棚にも埃ひとつ無い。
普段ここに入ることは滅多に無い沈清秋だが、自分の口に入るものを用意する為に、これほどの手入れを行っていたのかと今更ながらに気付く。
手水鉢の横には、扱いやすいように細かく砕いた氷がキラキラと輝いていて「寒い季節とはいえ、よく溶けぬな」と呟くと、「漠北に届けさせたものゆえ、長持ちするよう魔力が込められているのです」と事も無げな応えが返ってきた。北疆の魔族大王を氷屋扱いして作る菓子とは、なんと贅沢な。
しかしこれが無ければテンパリングが出来ず、つやつやで口溶けの良いチョコレートに仕上がらないので、改めて各方面からの協力に感謝する次第である。
チョコレートは、原材料のカカオの実から豆状のカカオ豆を取り出して1週間ほど発酵させてから、水分を減少させるために豆がチョコレート色になるまで天日乾燥させる。カカオ豆の中には実のかけらやゴミなどが多く含まれているので、丁寧に除去して洗浄する必要がある。それが終わったら、次は焙煎。これは味と香りを引き出すために非常に重要な工程だ。豆を炒ることでさらに乾燥させることができるため、殻がはがれやすくなる。そして最後に粉砕。豆を粗く砕くことにより、殻と豆の中身であるカカオニブに分けられる。このカカオニブこそが、実際のチョコレートの原料として使われるのだ。
今、目の前には粒状となったカカオニブが積まれている。ここまで準備するのに少なくとも1週間以上。洛冰河は、己の師の口に入るものは準備だろうと決して他人に任せたりしない。真面目に試行錯誤しながら、ひとりで丁寧に作業を行っただろうから、その根気と手間暇は想像に難くない。
(自分も忙しい身だろうになぁ・・・・・・)
「師尊は俺の作業が間違っていないかどうか見ていてください」と言われたので、沈清秋は棚に寄りかかり、しみじみと思いを巡らせながら弟子がカカオニブをすり鉢で磨砕する作業を眺める。
細かく擦り潰すことでカカオニブの粒から油分であるカカオバターが溶け出して、全体が滑らかなペースト状へと変化していく。頃合いを見計らって、冰河はすり鉢から深皿へと中身を移し、すりこぎを杓文字に持ち替えて量ってあった砂糖とミルクを加えながら何かを呟き始めた。
(ん? 子守唄?)
そう思ってしまったほど、彼の声は小さく柔らかく、その手つきは優しい。
甘やかな香りを放つチョコレート未満の入った器を左腕で愛しげに掲げ持ちながら、杓文字を握った右手の動きに合わせるようにして「美味しくなぁれ 美味しくなぁれ」と呟いている。
「あー・・・そなた、それは・・・・・・」
知っている。知っているぞ、それは・・・・・・
(日本のメイド喫茶でメイドさんがかけてくれる呪文・・・・・・だよな?)
オタクの自覚がある自分はともかくとして、何故、どこでこの弟子がそんな知識を・・・って、向天打飛機だな奴しかいねぇ
荒れた内心に蓋をしつつも扇子を握る手には思わず力が入ってしまう沈清秋だったが、師からの声掛けに振り向いた何も知らない洛冰河は、頬を染めて照れ笑いを見せる。
「この菓子には〝特別な効果〟があるので、この呪文が必要だと聞いたのです」
「特別な? ・・・どんな効果だと?」
それはその・・・と、冰河は長いまつ毛を伏せながら言った。
「上手く出来たら、贈る相手がドキドキしてくれるようになるそうで・・・・・・」
言ってから、上目遣いでチラっとこちらを見て、またポッと頬を染める。自分よりガタイの良い漢が、何故こんなに可愛いのか、可愛いと認識してしまうのか、まったくもって己自身に対し理解に苦しむ沈清秋である。
(いや、もう今ので十分ドキドキしたから!)
だから締めの一言は勘弁して欲しいと思った矢先に、降ってきた。
「ところで師尊、『もえもえきゅん♡』とはどのような意味なのでしょうか?」
────ソレを真面目に尋ねられてもなっ!
作業の最後に言う呪文と聞いたのですが・・・と首を傾げる素直な弟子に、言わずともよいのでやめておきなさいと言ってやる。
「しかし、この弟子はその〝特別な効果〟を楽しみにしているので、省くことで薄れてしまってはと思うと心配なのですが」などと、魔王のくせに馬鹿げたことを真剣な面持ちで言い出すので、「すでに甘い香りを吸い込むだけで効果は出ておるよ」と言っておく。
「その・・・ドキドキされておりますか?」
「不思議よなぁ、しておるなぁ」
「それはその・・・この弟子に?」
「いやぁ、早くいただきたくて楽しみゆえに」
「それはあの・・・この弟子を?」
「チョコレートに決まっておろう」
ぺちっと音を立てて弟子の額を扇子で叩くと、冰河は眉を下げた情けない顔を向けてくる。
ははは、可愛い可愛い と、沈清秋は近寄って弟子の頭を撫でてやろうとしたが、今日の冰河は衛生的に調理をするべく髪を一本に纏めて高く結っていたため、少し手が届き辛い。そのため、背伸びをして洛冰河の頭頂を触ろうとしたのだが、撫でて貰えると気付いた冰河が同時に少し屈んだため、目測を誤ることとなった沈清秋はよろけたあげく、洛冰河の右肩口に飛び込む形となった。
冰河は師を汚すまいと左手の深皿を後方に引き、右手の杓文字を右上に上げて、右胸の柔らかい部分で沈清秋の頭を受け止めたのだが、勢いで跳ねてしまったカカオペーストが師の頬と首筋に飛び、そのまま垂れ落ちそうになる。
「も、申し訳・・・」
「よいよい、お互い様だ」
服に付かなかったのは幸いだった。チョコのシミは中々落ちぬゆえ・・・と言いながら、沈清秋は首筋を伝って襟まで垂れ落ちそうになっていたその粘液を、自らの指で掬って口にする。
「・・・・・・あまいなぁ」
目許を緩めうっとりと呟く師が、彼自身の白く繊細な指に桃色の舌を絡ませる・・・その扇情的な仕草を図らずも目にしてしまった洛冰河は、瞬間、頭蓋が痺れるような衝撃に見舞われてクラクラと目眩を起こす。無自覚ゆえに幼くも見える彼の人のアンバランスさが、また罪深い。
至近距離に在る師の頬にも跳んでいた茶色い粘液が、優美な曲線を伝い筋となって流れ落ちようとする様を目で追った洛冰河は、思わず両手が塞がった状態のまま俯き、唇を寄せてその汚れを舐め取っていた。
「急に何をっ」
「味見、です。あまいですね・・・とても」
そのまま頬を吸われて驚いた師が、瞳に抗議の色を載せて見上げてきたが、洛冰河は更に顔を寄せて、その絶世の美貌に華のある笑みを浮かべる。
「そ、そなた、ずるいぞっ」
「何がお気に障ったのでしょう?」
白々しく困った表情を作って見せる弟子の顔が、更に近付いてくる。
沈清秋は洛冰河を夫として認めてはいるが、昼日向から迫って来られるのは気恥ずかしい。常にいちゃつきたがる洛冰河とは、そこがどうしても噛み合わない。嫌ではないが、困るのだ。落ち着かなくなってしまって、どうしたらいいかわからない。受け入れ難いが強く拒否もしたくない。なのに冰河はどんどんあざとさを増していき、「嫌がることはしません」などと言いながら、その美貌を巧みに使ってどんどん彼を追い込んでくるのだ。
沈清秋は真っ赤になって思わず逃げ場を探すが、いつの間にか作りかけのチョコが付いた調理器具を掲げ持った洛冰河の両手で抱き込まれた形になっていたため、おいそれと動けなくなってしまった。
オロオロと眼を泳がせているうちに、弟子の様子がなんだか可怪しいことに気付く。
(息が荒いし、目も潤んでる?)
すわ、発熱か!と焦って額に伸ばした手首に、また口づけられる。
「お、おまえは急に何なのだ!」
ふざけるんじゃない!くらいの勢いで叱っても、ふにゃふにゃとした口調で「お可愛らしい師尊がいけないのです」などと意味不明なことを口走り、どんどん顔を近付けてくる。
眼は最早潤んでいるどころか血走っており、さすがに危険を感じた沈清秋は、洛冰河の鎖骨の辺りをドカドカと叩いてみたがびくともしない。更に、下腹に当たるこの感触・・・・・・
(発熱じゃなく、発情じゃねーか!)
となれば、話は違ってくる。
沈清秋は、すっと息を吸うと、力強い声に霊力を乗せて、不埒な弟子に向けて説諭を始める。
おまえは、私にチョコレートを作ってくれる途中だったのではないのか!
手が止まっておるぞ、手が! あたら入手困難の高価な材料を無駄にするでない!
ほら、練り込みが足らぬぞ、練り込みが!
水分が減って重くなってきたら湯煎せよ!
何と情けない顔でこちらを見るのだ! シャッキリせい、シャッキリと!
粘液が液状になってきたら温度を維持しながら更に練り込むのだ。粒は濾して更に潰す!
辛い? 我慢せよ! 今でなければ出来ぬことに集中せよ! 非道い? 何がだ! これだけ期待させておいて途中で投げ出す方が非道いわ! そんなつもりは無い? では先程の妙な盛り上がりは何だったのだ! あのまま許さば、この食材はすべて取り返しのつかぬことになっておったのだぞ?
なに? 私がおまえよりチョコレートを大事と思っているだと?
「愚か者がぁあああああ!」
とうとう沈清秋は大音声で宣った。
真っ赤な顔でベソベソと泣きながらも湯煎の温度をこまめに調整する洛冰河に、はぁああっと大きく溜息をついて見せる。
なぁ冰河よ と、今度はできるだけ優しく道理を説き始める。
このチョコレートという菓子はな、上手に出来れば、その見た目は艶々と美しく、その味は馥郁たる香りとともに心をも蕩かす極上の甘味となるのだよ。けれど、その工程にはそなたも知ってのとおり、大変な手間暇がかかる。そこまでして想いを届けんとする相手の心意気を尊く感じられるが故に、情人節の贈り物としても格別な扱いを受けるのだ。
そなたがこれを用意してくれたと知った時、私は本当に嬉しかったのだ。そなた自身が知らぬ物を、苦労して丁寧に準備してくれたのではないか。なのに、一瞬の情動でその真心を無にするなど、なんと勿体ないことか。
「そなたよりチョコレートの方がなどと情け無いことを言うでない。私が惜しんだのは、私を想って尽くしてくれようとするその心だと言うに」
だいぶ盛ったけれど、結論としては間違っちゃいない。
ホント勿体ないんだよ、おまえ・・・と、鼻を啜りながらチラチラとこちらの様子を窺いつつ素直にテンパリング作業を続行する冰河に、沈清秋は苦笑する。
「美味しくなぁれ」と囁やきながら、一心に材料を混ぜ合わせていた洛冰河はとても幸せそうに見えた。
柔らかなその表情が光を纏うようで、思わず見惚れてしまっていた。
普段もそんな表情を浮かべながら、食事を用意してくれていたのだろうかと思ったら、さざ波が立つように多幸感が込み上げてきた。
こんな穏やかな幸せが、この子の心にもずっとずっと満ちればいいのに────祈りにも似た気持ちで、そう願った。
まぁ、弟子の囁き文句がオタク文化由来のものと気付いた時点で、残念な現実に引き戻されてはしまったけれど。
───────── 4 ────────
「師尊、これはいつ頃食べられるようになるのでしょうか?」
花や笹の葉などの意匠が刻まれた魔力氷の枠型に液状になったチョコレートを流し込む頃には、洛冰河のイロイロも何とか平常運転に戻っており、先程の情け無い様子など忘れたかのようだ。
そうだなぁと、言いたいことを言い切った沈清秋もサッパリした様子で受け答える。
「ちょうど夕餉の後の茶の頃には、綺麗に取り出すことができよう」
それにしても、これもそなたが彫ったのか? と沈清秋は卓の横から枠型を覗き込む。凹凸が逆の状態で見ても、その細部まで細かく再現された意匠の巧みさも滑らかな仕上げも、至極見事なものだった。
「ほんの手慰み程度の出来ですが」と謙遜してみせるものの、師に褒められた冰河は頬を染めて、嬉しさを隠しきれない様子で微笑む。
並べれば見目の美しさも楽しめそうだ。型から抜いたら、そなたと一緒にいただこう と沈清秋が微笑み返すと、洛冰河は困った顔で苦笑した。
「折角ですが、俺は遠慮いたします」
何ゆえに? と問うと、実は・・・と冰河はとんでもないことを告白した。
「その菓子は、魔族が口にすると情動を刺激するそうなのです」
「────え?」
「尚清華から注意は受けていたのですが、先程はその・・・師尊から抱きついてきてくださった嬉しさのあまり、うっかり忘れて調子に乗ってしまい、あのような醜態をお見せすることに」
(おいおいおいおいおいぃいいいいい)
抱きついてはいない! 抱きついてはいないぞ、俺は! コケただけっ!
だがしかし。
忘れんなよ、そんな危険な取説をよぉ!とは思う・・・思うがしかし。
ほぼ不可抗力に近かった冰河を、これでもかと叱ってしまった────
『冤罪』とか『敗訴』とか『おまえよく言い返さなかったな』とか『結構な剣幕で一方的に非道いこと言われまくってたのにチョット嬉しそうだったのって、今更ながらどんな心理?』とか様々な思いが弾幕のように交差したが、ともかくこれは早々に埋め合わせをしなければならない事態である。
習慣のように扇子で目許から下を隠しても、赤くなったり青くなったりと表情丸わかりの師をじっと見つめている洛冰河の視線に気付くと、沈清秋は「んんっ」と咳払いをしてから、はぁああっと溜息をついて見せた。
冰河よ と言いながら、今は解かれたふわふわの髪に手を伸ばし、その形の良い頭頂をゆっくりと撫でる。
「そういうことは先に私に言いなさい」
「はい、申し訳ありませんでした」と素直に詫びる弟子に、「わかればよい」と素っ気なく返す。
「チョコレートは・・・湯浴みの後、落ち着いてからゆっくりいただくことにしよう」
それも良いですね と応えながら、撫で終わり離れていく手を惜しむように目で追う洛冰河に「折角作ったのだ。そなたも味見せよ」と言い渡すと、弟子は思わずギョッとした表情を見せた。
「師尊、あの・・・」
あなた、聞いてなかったんですか? さっき俺言いましたよね くらいの狼狽えぶりを見せる冰河を制して、沈清秋は「一口だ」とキッパリ言う。
「あれは本当に美味なのだ。苦労して作ったのだし、どんな味かくらい知っておいても良いだろう」
「いやしかしっ!」
冰河の上擦った声は悲鳴にも近い。その心情をまるっと無視して、沈清秋は言葉を続ける。
「しかしと言えばなぁ・・・そなたが情人節の風習を聞いていたとはこちらも知らなかったゆえ、私からは何も贈るものを用意しておらなんだ」
となれば、今の手持ちは私自身しか無いが、それでも良ければ贈って進ぜる・・・が、どうだ?
「────えっ?」
言われた意味が追いつかず、一瞬呆けた洛冰河だったが、虚勢を張った声を出しつつもふいっと背けた顔を更に扇子で隠した師の、隠れきらない耳が赤くなっていくのを目にして息を呑む。
求めるから、応じてくれる。
そんなことが常のこの方が、今、なんて────
「・・・・・・不足か?」
(あ~・・・まぁ確かに? これじゃ特別感まったく無いだろうしなぁ)
引っ込みがつかず、思わず不貞腐れたような声になってしまいながらも、沈清秋は内心、な〜にカッコつけちまってんだよ、俺のバカバカぁあああぁと、焦りと恥ずかしさで絶叫する。
なかなか返ってこない反応に耐え切れなくなって、扇子が外れるのも構わず沈清秋がチラっと洛冰河を振り返るのと、視界が大きな影に覆われるのとは、ほぼ同時だった。
「・・・・・・師尊・・・」
後ろから抱きついてきた弟子は、師の肩口に頭を預け、想いのたけを抱き込んだ腕に込めながら、震える声で 応えた。
ありがとうございます。
この世の何よりも欲しいものです と。
────情人节快乐!