ひとり泣いてた狼 公国の北のほう、さりとて氷剣山脈からは外れた、緑深い山の峠に、いつからか人喰い狼が出るようになりました。ええ、魔物です。
どこの誰の魂がどんな悲劇の末にこの魔物を生んだのか、それはわかりません。神殿公認の霊媒師が訪ねたときにはもう時が経ちすぎていて、狼も己の由来を忘れていました。
大人の男でも軽々飲み込める大きな口に、びっしり生えた頑丈な人の歯。頬から伸びた手足は細いけれど器用に伸びて、岩肌を伝い尻尾を揺らしながら死角から人に噛みつきます。
狼が出るのは夕暮れから夜。その時刻には人はその森を避けるようになり、森の恵みを採るにも村同士で行き来するのも難儀するようになりました。
ある日のことです。峠を挟んだ村のひとつに、旅の神官さまが訪れました。修行を兼ねた巡礼の旅の途中、村の苦境を聞いた神官さまは、二つ返事で狼の元を訪れました。
「狼よ、かつては人であっただろうあなたよ、なにゆえ人を襲うのか。日の暮れた夜に、一体あなたに何があったのか」
狼は答えません。月を背に白い毛並みが闇を蹴ります。神官さまを一口にしようとした歯は空を噛みました。身を屈めた神官さまが、杖で一突き、狼の腹を打ち据えます。
神官さまが祈ると、風が狼の手足を縛ります。狼が吠えると、ツバが毒となって神官さまに降り注ぎました。風が傘となり神官さまを守ると、狼はその隙に崖へと逃れました。
神官さまが後ろに下がります。狼は追いません。神官さまが前に出ます。狼が吠えて飛びかかります。
狼を躱した神官さまは、すれ違いざまにその頭を叩きました。頭蓋が割られ、狼が地面に激突します。振り下ろされた杖が狼を貫いて、狼は一声天を仰ぐと、そのまま息を引き取りました。
ええ、魔物を倒しても、魔物を生んだ魂は消えません。相応に消耗するので繰り返し倒せば薄れて消えていくでしょうが、神官さまはそれを望みませんでした。狼がよく足場にする崖に近寄り、意識を凝らします。
すぐに、土肌に埋もれた亡骸を見つけました。骨だけになったその亡骸が誰のもので、いつどうやって死んだのか。細かいことはわかりません。崖から落ちたのか、獣の狼に襲われたのか、それとも山賊の仕業か。時は経ちすぎて、その謎を解き明かす機会は失われていました。
神官さまはその亡骸を弔うと、社を建て、花の苗を供えました。祈りを捧げます。狼を生んだ魂に。狼が殺した人々に。精霊にその命が還るように。
村人にその弔いを頼んで、神官さまは山を去りました。後を託された村人たちは、そりゃあ夜に行くのは勘弁でしたけど、昼間ならまぁいいかと社を参るようになりました。雨避けの屋根を拭いて、花に水をやり、祈りを捧げ。
そうして、もう随分と狼を見なくなった頃。かつては恐れられていた山の夜道に、明かりが一つ灯るようになりました。
社に植えられた花が、祀られた魂の感謝を示すように、淡い光を灯すようになっていました。