モーニングトースト ケーキ屋を思わせる大きな紙の箱を開いて、七海はわずかに口角を上げた。顔を近づけると、ほんのりと甘い香りが鼻をくすぐる。
そっと取り出したのは一斤の食パン。いわゆる高級食パンに分類されるそれを俎上に乗せて、潔く包丁を入れた。薄めに二枚。それから、分厚く二枚。
七海の家のトースターで一度に焼けるトーストも二枚。まずは薄い方をセットする。焼けるのを待つ間に、小鍋から引き揚げた茹でタマゴを手に取った。無骨な指で器用に殻を剥き、潰してマヨネーズと和える。スプーンがカチカチと鳴るのはあまり行儀がよくないが、タマゴサラダを作る時ばかりはご愛嬌だと思うことにしている。
今度ははっきりと、香ばしい匂いがキッチンに漂い始める。頃合いを見てトーストを取り出すと、千切ったレタスとモルタデッラ、タマゴサラダを挟んでざくりと斜めに両断した。
残る二枚をトースターに並べ、ダイニングにカトラリーを揃えると、七海は寝室へ向かった。枕の上に、柔らかそうな銀髪と刈り上げたうなじが見える。
「五条さん、もうすぐ朝食ができますよ」
声を掛けると、盛り上がった布団が微かに身動いだ。しかし、起き出す気配はない。
七海はスリッパを鳴らして、ためらいなく近づいた。同窓の後輩としても恋人としても付き合いは浅くない。確かにゆうべは遅くまで深く深く繋がり合ったけれど、この最強でショートスリーパーの男がその程度で目覚めを渋ったりするはずがないと重々分かっている。誘われているのだ。
「五条さん」
布団を捲るが早いか、中から大きな手が伸びてきて、七海の腕を掴んだ。さほど抵抗もせず倒れ込むと、請われるままにくちびるを重ねる。
「おはよ」
「おはようございます。朝食が、」
「んー、そうだね」
尚もぐいぐいと腕を引いてベッドの中へ連れ込もうとするのを、今度は頑強な体に力をこめて拒んだ。
「なんで」
「今パンを焼いてるんです。焦げますから」
「はァ? 火ぃ消してから来いよ」
文句を垂れつつも、五条はあっさり腕を放した。五条もまた短くない付き合いを経て、七海から好物の恨みを買うのがいかに愚策であるかを知っている。今朝の駆け引きは七海の勝ちだ。
「冷めないうちに来てくださいね」
甘い空気をものともしない食欲の塊が寝室を後にするのを見送って、五条は呆れ半分、愛おしさ半分の溜息をついた。
「これ、僕がきのう買ってきた食パン?」
きつね色のタマゴサンドを前に五条が尋ねると、七海は頷いた。
あしたバレンタインだけど、なんか食いたいものある?ー予定より早く任務を終えた五条が電話を架けたら、返ってきたリクエストが高級食パンだった。イベントの趣旨にそぐうのか微妙なチョイスだがそんなことはお構いなし、純粋に食べたいものを挙げる遠慮のなさは、五条が日頃好ましいと思っている七海の美点だ。
いただきますと手を合わせて、七海は一切の憚りなく大きく口を開けた。サクッと音を立てるパン生地の甘さ、ソーセージの塩気とタマゴサラダのまろやかさのバランスに頬を弛める。その様を、五条はにんまりと口許を曲げて眺めていた。
「……見過ぎです」
「いやー、買ってきた甲斐があったなと思ってさ」
そう言って、五条もタマゴサンドにかぶりついた。恋人お手製の朝食にゆっくり舌鼓を打つ間に、当の七海は早々とサンドイッチを胃に収めてしまう。そして、傍らに積み上げていたより分厚いトーストに手を伸ばした。
「おかわり付き?」
「一枚は五条さんのですよ」
七海はおもむろに真新しい小瓶を取り上げた。中身の茶色いペーストをバターナイフで掬い取り、トーストに満遍なく塗り広げてゆく。
「どうぞ」
五条は自らの皿に乗せられた二枚目のトーストを見下ろして瞬きをした。
「なにこれ」
「チョコスプレッドです。甘いの好きでしょう」
七海は最後の一枚にもスプレッドを塗りながら答えた。七海宅の朝食でトーストは定番だったし、一緒にジャムやピーナツバターが並んだこともある。けれど五条の記憶では、チョコスプレッドが登場するのは初めてだ。
「もしかしてこれ食べるために食パン頼んだの?」
「まあ、そうですね」
「そんでもって、これは僕宛てのバレンタイン?」
卓上にバターナイフを置いて、七海は五条を見遣った。
「……解釈はご自由に」
「照れるなよ」
お互い仕事に忙殺される身の上で、イベントをまめに祝うことなどほとんどない。きのう五条がリクエストを聞いたのだって、たまたま時間に余裕ができたから気まぐれに尋ねただけだ。それが思いがけないかたちで返ってきたのだから、ちょっぴり浮かれたくもなる。
タマゴサンドを平らげると、五条は早速チョコレートトーストに取り掛かった。食パンだけとは違う、明確な甘さと仄かな苦さが心地よい。
「美味しい」
「それはよかった」
「ありがと」
コーヒーを注ぐ七海の口許がわずかに弛むのを、五条は見逃さなかった。ただそれだけで朝食の甘さが増した気がして、五条もまた甘やかな気持ちで再びトーストをかじった。