手袋とバラと緑の丘小さな丘の上、綺麗な緑の芝に白い四角い石が鎮座している。そこにはまだビリーの読めない文字で名前がふたつ書かれていた。
お父さんはそれが誰の名前なのかを教えてはくれなかったけれど、ビリーがうんと小さい頃から、本当に時々ここへとフラッとやって来て、花を置いて祈りを捧げていた。
――きっとお父さんにとって大切な人だったのだろう。
思ったのは、それだけ。祈るすべも知らなくて、ビリーはお父さんの祈りの背中を眺めているだけだった。
滅多に来ることのないその墓が誰の墓であるかなんて、ビリーはとても聞けなかった。何となく聞いてはいけないような気がして、それと同時に、どうして自分にはお母さんがいないのか、どうしてお父さんとは髪の色も目の色も違うのか、そんな疑問が湧いてくるようになった。
考えれば考えるほど、どんどんと不安な気持ちになっていく。
家はあった。けれど物心着いた頃から、その家にもあまり帰ることがなくなって、あちこちを転々として暮らしていた。そういう生活だったから、お母さんという存在がいなくても正直あまり不思議ではなかった。実際、行く先々で出会う人達は片親であったり、そもそも親のない子どもだってたくさんいたのだから、自分が特別であるという感覚もなかった。
それでもどうしても、不安は拭えなかった。お父さんはオレに大事なことを隠している。
――別に、誰が何であるかなんて今更どうだっていいのだ。何となく、気づいている。もう九歳になるけれど、未だに文字を教えてくれないのはきっと、あの墓石の文字を読ませないためだろうとそう思う。お父さんは未だに自分のファミリーネームを教えてくれないのだ。オレの名前は、教えてくれるのに。
ビリーは翌日、お父さんの目を盗んであの教会へと赴いた。小さな丘の上、そこに生える緑の芝はいつだって綺麗に整備されている。石畳を踏んで、いつもの墓を通り過ぎて、教会の扉を開いた。見よう見まねで祈りを捧げて、そこに居たシスターへと声を掛ける。
「文字が読めないので」と言えば、シスターは優しく微笑んで彼をあの墓へと連れて行った。
「ここの墓には誰が眠っていますか?」
問えば、シスターは答える。
「ワイズ夫妻です」と。
ビリーは握りしめていた野の花をハラリと足元へ散らせた。そんなビリーを気遣って、シスターはどうかしたのかと声を掛ける。分かっていたことだ。本当はずっと気付いていた。だというのに、悲しくて仕方がなかった。お父さんが本当のお父さんでなかったことが、ではない。いや、それもあった。でも一番、本当に悲しかったのは。
「お父さん……」
キィ、と仮宿のドアが開く。突然いなくなったかと思えば、無我夢中で走って帰ってきた息子の様子を心配して、お父さんはビリーへと駆け寄った。けれどビリーはその手をするりと抜けて「どうして」と泣き喚く。
「どうして、言ってくれなかったの」
言ってくれていれば、もしかして受け入れられたかもしれない。いや、それは今思うことであって、実際は分からない。それでもその気持ちだけが頭をぐるぐると回って仕方なかった。
お父さんは、本当のお父さんじゃない。ずっと一緒にいてくれた、たったひとりのお父さん。
「ビリー……」
「お父さんは誰なの、なんで、」
分からないことしかなくて、問い詰めたいのに、聞きたいのにどんどんと目頭が熱くなる。嗚咽が喉をついて出て、言葉を紡ぐのすら困難になってきた。しゃくりあげる呼吸は苦しそうで、そんな彼を宥めようと伸ばされた父の手のひらを、ビリーは思わず払い除けた。
それに僅かな罪悪感。ビリーはいたたまれなくなって、そのまま踵を返して走り出した。
「ビリー!」
自分の名前を呼ぶ声は聞こえるけれど、追ってくる様子はない。
結局その程度なのだ。そう勝手にショックを受けて、感傷に浸ったまま初夏の青空の下を駆け抜ける。
とぼとぼと夕方の路地を行く。
この辺りは道や建物が整備されていないわりに治安もそれほど悪くはなく、要は田舎ではあったが比較的住みやすい土地だった。人も優しくて、今だってひとりぽつぽつと歩いているビリーを気遣って、色んな人が声をかけてくれる。けれどそういう優しさですら今は煩わしくて、ビリーは「大丈夫」と優しさを断りながらがたつくレンガの道を進んでいた。
歩きながら、思い浮かべるのはお父さんの事ばかりだ。
疲れた足が限界だと訴えて、近くにあった小さな木の下に蹲る。両足を支えるその手に嵌められた手袋は大人用で、ブカブカしているそれを脱ぎ捨てたいのにそれもできない。色んなことが折り重なった心は随分とくたびれて、でも結局この手袋に守られているのだと思い知る。お父さんのくれた、この手袋。
いつだったか、突然パッと目が覚めたかのように、様々な物を素手で触ることが怖くなった。知っている人ならまだいい。けれど、知らない人や誰が触れたか分からないような物に触れることを厭うようになった。きっかけは分からないが、多分それは今まで積み重なってきた精神的なものが原因で、そう考えれば心当たりがないわけでもなかった。理解しないままでいられたらこんな思いもせずに済んだろうに、その物や相手、歴史を理解してしまった瞬間、もうダメだった。触れた箇所が汚染される感覚、とでも言えばいいだろうか。そこだけ膜が張られたかのように、重い空気がまとわりついて、その手で他のものを触るのも憚られた。
気持ちが悪い。そう言ってビリーは父に泣きついた。その時に手渡されたのがこの手袋だった。
子ども用の手袋は高すぎて、と彼は綺麗なビニール袋に入ったこの手袋をくれたのだ。
きっとこれだって安いものではなかったろうに、なんの躊躇いもなくビリーのためにと、なけなしの金で買ってきてくれた。はめてみればブカブカで使い心地は良くなかったけれど、ビリーにとっては救いにも等しかった。
一枚しかない手袋を、毎日手洗いして繰り返し使った。やはりそれなりにいい物だったのだろう。何回洗っても破れたりほつれたりする気配がないそれ。けれど、それを使っていくうちに、ビリーの潔癖は少しずつ悪化していく。
綺麗に洗って、それを繰り返し使うことに抵抗を感じ始めたのだ。当時その付近ではちょっとした流行病も蔓延し始めていて、ビリーは少しずつ身動きが取れなくなっていく。次第に元気で明るいビリー・ワイズはなりを潜めて、そんな彼を見た父親は、ビリーを連れて早々にその土地を後にした。
あの後、ビリーは嫌々ながらあの手袋を使い続けた。毎日手が赤くなるまで水で洗って、日中は手袋を付けて過ごしたから、荒れに荒れた手が他の人に気づかれることはなかった。
手袋を貰ったことは有難かったけれど、嬉しい結果ではなかったと今なら思う。
木には沢山虫がいて、今座り込んでいる地面だって虫の死骸や雑菌が散らばっている。でも素肌に触れていない分、まだ我慢が出来た。もっともっと、今なら絶対に耐えられないような場所で寝起きしたことだってある。
じわじわと空気が青く暗く染まり始める。夕方の橙が青に飲み込まれる様は美しいと、溶けるような空を眺めていた。だんだんと虚しい気持ちになってきて、そっと地面から立ち上がる。どこへ、行こうか。帰るべき場所が記憶にないことに気付いて、途方に暮れた。
本当の両親は、もう居ない。
そうだ、とビリーはあの教会へと向かうことにする。シスターが教えてくれたあの墓だ。あそこには、自分の知らない両親が眠っているのだという。
溶けそうな体を引きずって、ビリーは青の闇を走った。
教会に辿り着く頃には、既に周囲は暗くなっていて昼間とは全く違う別世界のようだった。
そこの、両親の墓の前にひとりの男の影がある。
その景観と暗い雰囲気も合わさって、ビリーは思わず肩を跳ねさせた。
いや、もしかして、もしかしたら。
ほんとうのおとうさんかも、しれない。
そんな訳がないのに、ビリーはそんな突飛な考えに囚われて思わず駆け出す。黒い影はビリーが近付いてくるのに気が付いて、彼の方へと振り返った。
――ああ、お父さんだ。違うけど、違わない。
オレの、お父さんだ。
「ビリー!」
走る勢いを緩めたビリーを、お父さんは自分から迎えるように強く抱きしめた。
石畳に膝を付いて、細くて小さな身体を覆う。よかった、と彼は呟いた。いつものような気安い雰囲気はどこにもなくて、ただただ心配していたのだと全身で伝えてくる。それを溢れるくらいに感じ取って、ビリーは大粒の涙を流した。「ごめんなさい」と大声で、泣いた。
「ビリー、頼むからお前までいなくはならないでくれ」
お父さんは言う。ここに眠る墓の主は、お前の本当の両親なのだ、と。
「怖くて言えなかったんだ。大事な親友の忘れ形見を見守るだけだったはずなのに、いつの間にかあいつに取って代わって親なんて名乗ってる自分が、あいつに恨まれやしないかと。お前に、父親じゃないって言われるんじゃないかと」
「そんなの……オレ、本当のお父さんとお母さんのことも知らないのに……」
「柄にもなく不安だったんだ……許してくれ、ビリー」
「……」
そう言われてしまえば言葉も出ない。ビリーには、それに答えるだけの知識も、適した言葉も知らない。知らないことだらけの自分に、こうやって許しを乞うお父さんは狡い。でも、最初から分かっていたのだ。自分のお父さんは、この人でしか有り得ないのだと。
「またこういう事があったら、ホントに家出する」
「はは、それは本当に勘弁して欲しいな……」
「お父さんはイジワルだ」
「こんなお父さんは嫌いか?」
「…………お父さんのことは、嫌いじゃない」
そう言えば、お父さんは「……そっか」と嬉しそうに笑った。その手が何もない空中から、白いバラをポンッと一輪取り出してみせる。お父さんはそれを、ビリーに手渡した。
「これは?」
「今日は父の日だ。あいつに花を添えてやってくれ」
「父の日……?」
「そう、次は母の日にも来てあげような」
そ、と背中を押されて、ビリーは墓の前へと立った。じぃ、と見つめる先にあるのは四角いだけの石である。ビリーはそこで手を組みあわせると、そっと祈った。
お父さん、お母さんと心の中で呼び掛けて、けれどその先の言葉が見つからない。ふと顔を上げて、お父さんの方へと振り返る。握ったままの白いバラをグイッと差し出した。
「お父さん、いつもありがとう!」
「!」
ちっとも笑うことなく、どこか緊張したような面持ちで子どもは言う。お父さんは驚きのまま、そのバラを受け取った。
「ビリー、」
「まだ、よく分かんないから……でも、ずっとオレのこと見ててくれたのは、本当のお父さんじゃなくてあなたの方!だからこれはお父さんにあげる」
「……そっか」
サンキュー、と少し湿った声が揺れた。
いつか、ちゃんと分かるようになったら、今度は墓にも花を添えに来よう。
あれから数年。
お父さんは病気をして墓には来れなくなってしまったけれど、もともとそれほど墓参りにくるような習慣はなかった。
仕事のオフの関係上、父の日から数日ズレてしまったけれど、この時期になるとあのたった一度の反抗期を思い出して、ついつい墓へと足を向けてしまう。
墓に添えるのは、ひと月遅れの母の日の赤いバラと父の日の白いバラ。手を組んで祈りの形を取るけれど、思いつく言葉はまだ心にない。それでも、これでよかったのだと思う時もある。
お父さんにも恵まれて、仲間にも恵まれた。
――先のことは分からないけれど、今幸せだよ。
言えるのは、ただそれだけ。
自分には、お父さんがふたりいる。
それはある意味とても贅沢な事なのではないかと、時々思ってみるのだ。
今日も丘の上、緑の芝は美しく風に靡いている。