13.A-(side:L) 冬のオグマ山脈の寒さは皆の身体を痛めつけたが修道士の資格を持つマリアンヌとメルセデスの活躍により誰も手足の指を失うことなく帰郷することが出来た。魔道学院に続き士官学校も最後まで通うことが叶わなかったローレンツは暖炉の火に照らされながらグロスタール家が各地方に放っている密偵からの報告書を読んでいる。どうやらファーガスで政変が起きたらしい。ディミトリが亡くなった、逃亡した、と情報がかなり錯綜している。共に冬山を踏破したファーガス出身の者たちのことを思うとローレンツは心が痛んだ。皆ディミトリ王に仕える日を楽しみにしていたのだ。
ローレンツの掌に円形の魔法陣が浮かぶ。暖炉で燃やせば燃えさしが残る可能性がある。読み終わった報告書を暖炉ではなく掌の上で完全に灰になるまで燃やした。紙は貴重だが仕方ない。近々また円卓会議が開かれる。その際にグロスタール家が本当はどこまで事態を把握しているのか気取られてはならない。ローレンツは幼い子供の頃から物覚えを父から試されながら育っていた。すれ違った者の服装やちらりと見せられた紙に書いてある文章などをよく見て覚えておく遊びだと思っていたが自然と訓練されていたらしい。そんなこともあり灰となった報告書の中身はローレンツの脳内に残っている。ある密偵は従者が命懸けでディミトリを逃したと報告したが他の密偵はディミトリは処断されたと報告した。
帝国軍の侵攻から命からがら逃げ帰った士官学校の学生たちはファーガスの者であれレスターの者であれどうしても大人たちに信じさせねばならないことがある。それは敵が身分や姿形を乗っ取り身体を操ることだ。魔法であればあまりに高度すぎて荒唐無稽すぎてローレンツにしても見ていなければ信じられない。ディミトリが再び現れたとしてそれが本物のディミトリなのかどうかも考える必要がある。もし敵がローレンツの身分や姿形を乗っ取ったらどれほど無念だろうか。オックス家のモニカは彼女の身分と姿形を乗っ取ったクロニエという者が迂闊だったおかげで死後といえども名誉は回復されたが同じ目にあったらと考えるだけでも血の気が引いてしまう。それを避けるためにはどうふるまうべきなのか考える必要がある。ルミール村で見かけたエーデルガルトの周りにいたような怪しい魔道士を遠ざけねばならない。大人たちが信じなかったとしてもクロードに必ず時間を作らせ二人で対策を練る必要があった。
ローレンツには跡取りとしてデアドラで名と顔を売るように言われる時と父の名代として他の土地を訪れたり自領を治めねばならぬ時があり円卓会議の度に必ずデアドラへ行けるわけではない。マリアンヌも似たような立場で円卓会議に帯同すれば必ず彼女と会えるというわけではなかった。分かっていてもリーガン邸の応接間に彼女の姿が見えないとローレンツは残念だと思ってしまうし自分が不在であった時にマリアンヌがどう感じているのかが気になってしまう。
父であるグロスタール伯と共にリーガン邸の応接間に通されるとエドマンド辺境伯が一人静かに会議が始まるのを待っていた。今回は残念ながらマリアンヌは帯同していないようでそうすると若輩者であるローレンツは口を噤むしかない。
「グロスタール伯、人払いを願いたい」
マリアンヌと同じ水色の髪をしたエドマンド辺境伯にそう話しかけられたグロスタール伯はローレンツと同じ紫色の瞳で彼を見つめた。
「ここにいるのは辺境伯と私と私の息子だけだが」
「そう、ご子息がいらっしゃるので人払いを願いたいのです」
「私がその話を息子の耳に入れるべきと判断したらどうするのかね」
グロスタール伯は淡々とした口調でエドマンド辺境伯に異を唱えた。一体二人で何の話をするつもりなのか。
「それはご自由に。ですが私がご子息に聞かせたくないと考えていることはご理解いただきたい」
父はエドマンド辺境伯に一応反論したがそれでも後でローレンツに内密の話を教えてくれる保証などない。幼い頃からここがこう言う場だとは知っていたが士官学校でそれぞれの家の後継者たちと親交を深めた後のローレンツには耐えがたく自分から退室を求めた。
その晩、円卓会議を終えたクロードと話すためローレンツはまだデアドラに残っていた。クロードはリーガン邸の他にもデアドラ市内にいくつか拠点を持っていてローレンツはそのうちのひとつに足を運んでいる。
「ああ疲れた!いずれ慣れるんだろうが爺さんが生きてた頃とは大違いだ」
クロードは踵が高く足の甲に飾りがついている婦人物の靴を手に取った。手持ち無沙汰なのか褐色の手は買いもしない売り物を弄り回している。ローレンツたちは地味な平服に身を包み本物の靴屋で話し合いをしていた。何故靴屋を拠点にしているのかクロードに問うたら薬屋だと分かりやす過ぎるから、という答えが返ってきたので本当になんの意味もないのだろう。
代行を務めていた時のように祖父オズワルドの許可を得た内容ならば諸侯たちも納得するがどんなに些細なことであってもクロード独自の発想ならばきっと皆納得しない。彼らを説得し新しいことを始めるのはさぞ骨が折れることだろう。
「毎度思うのだが……僕がここで君から聞いた話を父に報告したら、とは考えないのか?」
「確かにお前って大した弱みもないし買収しにくいし完全に操れるとは言い難いもんな」
これがクロードのよくないところだ。露悪的で信頼を軽んじるような物言いをする。ローレンツはクロードから靴を取り上げ彼の手が届かない上の棚に置いた。
「猜疑心の塊である君から理由もないのに信用してもらえるとは光栄なことだ」
「マリアンヌの足の寸法でも知ってたら別だったろうなあ」
「クロード!!」
だがもし知ることが出来たら靴を贈りたい。マリアンヌは自分が美しいと信じていないがローレンツならきっと彼女を引き立てる靴を選べる。
「贈ったものを履いてるところを見せてもらうのも命懸けだな。ヒルダやリシテアと違ってマリアンヌはいつも丈の長い服着てるだろ?」
だがクロードの言う通り裾を捲ってもらわねば履いているところを見ることすら叶わないだろう。婚約をした後ですら難しいのではないだろうか。
「なんてことを言うのだ……」
「お前さっきから真っ赤になったり真っ青になったり忙しいなあ……冗談に決まってるだろ!話を元に戻すが親どもが信じない件に関してはお前たちに警戒してもらうしかないんだ」
クロードが言うにはディミトリも身分や姿形を乗っ取る者たちについて調べていたらしい。労力を思えば職位が低い者や平民になる意味がないので身分が高く権力に近い者が狙われる。クロードを亡き者にしたい場合はローレンツ、マリアンヌ、ヒルダそしてリシテアが狙われることだろう。誰かが疑わしいと思った時は右手の親指と人差し指で丸を作り左手の人差し指で右手の人差し指の爪に触れる。自分から本人であることを示したい時は右手の人差し指を伸ばし左手の人差し指で右手人差し指の第二関節に触れると言うことになった。文書で伝えるわけにはいかないので誰かと直接、会うたびに伝えていくしかない。リーガン公の葬儀以来ヒルダは自領からあまり出てこなくなった。今日決めた符牒をヒルダに伝えるのは誰になるのだろうか。
「君は僕と同じく若輩者なのだから色んな場所へ視察に行って顔を売ることだな。ああ、グロスタール領へは来なくて結構だ」
「何をやったところでこれ以上嫌われようも好かれようもないからな」
エドマンドには良港がありアミッド大河の対岸は帝国でフォドラの喉元の東はパルミラだ。どちらも就任したばかりのレスター諸侯同盟の盟主がなるべく早く視察に行くべき場所と言える。
ガルグ=マクが陥落して三年が経過した。冬が来る度にローレンツは死に物狂いで自領へ戻ろうとしていたあの時のことを思い出す。オグマ山脈を縦走した者たちは皆同じだろうとローレンツは信じている。レスター諸侯同盟はアドラステア帝国が攻め込んでこようとパルミラ側の国境警備を怠るわけにはいかない。挟撃する好機と見てパルミラが攻め込んでくる可能性は排除できない。ローレンツはグロスタール領から物資を運びつつフォドラの首飾りへ向かう兵士たちに帯同していた。
国境を守る要塞ではホルスト卿だけでなく懐かしい顔がローレンツを出迎えてくれた。ヒルダは学生時代は二つ結びにしていた髪を後ろでひとまとめにしている。
「ローレンツくんお疲れ様!」
ローレンツは要塞から少し離れたところにあるゴネリル家の本宅には顔を出さずにそのまま北上して自領へ戻る予定だったので意外な再会だった。自称か弱い妹のヒルダはゴネリル公に命じられ近頃は要塞で兄の手伝いをしているのだという。ヒルダと共に物資の検分をすると予定よりかなり早く仕事が終わった。
「その結い方もお似合いだ」
「ありがとう、ローレンツくんもその髪型すっごく似合ってる!」
二人は今、視察と案内という名目で誰からも話を聞かれない望楼に上りパルミラを見ながら密談をしている。望楼の上は風が強く伸ばした紫の髪が風に煽られた。魔道学院にいた頃の長さまで伸ばすつもりでいる。
「クロードくんが結構な博打うちだから冷や冷やしちゃって……ローレンツくん家から物資や兵が援助してもらえて兄さんはどう考えてるか分かんないけど私個人は助かった〜って感じなの」
「クロードは何に金貨を賭けているのだろうか?」
ヒルダは目の前に広がる荒涼とした平原を指差した。パルミラ軍がフォドラの喉元を越えようとしたことをきっかけにガルグ=マクに士官学校が設立されている。この国境地帯から全ては始まっているのかもしれない。
「パルミラ軍が攻めてこない、に全財産賭けてるわ。この間、クロードくんの指示で捕虜も全員交換したの」
「交換……ということは身代金を払わせなかったのか?」
ヒルダは首を縦に振った。捕虜交換ならばこちらも身代金を払わずに捕虜になった兵を取り戻すことができるが実入りは全くない。解放する捕虜の人数が多かった場合は衣食住を保障した分だけ損をしてしまう。
「うん。一応それぞれ人数は同じだったんだけど中に密偵が紛れ込んでるかもしれないじゃない?それなのに大丈夫だから、しか言ってくれなくて」
私にすら事情を話してくれないなんて、とヒルダは失望しているのかもしれない。だがローレンツがヒルダの失望を感じ取ってしまっていることを悟られるわけにいかなかった。前夜式の晩にローレンツが何を見たのかがヒルダに分かってしまう。それでもどうにかして友人を慰めたいのだが何も確実なことを言ってやれなかった。
「でも私ツィリルくんがうちにいたことすら知らなかったでしょ?そんなだからクロードくんが何考えてるのか全然理解できないのかな。パルミラに密偵はいっぱい放ってるみたいだけど……」
士官学校にいた者たちにとって身近なパルミラ人といえばツィリルだ。ツィリルはゴネリル家の下働きをしていた時に酷く扱われているのを見たレアがガルグ=マクに引き取り従僕にしたのだという。クロードが厄介な隣国をどう捉えているのかよく分からないことをヒルダは気にしていた。
「だが子供は邸内で働かせないものだろう?」
一般的な話になるが名家の者は身の安全を守るため邸内に出入りする使用人の顔と名前は全て覚えるように躾けられながら育つ。ヒルダは自分が世間知らずであったことを悔いているがツィリルが馬丁や庭師の下働きをしていたならばヒルダには彼の顔を見る機会すらなかったのではないだろうか。
「兄さんは私と違ってクロードくんに全く異議を唱えなかったの。だからなんだか二人のこと遠く感じちゃったな……」
「先生とは真逆だな。クロードは余計なことはべらべらしゃべる癖に肝心な時には口を閉じる」
寂しそうなヒルダを元気付けてやりたいがローレンツにそれは出来ない。彼女が求めているのはクロードの言葉だからだ。
「先生かぁ……生きてると良いね。この間マリアンヌちゃんと会った時にも話したんだけど私たちは千年祭の日に顔を出してみるつもり」
「顔を出せばヒルダさんたちには確実に会えるわけか」
同窓会をしようと言い出したのはクロードだからヒルダはクロードとは必ず会える。だが自分とマリアンヌは再会出来るのだろうか。ローレンツはずっと疑問を抱えていたが思わぬところで答えを得た。
「途中からうちの学級に来た子たちも来てくれると良いね」
特異な経歴のベレトを慕って黒鷲や青獅子から金鹿の学級に転籍した者たちが何名かいる。
「残念ながらフェルディナントくんとは未だに連絡が取れない」
「そっか……ローレンツくんでも無理なんだ……マリアンヌちゃんも全然連絡が取れないって……」
フェルディナントはローレンツともヒルダともマリアンヌとも仲が良かった。帝国軍がガルグ=マクに侵攻してきた際エーデルガルトに置き去りにされた黒鷲の学級の者たちは開戦と同時に帝国軍に降伏し帰郷している。彼らは帝国に残る家族を即位したエーデルガルトとその側近であるヒューベルトから守るためにガルグ=マクを去ったのだがその際、意見の取りまとめをしたのがフェルディナントだ。
「息災であると信じるしかない」
ローレンツは伸ばした真っ直ぐな紫の髪をかきあげた。ヒルダも目を逸らし唇を噛んでいる。礼儀正しく陽気で好奇心が強く紅茶と乗馬が好きなフェルディナントとローレンツはすぐに仲良くなった。同じ学級の者たちからは鬱陶しいと思われていたようだがそんなことは関係ない。
「うん、元気じゃないフェルディナントくんって想像がつかないわ」
実際は帝国軍によるガルグ=マク侵攻と父親が蟄居させられたことに衝撃を受けかなり落ち込んでいたのだがローレンツもどうせ思い出すなら溌剌としていたフェルディナントの姿を思い出したい。
「約束の日に皆で会えると信じよう。さあこれ以上ご婦人が風に当たるのはよろしくない」
そう言うとローレンツはヒルダの手を取った。ゴネリル公の差し金なのか父の差し金なのかは分からない。だが父の名代として他所の土地に赴くとこうして鳥籠の扉が開いていることが多々ある。クロードの顔が脳裏にちらついたが本気でヒルダに惚れている者が手を取るより遥かにましだろう。それが分かっているヒルダもローレンツの肩に軽く頭を預けた。実に見事に笑顔を作っている。箱入り娘は箱の底に穴を開けるのに協力する友人さえいれば親の目を気にせず案外好き勝手にやれるのだ。
「マリアンヌちゃんじゃなくて残念ね」
「いや、クロードに妬かれるかと思うと僕は気分がいい。今月は僕で何人目かな?」
「五人目よ!嫌になっちゃう!」
「どの名家の親も似たようなものだろうな……」
協力関係を結ぶ寄せ餌としての見合いはしょっちゅうだ。リーガン公が生きていたらとっくにクロードとヒルダの縁談は本決まりになっていたのかもしれない。だが取り計らってくれる年長者が周りにいないクロードはありとあらゆることを自分で決めねばならない立場だ。ヒルダはかなり長く待たされる可能性が高い。
一一八五年星辰の節、ローレンツは廃墟と化したガルグ=マクを訪れていた。壮麗な聖堂は瓦礫だらけで盗賊の棲家になっている。同じ入口から侵入したイグナーツと共に矢羽が空を切る音や悲鳴が聞こえた方に向かうと再会を願っていた人がそこにいた。教え子が辿り着く度に彼は驚いていたが教え子たちは皆驚かされたのはこちらだと思っている。
クロードはこの五年間ずっとガルグ=マクの様子を窺っていたらしい。ベレトと会うために帝国からやってきたリンハルトとフェルディナントを質問攻めにしているが何故この利便性に優れたガルグ=マクをエーデルガルトが放棄したのかについて満足がいく答えは得られなさそうだった。
「そんなことよりクロード、君が奪った玩具をエーデルガルトさんが取り返しに来た時の算段はついているのかね?」
「俺はここに籠るつもりはないよ。セイロス騎士団だって守りきれなかったんだぜ?」
「え〜!じゃあどうする気なの?」
ヒルダの問いは当然のものだ。嫌な予感がしたローレンツの視線が彷徨い同じことを危惧しているマリアンヌの視線と絡みあう。
「こちらから攻め込む」
「攻め込むって……どこまで?」
「最終的には帝都アンヴァルだ」
皆同窓会に出るためガルグ=マクに来たのであってクロードによる帝国侵攻作戦に参加するために遠路はるばるやってきた訳ではない。枢機卿の間に集まっていた者たちは一斉にクロードへ文句を言い始めた。信用を失ってしまうとしても傭兵として働き始めたレオニーやまだ仕える主人を持たず実家の手伝いをしているイグナーツやラファエルは当分戻れない、と地元に伝えることすらできない。クロードには奇襲以外に勝ち目がないからだ。
「クロード、この件を家臣たちに話したのか?」
話している訳がない。もし話していたらベレトと共に盗賊たちに囲まれて冷や汗をかくようなことをする訳がない。
「答えがわかってるくせに聞くなよ」
「ではせめて平民の学生たちとは雇用契約を結びたまえ!僕のような貴族の子弟はともかく彼らには生活がかかっているのだぞ」
イグナーツ、ラファエル、レオニーそれに元傭兵のベレトもローレンツの言葉に頷いてくれた。特にレオニーは借金をして士官学校に入学している。クロードが空しか見ないならローレンツが地面を見るしかない。レオニーたちとクロードの交渉が長時間に渡るのは明白なのでローレンツはレオニーたちに持参した茶葉で紅茶を淹れてやった。アッシュがこの場にいれば更に交渉は厳しいものとなっただろう。
「では皆さんごゆっくり。実りある話し合いをしてくれたまえ」
「相手を焚き付けるだけ焚き付けておいて俺の味方はしないのかよ!」
「事前に説明があれば助太刀できたかもしれないが情報が少なすぎて自信がないので撤退させてもらう」
「ローレンツくんに無理なら私にはもっと無理だわ〜」
ヒルダの言葉に頷くとローレンツは自分と同じく生活がかかっていない階層の出であるヒルダとマリアンヌの手を取りまさに両手に花という状態で枢機卿の間から去った。扉の向こうからはレオニーだけでなくイグナーツの声も聞こえてくる。商家出身のイグナーツは正式な帳簿が作れるのでもしかしたらレオニーより手強いかもしれない。
「これで気は済んだかね?ヒルダさん」
「うん、意地悪はこれでおしまい。この後はずっと味方してあげるつもり」
「こうなるとお義父さまへすぐに手紙が出せないことがありがたいような……」
もう子供ではないのだから感情に振り回されてはならない、家のために生きろと諦めを強いる実家での暮らしに三人ともそれぞれ追い詰められていた。もし戦争が起きなかったら今頃ローレンツはマリアンヌの前で片膝をついていたかもしれない。家格は釣り合っているし三年もあれば彼女の信頼を得る自信はあった。だが戦争の影響でそれどころではなくなってしまった。
未婚であるエドマンド辺境伯はともかくローレンツとヒルダの両親はそれなりに幸せそうではある。しかしローレンツとヒルダは五年も持ち越してしまったせいかまだその境地に達することができなかった。ローレンツはマリアンヌもそうであれば良いと願っている。だから今回、家族と縁が薄く孤独なクロードが引っ掻き回してくれたお陰で人生の階段を登ることを先延ばしに出来てありがたく思っていた。
一人勝手に根回しをしていたクロードに付き合い皆で武装してアリルに向かうことになった。ダフネル家の援助を受けミルディン大橋を確保できればきっと親たちも親不孝な嫡子たちを許す。その為にはまず無事に合流場所まで辿り着かねばならないので馬上のローレンツは密かに緊張していたが呑気なことにマリアンヌとクロードは谷にまつわる不気味な話で盛り上がっていた。ますます自分がしっかりせねばとローレンツが上を見上げると軍旗を掲げた集団が見えた。先方も存在を知られてはならないのでアリルに潜んで待っているという話だったがあれは違う。
「クロード、お喋りの時間は終わりだ。あそこを見たまえ」
「おっと……。誰がお出迎えに来てくれたんだ?」
頭上ではディミトリやその友人たちを裏切りあっさりとファーガス公国に鞍替えしたローベ家の軍旗が翻っている。ローレンツが情勢に詳しくないベレトにわかるように解説すると彼ははすぐに部隊を二つに分けイングリットにペガサスで様子を伺うように命じた。ペガサスやドラゴンは弓兵に弱いが彼女はとにかく矢を避けるのが上手い。一方でローレンツはベレトから別働隊を率いるように言われた。
「挟み撃ちされそうな気がする、と思わせるだけでいい。実際は不可能だからな」
裏を返せば溶岩のせいで足元が覚束ない戦場でそれくらい積極的に攻め込まねばならないということだ。これは確かに誰にも任せられない。
「ローレンツはそういうのが得意だろう?」
ベレトはそういうと五年前のように剣帯を鳴らしながらあっという間に本隊の前線へ行ってしまった。敵軍の様子を伺っていたイングリットがかなり前方に移動したベレトの元へ急降下しているのが見えたが何があったのかはもう遠すぎてよくわからない。馬が地熱で足を痛めないよう足元をよく見て手綱を捌かねばならず本隊の動静を確かめる余裕などローレンツにはなかった。
必死になって敵の増援部隊と戦闘しているうちにクロードがジュディッド自身の率いる援軍と合流しローレンツたちは灼熱の谷を出ることが叶った。何故イングリットがあの時大慌てで降下したのか分かったのは全てが終わりローレンツが谷の修道院側の出口に辿り着いた時のことだった。ファーガス情勢は混迷を極めており板挟みになったアッシュはグェンダルと共に死地に引き摺り出されたのだろう。ベレトを慕ってやってきたファーガス出身者たちはアッシュを囲み汗を拭うふりをして涙を拭いている。ベレトは父ジェラルドの仇と手を組んでいたエーデルガルトにはあっさり斬りかかったがアッシュには手を差し伸べた。クロードは笑顔でその様子を眺めている。
「煉獄の次は地獄の釜の蓋か?」
「お前んとこの穀物あてにしてるぜ」
ミルディン大橋という地獄の釜の蓋を取り戻してもその先に待っているのは帝国との総力戦だ。クロードの本当の願いは一体何なのか。誰かに語ったことはあるのかとローレンツは問いたかったがどうせまともに答えるわけがないので聞くのを止めた。