藍啓仁は長く、それはもう抹額ほどの長さもあるのではないかと思うほど長く、息を吐いた。沈鬱な表情で目を閉じる様は、まるで嵐の後の柳である。
藍曦臣はこの叔父に道侶を迎えたいと申し出たところであった。相手の名前も伝えていないが、藍啓仁はその正体を承知しているかのように首を振った。
「とても承知していただける方とは思えぬが、返事はいただいたのか」
藍曦臣は軽い驚きとともに答えた。
「まだです。ですが、叔父上は私の気持ちをご存知でいらっしゃるのですか」
「見ていればわかる。江宗主であろう」
そういうものかと背後に控える藍忘機と魏無羨を振り返ると、二人ともがうなずいた。どうやらそういうものであるらしい。
「それで、お前はどうするつもりだ」
藍啓仁の問いには多くが含まれていた。
宗主として、藍家の者として、立場と役割がある。
藍曦臣は気負うことなく笑顔で答えた。
「私は宗主を後進に譲ります。もちろん、すぐにというわけではありません。十年はかかるでしょう。ですが、それが叶ったら、雲夢に移ります」
藍啓仁は再び沈鬱なため息をついた。彼は目を閉じて、しばらくは口を開かなかった。もしかしたら、彼自身の来し方を振り返っていたのかもしれない。
藍曦臣は叔父が口を開くのをじっと待った。どれほど反対されようと引かない覚悟であったが、藍啓仁は「そうか」と言った。
「江宗主に承諾いただけたら、二人で来なさい」
「はい、叔父上」
「また、雲夢へ行くのか」
「はい、うわさも気になりますので」
「対処は考えているのか」
「私が道侶を望んだという話を流します。それで、打ち消すことができるでしょう」
藍啓仁はうなずき、話はまとまった。魏無羨はなにか言いたそうにしていたが、結局口を開くことはなかった。
藍啓仁の部屋を辞し、三人は中庭へと向かった。藍忘機と魏無羨は静室へ、藍曦臣は寒室へと別れる。
「俺は反対だな」
その別れ際に魏無羨が言った。
「あなたが道侶を迎えるなんて話が出たら、江澄は身を引くぞ」
彼の眼光は鋭い。藍曦臣は向き直って、その視線を受け止めた。
「わかっています」
「あいつが傷つくことになるんだぞ」
「ええ、わかっています。ですが、向家の娘が江宗主の妻になる、といううわさは一刻も早く収めなければなりません。うわさが彼の周囲をかためてしまう」
「ほかにも方法はあるだろう」
「悠長にしていられないのはあなたもおわかりのはず。私は三日のうちに蓮花塢に向かいます。江澄には直接弁明いたします」
藍曦臣は姿勢を正すと、弟とその道侶に拱手した。
「負担をかけますが、留守を頼みます」
魏無羨は仏頂面のままだった。江澄の義兄である彼としては、どうしても納得できないことであるらしい。
しかし、藍忘機にうながされ、二人ともが拱手を返した。
「沢蕪君、江澄を頼みます」
「はい、魏公子」
江澄も向家のたくらみには当然気づいているだろう。それでも蓮花塢に江陽紗を留めているのは理由があるはずだった。
藍曦臣は歩みを進めながら、接触すべき世家を選抜した。聶家は言うに及ばず、余家、于家をはじめとした河北の世家にも、それとなく事情を聞いたほうがいい。
寒室へと戻った藍曦臣は各所に文をしたためた。
朔月は夜をすべる。
細い月光の中を白い衣がはためいていく。
藍曦臣は眼下に蓮花塢をとらえた。まだ亥の刻、あちらこちらから明かりが漏れている。
宗主の私室も同じであった。蓮花湖をぐるりとまわり、私邸の奥に進む。湖を臨む露台でも、窓が開け放たれて、室内の明かりが揺れる様子を映している。
「藍渙……?」
藍曦臣が露台に降り立つと、室内の江澄もすぐに気が付いた。カタン、と彼の手から落ちた盃が硬い音を立てた。
「こんばんは、江澄」
「どうして」
「あなたに、会いに来ました」
室内に入ると、酒甕が三つも転がっているのが目についた。江澄は呆然とした様子でその場から動かない。
藍曦臣は近寄ろうとして、はたと足を止めた。
「なにがありましたか」
「なにって……」
藍曦臣は机を回り込み、江澄の傍らに膝をついた。朔月を置く。
間近で見るとそのやつれようはひどかった。江澄の目の周りは黒々として、頬はこけ、数日ぶりとは思えないほどの変わりようだった。
手のひらを頬にそえると、江澄は目をつむってほほえんだ。
「二度と、こうしてあなたに会うことはないと思っていた」
「阿澄?」
「まだ、そう呼んでくれるのだな」
江澄の腕が伸びてきて、藍曦臣の首にまきつく。強烈な酒の匂いが鼻をかすめた。
御剣の術で乗り込むようにして訪れたことを、最初に叱られると思っていた。その次には、数日前に黙って帰ったことをなじられると思っていた。
それなのに、江澄は甘えるようにして藍曦臣に抱きついたまま離れない。
「江澄、あの」
「ああ、すまない……、藍渙」
「いえ、私のほうこそ、すみません。こんな夜に」
江澄はふしぎそうに首をかしげて、藍曦臣に口づけた。
「会いに来てくれたんだろう?」
「ええ」
「うれしい」
何事が起きているのだろうか。藍曦臣は抱きついてくる体をもう一度受け止めて、力いっぱい抱きしめた。
「藍渙、藍渙」
耳元でささやく声が切ない。
それほど傷つけたとは思っていなかった。あの日のやり取りで傷ついたのは己のほうだと思っていた。
「阿澄、好きですよ」
藍曦臣は口づけを送った。何度も、やわらかい唇をついばんだ。
後悔が胸にうずまいている。
もし、あの日に戻れるなら、もっときちんと話し合ったのに。
「なあ、藍渙」
「なんでしょう」
「牀榻に、連れていってくれないか」
江澄がねだるように、耳に口づけていく。
藍曦臣はその体を抱き上げた。ひし、と首に抱きつく江澄は、明らかにいつもの彼ではない。
抱きしめるのも、口づけるのも、江澄からもらったことは数えるほどしかないというのに、今日の彼は躊躇なくそれを差し出す。
先に話し合わなければ。
そうは思うものの、耳元で「藍渙」とささやく声には簡単に熱をあおられる。
「江澄、まず話を」
「いやだ、藍渙。離すな」
江澄を牀榻に下ろして、体を離そうとしても、首に巻きついた腕は解かれない。そればかりか、ぐいと引かれて、藍曦臣は江澄に覆いかぶさるはめになった。
「待って、江澄」
「抱かないのか」
見上げてくる瞳は酒精に理性を失い、濡れて、揺れている。
藍曦臣はぐっと息をのんだ。
「抱いて、藍渙」
この笑顔に抗うことはできなかった。