【曦澄】幸せなこと「嘘つき! 私を愛しているって言葉も全部嘘だったのね!」
ガシャーン。
卓上の茶器が床に落ちる。器は音を立てて割れたが、店員は片付けにも行けず、困ったように遠巻きにしているばかり。
だが、それもそうだろう。なにせ店内では今、男女の修羅場が絶賛展開中なのだった。
「もう何もかも信じられないわ! いったい私の他に何人の女に手を出していたの?!」
女の怒声が響く。金切り声のそれは店中に響いていた。間違いなく外にも聞こえているだろう。
江澄はその光景を苦虫を噛み潰したような顔で眺めていた。とりあえず五月蝿い。
「すげえなあ」
魏無羨は初めこそ野次馬根性を出してニヤニヤしていたが、口を開くたびに感情の高ぶりが増していく女の男を責め詰る言葉に苦い記憶を思い出したらしい。顔を引きつらせて乾いた笑いを浮かべるようになるまでそう時間はかからなかった。
それ見たことかと内心で思いつつ、江澄は呆れたように己の茶杯に口をつける。
「まあ、あれは男の方が悪いがな」
「そうだな。複数の女に手を出してるのが悪いよな~」
店中の客がこの修羅場に聞き耳を立てていた。浮気するならバレないようにやれよ等、潜められた声が聞こえてくる。
バレなきゃいいってもんでもないだろうと渋面を浮かべつつ、いっそ酒が飲みたいなと遠い目をする魏無羨に、阿呆か、酒の味も台無しになるぞと江澄はたしなめた。
「だいたい飲まずに待っていてくれと言われただろうが」
「そーなんだけどさ~」
「おかげで俺までとばっちりだ」
「え~、そりゃそうだろ。俺が我慢させられてるのに、お前だけ飲むなんてずるいだろ」
「知るか」
彩衣鎮に急用ができてしまったと言う藍曦臣に、休暇を合わせてやってきた江澄は、ならば同行しよう、貴方の用の間は街中を素見ているからと連れ立って出かけることにしたのが今日の朝方だったろうか。
何故か仙督の藍忘機も一緒で、その道侶の魏無羨まで一緒に行動することになったのは大きな誤算だったが、待っている間の時間潰しにはちょうどいい。どうせ合流すれば後は別行動なのだしと割り切った。
そうして、揃って用事に赴いた藍家の二人を見送り、久しぶりに義兄弟水入らずで茶楼で喉を潤していたのだが。
運悪く、男女の修羅場が始まってしまったというわけである。
女が泣き叫び、男は決まり悪げに視線を逸している。二人の間にどのような事情があったのかはわからない。男は言い返すこともなく、ひたすら女に罵倒されるがままだった。
どれだけ非難されようと、詰られようと、言い訳もしないが、宥めようともしないあたり、男は女とは別れるつもりなのだろう。女もそれがわかっているのか、別れたくないが故に詰っているようだ。何とか言ったらどうなのと声高に訴えている。
だが、やがて少しずつ女の語気が静まっていき、沈黙が訪れる。そして男が深々とため息をついたのが区切りとなったようだった。
やおら女が卓上に残っていた茶器を振りかぶり、男にぶつける。再び派手な割れる音が響くのを後目に、女は男を罵って茶楼を出ていった。
「……なんかさ~」
「……」
「気の毒にな~」
「そうだな」
騒々しくはあったものの、男に嘘をつかれ、浮気をされ、挙げ句言い訳も宥めすかしもなく破局するというのは哀れだった。
「姑蘇の男でも、藍家に入門してなければ嘘もつくのかな」
「そりゃ、つくこともあるんじゃないか」
市井の民まで、藍家の管轄下の人間はすべて嘘厳禁とまではいかないだろう。人間ならば嘘の一つや二つ、つくこともある。不誠実なのはもちろん良くないのだが。
「俺、今までもこれからも、藍湛に嘘つきって言うことはないだろうな~」
「だろうな」
お前もだろと魏無羨が小突いていくる。そうだなと江澄は再び頷いた。
藍曦臣も嘘をつくことは決してないだろう。
なんたって家規で嘘が禁じられている。藍氏の男は嘘をつかない。直系の男子で、藍氏の手本ともされている藍曦臣と藍忘機が嘘をつくなどあり得ないことだった。
なにより、あの二人は嘘をつかないことを当然のこととして、自然体のままで守っている。
だから、普段は疑り深い江澄も、藍曦臣の言葉は嘘偽りがないと信じていられるのだ。
いくら自分の口が悪く、皮肉を言ったとしても、今後喧嘩をすることがあったとしても。嘘つきという言葉を口にすることはきっとあるまい。
「嘘をつかれないっていいよな。相手の言葉を絶対に信用できる」
「そうだな」
藍曦臣なら約束を反故にすることもしないしな。相槌を打てば、どーしてお前はそう、可愛くないこと言っちゃうのと魏無羨が眉尻を下げた。
「お前はお前の夫を、俺は俺の道侶を、その言葉を心から信じているということだろ」
「そーなんだけどさー。そーなんだけどー」
ぶちぶちとぼやいている魏無羨に、煩いなと江澄は顔をしかめた。
「……お前のよく回る口は信用ならんこともあるが。お前のことは信頼できると思っている」
「江澄……」
ぷいとそっぽを向きつつ言われた言葉に魏無羨が目を見開く。言われた言葉を咀嚼し、赤くなった江澄の耳の縁をまじまじと見つめ。そして。
「……」
無言のまますぅぅぅぅと大きく息を吸い込み、深々と吐き出して。肺の中の空気をすべて吐ききるように、深く深く息を吐いて。
「江澄んんんん! お前やっぱり可愛いなああああ!」
魏無羨はがばりと江澄の肩を抱き寄せた。
「馬鹿! お前、茶器が割れる!」
俺たちまで粗相をしてたまるかと江澄が焦ったように引き剥がそうとするも、言われた言葉が嬉しくてたまらない魏無羨にはどこ吹く風。すりすりと頬ずりまでされそうになって、江澄は慌てて腕を突っぱね、距離を取ろうとする。
そうしてぎゃあぎゃあと騒いでいると、おやおや賑やかだねと藍曦臣の声が降ってきた。
「曦臣。もう用事は終わったのか」
「ええ。貴方を長く待たせたくなかったからね。円滑に済んでよかった」
「そうか」
宥めるように自身の肩を抱き寄せる男に安堵する。江澄の向かいでは、同じように道侶を抱き寄せる藍忘機がいた。
おかえり藍湛と、さっきまでの騒ぎなどころりと忘れた様子でべたべたし始める二人に、ここからはもう別行動だなと江澄が立ち上がる。
「行こうか」
「ええ」
目礼する藍忘機に微笑みを返して、藍曦臣は江澄と共に茶楼を後にした。
街並みを歩きながら、二人で何を話していたのと問われ、さてなんと答えようかと江澄は考える。男女の修羅場があったことは言わずともよいだろうと思い、要点だけを口にした。
「夫の言葉を疑うことなく信じていられるというのは幸せなことだと言っていたんだ」
「うん?」
「貴方達は決して嘘を言わないだろう?」
「ええ」
「俺も魏無羨も幸せ者だということだな」
得意げに笑ってみせる江澄に、藍曦臣も釣られるように笑みを浮かべた。
「それは嬉しいね」
私達の在り方が貴方達を幸せにできているのなら良かった。こんなに嬉しいことはないと微笑む藍曦臣に、そうだなと頷いて寄り添う。
ここからは休暇だ。存分に二人の時間を満喫しようと、彼らは歩き出した。