「時間を巻き戻したい時ってありませんか」
あんずさんの、らしくない発言にストローから口が離れた。思わず変な音を立てそうになったが、落ち着いて口の中にあったものを呑みこんだ。苦味が纏わりつくように喉に張り付いていた。
とくに相談があると言われたわけではない。ただ遠目でもわかる浮かない表情を見て、無理やり連れ出してきた。気晴らしをさせて、それからまた学院に送って返すつもりだった。まあ、こっそり彼女のスマホの電源を切ったので、今ごろ学院内で騒ぎになっているかもしれないが。
繁華街のはずれに新しくできたカフェはオープンから少し経ち、当初満席だった店内もすっかり空いていた。前に行きたいって言ってただろう? と引っ張ってきた手を離してドアを開ける。一番奥の四人掛けの席に座ってミルクティーとアイスコーヒーを注文した。店員が注文を繰り返してから去るのを見届けて、水を一口含む。
向かいの席に座ったあんずさんはまだ昼なのに瞼が重そうで、懸命にこじ開けようとしている。ずいぶん疲れた様子だ。ここに来るまでも、最初のうちこそ抵抗したものの、いつもの覇気はなく、諦めたのか事態を把握していないのか、ともかく大人しく着いてきた。
空調の効いた店内はコーヒーの香りが漂っていた。ディスプレイの写真集と、『店内でご覧下さい』の文字が目に入る。表紙は見覚えのある地域だった。
お待たせしました、とドリンクに加えてサービスのクッキーが運ばれてくる。ハッと気付いてあたりを見回すあんずさんはどうやら寝てしまっていたらしい。
「付き合ってもらって悪いなあ! 俺も一度来たいと思ってたんだ。涼んで休憩したら帰ろう」
そう声をかければじろっと睨みつけられる。嘘が丸分かりだと細めた瞳が語っている。寝起きで不機嫌な猫のようになって、凄味が増していた。あまり意味のない、中身のない嘘だったが、正面切って君がヤバそうだから連れ去ったと告げるよりいくらかマシだろう。
「いただきます」
あんずさんは律儀にそう言ってティーカップに手をやった。ふうふう、と冷ましながら口に運んでそれから、美味しい、と笑う顔は可憐なものだ。そうしてホッと一息ついたと思った瞬間に、唐突に、切り出したのだ。
「時間を巻き戻したい時ってありませんか」
噎せそうになるのを堪え、その質問の意図を探る。それはアイドルたちの道行きを照らす、夢ノ咲のプロデューサーが吐いた弱音とも取れた。気まぐれに連れてきた先でそんな、実現不可能なもしもの話が飛び出すなんて想定外だった。
「たとえばこの間のライブの準備の時とか、もっと言えば転校してきた頃に、とか?」
想定外ながら、思考を想像して答えてやればどうやら図星だったらしく、ムスッとした顔つきを見せる。俺の分のクッキーを差し出せば奪うように掴んで齧るので、この店のサービスに感謝した。
はっはあ、とわかった振りをしながらも、考えすぎじゃないか、とは言えなかった。俺にもその考えに心当たりがあるから。地球の反対側を映した写真集をちらりと見る。心臓がうるさいほど脈打っていた。
もそもそと咀嚼する姿を眺める。俺たちはどこまで似ているんだろう。誰かのために自ら後悔を引きずるなんてこと、この子はしないと思っていたのに。虚を突かれた感じだ。どう対処しようか。
「心にも、『いたいの、いたいの、とんでけ』ってできたらいいのになあ」
「……え?」
きょとんと首をかしげて、ボソッと漏らした言葉を聴き返す。正面から捉えられそうになるのを、俺は目を逸らしてストローを口に咥えることで逃げた。コーヒーは氷が溶けて 少々味が薄まり、香りも刺激的なものではなくなっていた。
「あっ、それから」
あんずさんは良いことでも思いついたかのように、両手をパンと合わせて言う。先ほどと違って声のトーンがいくらか高い。
「小さい頃の自分に、先輩のこと、ちゃんと覚えておくように忠告もしておきたいですね!」
「ゲッホッ」
今度こそ本気で噎せた。今日は夢の中の住人かと思うほど発想が突拍子もないものばかりだ。そのくせこちらの胸の内をざわつかせる。もし、あんずさんが俺を覚えてくれている世界があったのなら、どこか今と変わることはあるのだろうか。
「心配無用! どんなあんずさんでも俺が覚えているから安心して欲しいっ」
「えぇ~……」
「そしてそれは、タイムスリップじゃなくて過去の自分に宛てたメッセージだなあ」
「んん~……」
これはもしもの話。時間を巻き戻すことも過去の自分に何か伝えることもこの現実では不可能。そんなことができたら未来が、今が変わってしまう。そうなればここで一緒にお茶することもないかもしれない。
そんな『もしも』を考えて、今もそんなに悪くないと思ってしまいそうだった。
「未来の自分に手紙でも書いてみたらどうだろう」
「将来の私……何してるんでしょうねえ」
「近況報告でもいいんじゃないかあ?」
「生徒会に提出したレポート参照」
「それじゃあ意味がない」
「ですよねえ」
へらりとした笑顔はまだ弱々しい。けれど少しは気分転換できただろうか。めまぐるしく過ごす中たまには立ち止まっていい。とりとめもない話をしてもいい。そんな時間ならいくらでもあげられる。けれども。
「先輩ならなんて書きます? 未来の自分へ」
訊く相手を間違っているなあ、と正直に言えるはずもなく。提案したのは俺で、そして彼女は何気なく訊いただけだ。
「幼なじみと学校サボってデートするのも悪くない、かなあ!」
「はぁ?」
「あんずさんもいい加減目は覚めただろう? そろそろ時間だ」
「ちょっと! あれ? 電池切れてる」
時間を確認しようと取り出したスマホに気を取られている間に会計を済ませた。電源が入った途端に大量の通知を受信しているらしく慌てている。追及されないうちにあんずさんを小脇に抱えて走り出した。
「さあさあ、急いで帰ろうなあ☆」
「もう! 学外でこれはやめてくださいっ」
「おやあ? 学内だったらいいのかあ」
「揚げ足も取らないでください!」
時間旅行の夢を見た。温もりを抱えて、この足で現実に戻ってしまうのだとしても、ささやかな癒しになっていればいいと、そう思っていた。