君の手を握れたら 暗がりのなか、表記されたアルファベットに注意を向けながら、斑とあんずは段差の低い階段を登っていた。
「ここですね」
チケットの半券に書かれたのと同じ列にたどり着くと、間もなくリザーブした席に着いた。あんずは売店で買ったジュースをホルダーに置き、椅子を倒して座った。斑もそれにつづいて座り、周囲を見た。
ロビーの時点で人はまばらにしかいなかったが、ここも空席が目立つ。公開されてからしばらく経つタイトルだからだろうか、今から見る回を含めて今日の上映は二回しかない。
気を使って人の少なそうなタイトルを選んだのか、純粋に観たかったのか、あんずの思いはわからなかったけれど、この方が気楽ではあると、そんなふうに考えながら、斑は出入りする客の様子を眺めていた。後方の席だから人の動きが見える。ここを選んだのも、あんずだった。
「空調、よく効いてますね」
あんずにそう言われて斑はたしかに寒いくらいだと気がついた。あんずが上着を膝にかけているのを見て、斑は声を抑えて言った。
「寒くなったら俺の上着も使うといい」
するときょとんとした表情であんずが振り向いた。斑はどうしたあ? と首を傾げ、あんずの返事を待つ。視線を上着にやってから、あんずはこう訊いた。
「三毛縞先輩は寒くないんですか?」
「うん。たぶんこれくらいなら平気だなあ」
女性の方が身体を冷やしやすいと話には聞く。あんずもその例外ではないのだと斑はどこか納得して、先ほどのあんずの表情の意味を考える。
「ふだんから声が大きい俺だが、ひそひそ話だってちゃあんとできるぞお」
そう言って胸を張ると、あんずは困ったように笑いながら斑の目を覗き込むようにして見た。
「なんでわかったんですか」
「あんずさんは顔に出やすいからなあ。びっくりした顔もかわいかったぞお」
にかっと笑う斑の表情が眩しいくらいに感じられて、あんずはその明るさから思わず目を逸らした。
「や、やめてください。そんなにひそひそ声になってないのに」
「えっ? そうだったかあ?」
「絶対、わざとだ……」
恥ずかしさで身を縮こまらせるあんずのこともかわいいと斑は思っていたが、それ以上言葉にすることはやめておくことにした。
「………」
「………」
どことなく、落ち着かない空気をお互いが感じていた。話が続かなくて気まずいというよりも、そわそわして、浮き足立っているような、そんな気配があった。
そもそも、大勢の人間が同じ方向を向いて座り、同じ画面を見ること自体、落ち着かない行為だと斑は思っていた。たとえば今日くらい——あんずとのデートの日くらい、彼女がいる横を向いていてもいいんじゃないか、と考えずにはいられない、そんな性質だった。
向かい合って食事をしたこともある。バイクで後ろに乗せたこともあるし、抱き上げて顔を見上げることもある。斑の体躯は大きく、あんずは小柄だから、普段なら視線を下げなければ目を合わせられない。
それが今、同じ映画を、隣の席で観ている。それだけなのに、どこか愉快で、なぜかうしろめたい。理由はおそらく、映画が終わるまでそばを離れられないということにある。
そんなふうに分析している斑の耳に、カラカラと氷がぶつかる音が届いた。隣を見るとあんずがジュースを飲んでいた。寒いのに、大丈夫だろうかと心配しているのがわかったのか、あんずが斑の方に向き直って小さな声で訊ねてきた。
「乾燥してますね。のど大丈夫ですか?」
あんずも斑の心配をしていた。それは斑にとって嬉しくて、くすぐったくて、少し歯痒い気分になる、あんずからの気持ちだった。
『ああ』
音にならない、口だけの動きで伝えると、あんずは軽く頷いて、前を見た。やがてブザーが鳴り、映画の上映が始まる。
この映画が終わるころには、手をつなげていたらいいと、斑は思う。もしその手を取れたなら、あんずの隣に並んでもおかしくない自分でいられるような気がしていた。