…あー、と目を泳がすタビコを見てヴェントルーは自分の早計さを恥じた。こんなにも自分を許しているものだからひょっとしてと思案した故の告白だったがタビコにとっては青天の霹靂だったらしく、うーん、とうなり続けるタビコを見てヴェントルーは穴があったら入りたいほどいたたまれなかった。もう返事は貰ったも同然だったがこめかみを抑えながら何か言いたげなタビコをずっと待つ。永遠とも思える時間が経ってタビコが口を開いた。
「…すまない、私はお前と同じ気持ちは持ってないよ」
半ば予想していた返答だったが、ヴェントルーは胸をざっくりと割かれたような心地になる。
「なんて言えばいいかな、お前が弱っているところを見るのも、使役するのも、最高に興奮するが、それはお前が強大な吸血鬼だからであって、それ以上でもそれ以下でもないんだ」
申し訳なさそうに眉を下げるタビコを見てヴェントルーはこれ以上何も言えない。さっきまで輝かんばかりだった薔薇の花束も心なしか色褪せて見える。
「お前には感謝してるんだ。だけど、そういった事には疎いが、気持ちが伴わない限り一も二もない事なんだろ?」
ヴェントルーは片手を上げてタビコの言葉を制した。これ以上言葉を重ねてもヴェントルーが苦しいばかりなことにタビコは思い至らないようだった。ほたほたと花弁を濡らす雫を見咎められないようヴェントルーは花束に顔を突っ込んで、薔薇を口に含んで笑ってみせる。
「ふん、我輩の申し出を無下にするなど後悔しても知らんぞ」
「…ああ、とんだ身の程知らずだと思うよ」
タビコは相好を崩してみせたが、きっぱりとした笑い方をした。ヴェントルーは花びらも何もかもを飲み下して笑ってみせる。それで終わりだった。
日常にこれといった変化はなかった。タビコは吸血鬼退治と靴下収集、ヴェントルーは家事と不定期な集会に追われて時折食卓を囲んだり囲まなかったり、散らかった部屋を何度も元通りにして、ここは賽の河原かとヴェントルーが独りごちるのもいつもの事だった。だけど自分は選ばれなかったのだとヴェントルーは事ある毎に思い出した。
「デートに行こう」というメッセージが来たのはシャワーを浴びる直前で、ヴェントルーは持て余していた試供品のトリートメントをありったけ塗りつけて髪を洗った。とっておきの白鑞ブローチを胸に刺し、カラスの行水とはこの事かとほくそ笑む間もなく空を飛び、髪は一瞬にして夜風を孕んで乾いていった。タビコのマンションに着くと「意外と早かったな」と彼女は言う。
「どうしたんだ?めかしこんで」
「お前にも見る目というものがあるのだな」
「そりゃあいつもよりツヤがあるし、光ってる。見れば誰でもわかる」
こともなげにタビコはそう言ってさあ行こうかとヴェントルーに言う。
「行くってどこへだ?」
「あっちだ」
「あっちじゃわからん!」
「海ならどこでもいいんだ。さあ、飛んでくれ」
有無を言わさずタビコはヴェントルーの背中に飛び乗って「GO!」と前方を指さして叫ぶ。せめて変化してから乗れとタビコをひっぺがし羽を生やしてからタビコを負って、ヴェントルーはタビコが指し示した方角へと飛ぶ。月光は明るく昼間のようだったがまだ春先で肌寒い。もう少し着込んだほうがいいとタビコに言えばよかったと思ったが言ったところで言うことを聞いてくれるとも思えず、ヴェントルーは口を噤んだまま飛び続ける。
「あそこなんてどうだ?」
背中のタビコが見えてきた海岸線を指さす。岩肌には色鮮やかな赤紫が密集していて近くに寄るとそれは咲き乱れる躑躅だった。街中でもよく見かける花であったがこんなにも群生しているのを見るとあまりの迫力に圧倒される。ぽっかりと穴が空いたように踏みならされた箇所があったのでゆっくりとその場所に降りたつ。人の手入れは入っているようで、そこかしこに迷路のような轍があった。「きれいなところだな」とタビコは言ったがこの声は別段弾んだ調子ではなく、彼女は喇叭を吹くように躑躅の花を口にくわえる。
「野草を軽々しく口にするんじゃない!」
「大丈夫だよ。潔癖なやつだなあ。お前も吸ってみるといい。薔薇なんかよりよっぽど甘いぞ」
そう言ってタビコは白い躑躅をヴェントルーの口に押し当てる。怖々口を開いたヴェントルーであったが思いの外甘ったるい蜜に驚き、誘われるまま二輪目を手にする。先程と同じように花の付け根を口に含むと舌に突き刺すような感覚が走り、ヴェントルーは思わず飛び上がった。
「タビコ、舌が痛い」
「舌?」
タビコはヴェントルーの頬を右手で掴んだ。左手で舌先を摘んで引っ張り出し「ああこれか」と何かを指先で掬ってみせる。
「蜜に集ってる蟻だよ。よかったな。当たりだよこれ。殊更に甘いんだ」
目が覚めるような笑顔を見せるタビコを見てヴェントルーは本当にこれが当たりなのかも知らんと思った。タビコは手当り次第に花を摘んでは吸い、摘んでは吸い、自らフラワーシャワー後の道を作っている。ヴェントルーは花を踏むのに堪えきれずほんの少しだけ浮遊する。
「ヴェントルー」
名を呼ばれたので顔を上げると崖から飛び降りるタビコが目に入った。海に背を向けて笑いながら倒れ込むタビコを見て一瞬にして肝が冷え、六枚羽を羽ばたかせて宙でタビコの腕を掴む。
「タビコ!」
地に落ちた花は旋風に巻き込まれて空へ舞い上がり悠長に崖下へ落下していった。ばくばくと拍動する心臓がおさまらない。
「何をしてる?!危ないだろう!!!」
「お前なら余裕で間に合うだろ?」
「羽を出してなかったら間に合わなかったぞ!!!」
「間に合ったじゃないか?」
あっけらかんと言い放つタビコにヴェントルーは呆れて物が言えなかった。ゆっくりと海岸の砂浜にタビコを降ろして地に降り立つ。
「ふざけた真似はよせ。寿命が縮むかと思ったわ」
ヴェントルーは震えが止まない手を隠そうと袖口を伸ばしたが、タビコが肘を掴み持ち上げたことで隠し通すことが出来なかった。安堵と羞恥心で歯ぎしりするヴェントルーを見てタビコは訝しげな顔をする。
「人間に懸想するなんてお前も物好きなやつだよな。お前たちにとってはただの食い物だろう?」
「…我輩が、誰を愛そうが、我輩の勝手ではないか」
「それもそうだな」
タビコはそう言って会得した風に頷いて見せた。肘を掴んだ手でゆるゆるとヴェントルーの上腕を撫であげて左薬指を握ってゆっくりと離す。
命を大事にしろだとか無茶は大概にしろだとか口を酸っぱくして言ってきたがタビコは言うことを聞かない。寧ろ反発するような態度を取り始めたのは自分の浅慮な言葉のせいではないかとヴェントルーは思い始めた。
「お前の恋は叶わないぞヴェントルー」
タビコは見透かしたように言う。
「私はお前の気高さに惚れてるんだ。お前の悠久な時のほんの一時、それに触れる背徳感だけで目が眩む。自由な鳥がほんの一瞬羽を休めているのを眺めるのが好きなんだ。私の手元で飼い殺そうとは思わんよ」
寄せ返す波がヴェントルーの足元にある砂ををじわじわと掬い取っていった。ただここに立っているだけなのに靴の裏を流れていく砂をとめることはできない。時が止まれば、永遠が訪れれば、自分の望みが叶う気がしたがそれでは元も子もないのであった。打ち寄せる波を水平線に向かって蹴飛ばしているタビコを見て、ヴェントルーは胸元のブローチを掴んで無言で差し出す。
「なんだそれは?」
タビコは目を向けただけで羽のブローチを受け取ろうとはしなかった。ヴェントルーは無理矢理タビコの手を開かせてブローチを握らせる。
「このブローチは初めて我輩が空を飛べた時、記念に母から贈られた物なのだ。お前に預ける」
「はあ?」
「いいか!?預けるのだからな?!必ず返すのだぞ!壊したり汚したり無くしたりなんて以ての外だ!それを念頭に置いた上で行動しろ!我輩の靴下はいつか必ず取り戻す!それまで大事にとっておけ!」
タビコはブローチを手に取り掲げ見て、そんな将来の誓い方なんてあるかと笑う。