不覚にもお題 「コート」 「ハンドクリーム」
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「冷たっ」
ハンドルを握ろうとした茅ヶ崎が、その手を引っ込めた。エンジンをかけたばかりで、車内はまだ暖房が効きそうもない。
「カッサカサだな…………」
茅ヶ崎は自分の手の甲を見て独り言をこぼす。鞄に入れてあるハンドクリームを貸そうかと思ったが、それより先に茅ヶ崎が後部座席に放ったコートを引っ張り出して、なにやらゴソゴソと探り始めた。
コートのポケットから出てきたのは革の手袋だった。内側が起毛素材で出来ているやつだけれど、保湿機能はないはずだ。しかし茅ヶ崎は「よし、これで勝つる」と言って、車を発進させてしまった。何に勝ったのかわからないが、機嫌は良さそうなので、問題ないだろう。
「失くしてなかったんだな、それ」
「さすがの俺もあの狭さの部屋で失くしたりはしません」
「この間コントローラー失くして俺にも探させた奴がよく言う」
「うっ」
茅ヶ崎に手袋をプレゼントしたのはちょうど一年前だ。去年の冬が明けて、季節を巡ってまた冬がやってきて、その間ずっとこの手袋がこいつの持ち物の一つとして存在していた。その事実を意識した途端にじわじわと鳩尾が温かくなってきて、妙な気分だ。
発進して数分で暖房が効き始めた。温かい車内での茅ヶ崎は無敵だ。背筋をしゃんと伸ばして、鼻歌を歌いながら滑らかにハンドルを切る。
「茅ヶ崎、久しぶりにどこか遠出しようか」
「いいですね。春組でですか?」
「ううん、ふたりで」
「おっと」
茅ヶ崎はふふ、と笑った。俺も少し口角を緩めた。前を向いている茅ヶ崎に俺の表情は見えてやしないだろう。フロントガラスに映って見えていても、別にいい。
「どこに行きます?」
「国内旅行かな」
「よき」
車がビルの駐車場に滑り込むとき、ああ今日も仕事が始まるな、と思う。仕事を嫌っているわけではない。命の危険がない仕事というだけで俺には有り難い。ただ、茅ヶ崎と横に並んで車に乗っている時間がもう少し長かったらいいのに。
「車で行かないか、旅行」
「おお、二人では何気に初ですね。運転は交代制でよろ」
「当たり前だろ」
「あんまり寒いとこだと雪降ってて危ないかな……」
茅ヶ崎は手袋を外して、またコートのポケットに収める。白い手の甲をさすって、やはり乾燥が気になるらしい。
「ハンドクリーム貸すか?」
「すみません、借ります」
塗り終わった頃に右手を差し出して、チューブを受け取ろうとした。
「ん?あ、先輩も塗る?」
すると茅ヶ崎はこう言って、自分の手のひらにまたハンドクリームを出して、伸ばしてから俺の右手を両手で挟み、塗り込んでいった。俺はそれをただ見ているしかなかった。
「はい、左手」
「茅ヶ崎」
「はい?」
「俺、クリーム返してもらおうと思っただけなんだけど」
「え、塗ってくれってことじゃないんですか?マジか、俺としたことが不覚にもモテ仕草を天然でやってしまった…」
茅ヶ崎が大袈裟に頭を抱える。俺は笑いながら左手を差し出した。
「はは、まあ、せっかくだから左手も頼むよ」
「恥ず…………できれば両方塗り終わってから言ってほしかったですね」
そう言いながらも律儀に塗ってくれるところが、こいつの可愛いところだと思う。
「ありがとうな」
なるべく早く仕事を終わらせよう。一緒に帰れるように。
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