「 」を写そう 使い方は簡単。袋から取り出したら、まずはフィルムをしっかりと巻く。そして、小さなファインダーを覗きながらシャッターを押す。これだけだ。
「へぇ、使ったことなかったけど、スゲー簡単なんだな」
莇は玩具のように軽いそれを、手のひらで転がしてみたり側面を撫でてみたり、珍しそうにもてあそんでいる。
「これ、オレからのクリスマスプレゼントね」
「サンキュー。けど、なんでカメラ?」
重さはわずか九十グラムのインスタントカメラ、正式にはレンズ付きフィルム。スマートフォンが普及するずっと前から販売されている商品だ。九門は数日前に、ひとつ税込一七六〇円のそれを駅の近くの電器屋で二つ購入した。片方は自分の分、もう片方はたった今莇へ渡したところだ。
「年末年始、しばらく会えないでしょ。だからその間にこれでお互いに見せたいものを撮って、年明けに交換して現像する、っていうのはどうかな〜って」
「交換するのか、なんか面白そうじゃん」
カメラを片手に莇が微笑んだ。その笑顔を見ただけで気分が高揚してくる。兄と共に実家に帰るまであと四日もあるが、九門はもう何を撮ろうか考え始めていた。ジリジリジリ、と小さな音がしても気づかないくらいに、莇に見せたい風景をどう切り取るかで頭がいっぱいだった。
「九門」
「へ?」
名前を呼ばれて莇を見ると、彼の構えたカメラがパシャ、と鳴った。
「なるほど、こう使うんだな。オッケー」
「あ! 一回撮ったら削除できないんだぞ!」
「そのくらい知ってる。試し撮りだって」
「二十七枚しかないのに!」
む、と膨れてみせると、莇はまた笑った。
「九門に見せたいものならなんでもいいんだろ。一つ目、お前のアホ面」
「な、なに〜! 年上に向かって!」
頬っぺたをつまんでやったら、莇は尚もけらけら笑いながら「やめろって」と言った。こんなに笑うようになるなんて、出会った頃には想像もつかなかった。
「あと二十六枚か。何撮るかなぁ」
ジリジリジリ、パシャ。
「あ」
「へへ、お返し!」
「くそ、やられた」
気づいたらファインダーを覗いていた。九門からのプレゼントを愛おしそうに見つめる莇の横顔が、確かに今、九門のカメラに記録された。
他でもない莇自身に見てほしいのだ。九門の心を簡単に揺り動かす、美しい横顔を。
冬組のリーダー、月岡紬の誕生日を盛大に祝った次の日の朝、九門は十座と共にMANKAI寮のガレージへ向かった。兄弟ともに荷物は鞄ひとつだけだから、十座のバイクに二人乗りして帰ることにしたのだ。
九門は、厚手のジャンパーのポケットに入れた小さなインスタントカメラを取り出した。
「兄ちゃん、こっち見て!」
「何だ」
ヘルメットを被ろうとしていた十座が振り返って、九門の構えるカメラを見た。
「はい、チーズ!」
ファインダーから覗いて、パシャ。バイクを背景にした十座の姿がフィルムに刻まれた。写真の確認はできないけれど、きっと莇にも魅力が伝わる格好良い画が撮れたはずだ。本当は兄の姿をもっとたくさん撮りたいところだが、それでは簡単に残りの二十六枚を使い切ってしまう。だから、このカメラに収める十座の姿は一枚だけと決めた。
「それ、インスタントカメラってやつか。昔、母さんが使っていたな」
「うん! これで年末年始の間に写真撮って、また寮に戻ったら莇と交換するんだ!」
「そうか、相変わらずお前らは仲が良いな」
「えへへ、そうかな?」
「友達は大事にしろよ」
兄は低く響く声でそう言って、九門の頭に軽く手を置いた。
「もちろん!」
莇へ抱く別の感情については、十座にもまだ打ち明けていない。
兵頭家では、毎年十二月二十九日と三十日の二日間で大掃除をする。それは二人の息子が劇団の寮で生活するようになっても変わらない習慣だ。兄弟が帰るなり、母親は「おかえり」の次に、十座にはエアコンのフィルターの掃除、九門には買い出しを命じた。
九門はリュックを自分の部屋に置いて、そのまま母のメモを片手に近所のドラッグストアへ出かけた。トイレットペーパー、フローリング用ワックス、洗剤の詰め替えをいくつか。重い荷物を運ぶのは寮の買い出しで慣れている。
帰りの道中、土手を通った。麓の広場では子どもたちがキャッチボールやサッカーをして遊んでいる。九門もかつてはここで、兄とよく遊んだものだ。十座が小さな家出をしたときも、この土手まで迎えに来た。
ポケットからインスタントカメラを取り出してダイヤルを巻き、片手で構え、ファインダーを覗いた。土手と、広場と、川と橋、遠くにはビル街。それらが全て収まるように、慎重に画角を決める。パシャ。
なんだか懐かしい気持ちになって、九門は土手を降り、あと二回シャッターを切った。もう一枚くらい撮ろうかな、と切り取る風景を探していると、片手にインスタントカメラを持った九門に気づいた子どもたちが集まってきた。彼らはレンズに向かって元気よくピースサインを向ける。
「もうちょっと寄って寄って! はい、チーズ!」
パシャ。四人の子どもたちの満開の笑顔が、カメラに刻まれた。
翌日の朝、一家総出で家具を廊下に運び出し、フローリングにワックスをかけた。床がピカピカになったことが嬉しくて、九門はリビングの全体をカメラに収めた。午後は両親が購入していた正月飾りを家じゅうに飾っていった。玄関に門松を括り付けながら、莇の実家の正月飾りはきっと豪華なのだろうな、と想いを馳せた。
作業を終えたころ、九門のスマートフォンに通知が入った。莇からだ。開いたが、そこにあったのは「送信を取り消しました」という文字だった。トーク画面のままにしていると、メッセージが出た。
【LIMEで写真送ったらカメラ交換の意味ねーな(笑)】
【そうだね! オレもうっかり送らないように気をつけなくちゃ!】
莇が何の写真を送ろうとしていたのか気になったが、九門はあえて聞かなかった。
三十一日は、一日通しのアルバイトのシフトが入っていた。九門は家族に「行ってきます」を言ってから、まずは自宅前の早朝の風景をカメラに収めた。
駅まで約十五分歩いて、電車でさらに二十分。寮から近い場所を選んだから、実家から仕事場までは少し距離がある。大晦日の車内は空いていて、九門のほかには参考書や単語帳と睨めっこしている学生がちらほらいるのみだった。九門は車窓にレンズをくっつけて、一枚撮った。ぶれてしまったかもしれないが、それもまた「味」だ。
大晦日の朝、莇は何をして過ごしているのだろうか。莇は何枚くらい撮っただろう。九門は不思議と、こうしてつい莇のことを考えてしまう自分が嫌いではない。
九門の送ったスタンプに既読が付いて終わっていたトーク画面を開いて、短いメッセージを一つ送ったところで、電車のドアが開いた。
アルバイトの休憩中、自動販売機の前で志太を見つけたので、不意打ちで写真を撮った。志太は「あ! 何それ!」と大声で言って、ほうじ茶のペットボトルを片手に駆け寄ってきた。
「おもしれ〜、俺にも撮らせて」
九門はここにきて、未だ自分自身の写真を残していないことに気づいた。
「カッコよく撮ってよ!」
「え〜、それは九門次第」
志太はそう言いつつも顔の向きや目線を細かく指定して、自分は地面に膝をついて撮影してくれた。
退勤後にスマートフォンを見ると、朝に送ったメッセージに返事が来ていた。
入浴を済ませ、家族と共に年越し蕎麦を食べながら歌番組を観たあとは、例年ならばそのまま年越しまで年末特番を観るか、早めに寝るかの二択だった。しかし今年は違う。つい数時間前に決まった予定があるのだ。
年頃の男兄弟を抱えた兵頭家には、門限というものは昔から存在しない。最終的に帰ってくればいいのよ、と母親にはよく言われた。その母親はとっくに布団に入り、酒を飲みすぎた父親はソファーに転がっている。唯一起きているのは、台本にマーカーを引きながら難しい顔をしている十座だけだった。
「兄ちゃん、ちょっと出かけてくる」
「どこまでだ」
行き先を告げると、兄は小さく笑った。
九門は昼間に着たジャンパーを羽織り、さらにマフラーを巻いて静かに家を出た。あと三十分で年が明ける。電車に乗ればすぐだが、帰りは流石に歩かなければならない。それでも九門は年明けの瞬間を迎えたい場所があった。
バイクがあればもっと早く行けるのに。九門は寒空の下を駅に向かって歩きながら、来年こそ二輪の免許を取ろうと誓った。
「マジで来た」
「ごめん、眠いよね」
「眠いに決まってるだろ、バカ」
待ち合わせは莇の実家のすぐ近くの公園だ。たった二日会っていないだけなのに、随分久しぶりに顔を見た気がする。駆け寄って抱きしめたい衝動を抑えるのに苦労した。
「明日は何すんの」
「朝から挨拶回り」
ああ、そうか。彼は「そういう家」の息子だ。普段同じ劇団、同じ学校での姿ばかり見ているから、忘れそうになる。一般の家庭の次男坊である九門とは何もかも違うのだ。少しだけ胸が苦しくなった。
「そうだ、撮っていい?」
「暗いけど……あぁ、フラッシュ焚けんのか」
前面にあるスイッチをずらせば、フラッシュ撮影ができる。インスタントカメラといえど侮れない機能性だ。九門がカメラを向けると、莇も同じようにカメラを構えていた。
「ハハ、気が合いすぎ」
莇が笑って腕を下げたところで、九門はシャッターを切った。
「また不意打ちしちゃった」
「はぁ? またかよ、目瞑ったかも。次、俺が撮る」
莇は再び片手でカメラを構えた。ファインダーを覗いて、「暗くて何も見えねー」とつぶやいている。
「見えねーけどとりあえず撮るわ。はい、チーズ」
今、見えないのなら。九門は声には出せない気持ちを心の中で叫んだ。
パシャ。安いカメラの閃光が、九門を貫いた。
「なぁ、あと一分で年越し」
フラッシュを直視したせいでチカチカする目を瞬きで落ち着かせていると、莇が欠伸をしながらそう言った。
「これから帰んの? うちの奴に送らせるか」
「いやいや! 全然歩ける距離だし。それにみんなお酒飲んじゃってるでしょ」
「あー、そうだわ。悪い」
申し訳なさそうに言う莇に笑顔で手を振って、家まで送ってから、九門は来た道を引き返した。年越しの瞬間は、何気ない会話をしているうちにあっさりと過ぎた。手でも繋げばよかったかな、とか、勢いに任せて告白してしまえたなら、とか、後からならいくらでも思い浮かぶが、その瞬間はもう過ぎ去って過去になった。
「九門!」
「へ?」
角を曲がろうとしたところで、後ろから声がした。振り返ると、つい先ほど別れたばかりの莇が、息を切らしている。
「あれ⁉︎ どうしたの!」
「言い忘れてた、あけましておめでとう」
「あ…あけまして、おめでとう!」
「今年も、よろしくな」
「うん! よろしく!」
通話をかけてきたってよかったのに、莇はわざわざ再び家を飛び出してきた。こんな遅い時間に。九門は思わず目の前の身体に飛びついた。
「ありがとう莇、大好き!」
「うわっ、なんだよ、大袈裟だな」
このくらいの表現では、純粋な彼には伝わらない。伝わらないけれど、言葉に出すと一気に心が温かくなる。
「気をつけて帰れよな」
「うん。また寮で」
「九門、ピース」
莇の構えたカメラに向かってピースサインをすると、莇のカメラのフラッシュが光った。九門も莇のピースサインをカメラに収めて、今度こそ本当に帰路に着いた。心臓が高鳴って、身体がぽかぽかしてきて、マフラーを取った。口元が緩んでしまう。深夜だというのに、スキップでもしたい気分だ。
さらに角を曲がって大通りに出ると、聞き慣れた声がした。
「おい、九門」
「兄ちゃん⁉︎」
十座がバイクを路肩に停めて待っていた。
「莇には会えたか」
「うん! 迎えに来てくれたの?」
「ああ。これで帰ったほうが早い」
投げ渡されたヘルメットを被り、後ろに乗り込む。もしかしたら、兄ちゃんには全てお見通しなのかもしれないな、と思いながら。
「あと何枚残っているんだ」
「十五枚!」
「そうか」
「兄ちゃん、あけましておめでとう!」
「ああ、あけましておめでとう」
夜闇の中を風を切ってバイクを走らせながら、兄弟は新年の挨拶を交わした。兄の背中は広くて、温かい。
「あのさ、兄ちゃん!」
「なんだ」
兄ちゃんは、誰かのことを、苦しいくらいに好きになったことはある?
「…今年もよろしく!」
「ああ」
──────────◆◇ つづく