冴が来た(4) スペインに渡った糸師冴は世界を目の当たりにして、分厚い壁にぶつかった。いかに自分のサッカーと視野が狭かったのかを思い知らされた。
目指した世界は広く、冴以上の天才が山ほど存在していた。その領域の一部分にも含まれていなかった自分の存在価値に打ちのめされるしかなかった。
才能の違い、言葉の違い、文化の違い、食生活も含めた違いの生活が精神的負荷に直結する。全てに苛立つことが増えて、マネージャーやチームメイトに当たることが増えた。
追い打ちをかけるように日本の至宝などという言葉で持ち上げようとする日本にも苛立ちが隠せない。期待という名の圧力が冴一人に向けられ、精神の消耗が失望と絶望へと変わっていく。
世界と戦い続けて四年目になって、帰国する目途がついた。
交通機関で生まれ育った土地に足を踏み入れた時、冴、と呼ばれて反応した。
構内で自分を待っていた少女が、世一であると直ぐ気付いた。面影はそのままに、大人に近づいていた。
「ひさしぶり」
声にも落ち着きが宿っていて、『泣き虫世っちゃん』を完全に卒業したという話は本当のようだった。
「潔、か…」
「うん。生で会うのは四年ぶり。でも冴、痩せた?」
嬉しいのと戸惑いとが入れ混じった中途半端な笑みを向ける世一に、なぜか無性にてっぺんのくせ毛を押しつぶすような撫で方をしてやりたくなったのを、消耗しきった精神が歯止めをかけた。
「この前送った動画見てくれた?凛のやつ、プレーの切れがまた一段上がったんだよ。昔と戦法を変えてから見間違えるようになった」
知ってる。どんなに忙しくても、世一が送ってくれた動画を見逃したことは無い。
「凛は日本一になったんだ。昔の冴のように、凛も強くなったんだ。これから凛は強くなる。いつか日本代表選手に選ばれるかもな。冴と一緒に世界一に近づいていくんだ。私も負けてられないって思ったよ」
自分のことのように嬉しく語る世一の横で、冴はどんどん冷めていく。
「この時間ならまだ自主練してると思う。一緒に迎えに行こ」
――――こんな狭めえ国で一番になったところで何だっていうんだ?という声を心に押し留めて、手を引っ張るように誘う世一に対して、薄暗い感情の矛先が向くばかりだった。
世一と共に、かつて自分が在籍していたユースクラブのコートで、たった一人、遅くまで練習する凛は、自分を見るなり世一と同じ反応を示した。
世一と同じ台詞を向けて来た凛に、世一にも聞こえるように、世界の広さを味わったことを告げ―――――世界一のストライカーではなく、世界一のミッドフィルダーを目指すことを告げた。
挫折しかけ、いっそのこと挫折してしまえば良かったが、それでも世界一を捨てることもできず…苦節の末に出た答えだった。
「な、なんで…?」
凛と世一は愕然としていた。そうなると予想はついていた。だから、その続きを告げようとした。ストライカーの夢を凛に託そうとしたところで、凛がかき消すように言葉を重ねる。そんなの兄ちゃんじゃない。プライドをへし折ってまで出した答えを否定する凛の言葉と、昔から変わらない純粋な視線が、冴の決意を一瞬でも揺るがせた。
雪が降っていた。雪の降る夜。冴は凛をへし折った。二度と夢を見ないように。サッカーができないように。凛の心を粉砕した。
凛を雪の中に置いて、背中を向けた。
「冴っ」
世一が、この兄弟の場で、傍観者でいるしかなかった世一が、冴を引き留める。
「なんで、なんでそんな……なんで凛に、あんなことを…っ」
信じられない。見開いた目を震わす世一から視線を逸らす。世一が最初からいなかったように、ただの障害物のように、通り過ぎた。
実家に帰るつもりだったが取りやめて、今からでもホテルを取るようにマネージャーに連絡しようとしたところ、キャリーバッグを引いていた手が強く引かれた。追いかけて来た世一が冴の手を掴んでいた。
「待てって冴まだ話は終わってないだろ」
絶対に離す気配のない世一の手を、冴は容赦なく振り払い、鋭い眼光を向けた。
「終わってんだよ何もかも。俺に構うんじゃねえ」
「冴…」
振り払われると思っていなかった世一の顔が、凛と同じように凍り付いていく。
「何があったんだよ…向こうで…あんなにストライカーにこだわっていたのに、何で書き換えたっていうんだよ…?」
「あいつと同じことを言うんじゃねえよ」
「何があったのか言ってくれてもいいだろじゃないと、凛が報われないだろ凛が今までどんな想いで一人で戦ってきたのか知ってるだろ」
向き合おうとするそのひたむきさが、真っすぐで純粋な感情が、苦節して苦難して断腸の思いをしてまで押し込めた冴の感情の蓋を開けようと触れてきて、逆鱗に触れた。
「お前だってこの四年で何してたんだ、潔?お前、男子に混ざってまでサッカーやってんのに県止まりってどういうことだ?日本一にすらなれなくて何が世界一のストライカーだ。笑わせんじゃねえよ、このヘタクソ」
世一の弱点を知っていた。どんな台詞を用いれば世一を追い詰めるかを、熟知していた。世一の顔色が雪のように真っ白になっていく。最後にとどめを刺す。
「お前らの夢を俺に押し付けてくんな。お前も凛も、消えろ」
凛と同じように突き放して、そのまま去ろうとする。世一が泣いたって、もう振り向かない。
だけど、世一は……見ない内に強くなっていた。
「消えろなんて言うなよ」
夜闇を引き裂くような悲鳴に、冴は思わず振り返る。振り返って後悔した。世一の目から零れる涙を見てしまった。
「そんなこと、言うなよ…っ」
震えて、堪えるように、声を振り絞って、熱い涙を溢すその姿に、染みついた反応に任せかけた。伸ばしかけた手をぐっと握りしめて、鋭く睨む。
「そもそもお前が俺と何の関係がある?元を正せばただの赤の他人だ。ただ偶然同じ地区に住んでただけの、偶然が重なっただけの関係だろうが。赤の他人が俺の問題に首を突っ込むんじゃねえ。迷惑だ。消えろ」
すらすらと出てくる言葉を声に乗せるのはいとも簡単なことで、ずっと一緒だった大切な幼馴染を傷付けることなんてこんなにも容易い。
「いやだよ……消えるなんて、やだ。絶対やだ。冴の人生から消えたくない」
だって。声を震わせながら、世一は言葉を紡ぐ。
「冴のことが大好きなんだよ……」
雪により消えかけた言葉は、冴の耳に届く。一瞬だけ心の波が凪いだ。しかしそれを、冴のプライドが許さなかった。湧き上がる衝動が感情を支配した。
「俺を、んなぬるい感情で縛るな」
感情に支配されることは、プロのサッカー選手としてあるまじき行為だ。冴は熟知している。世界に揉まれていた間も押し殺してきた。この時になって。世一の目の前で。爆発した。
それも一瞬のことで、直ぐに感情を理性が制圧した。が、失態を犯したという事実は覆せない。
冴は冷めていた。雪に凍てつく氷上のように、心は冷めきっていた。己の夢のためなら、理想なら、たとえ世一であったとしても、凛であったとしても、切って捨てれる。
これで世一も永遠に、冴の前から、いなくなる―――――。
「――――俺の感情を、お前が勝手に決めつけるな」
世一の眼光が、冴を射抜く。獣の威嚇のように奥歯を噛みしめて、目を鋭く細めて冴を睨んでいた。
どんなに凛に苛められていたとしても決して怒ることのなかった世一が、初めて冴に対して、怒っていた。
目の奥に激しい炎を湛えて、世一は冴に背中を向けた。冴が捨てた凛の元へ行こうとしている。
冴は世界に取り残された錯覚に陥った。理性で制御していた手が無意識に世一に伸びかけた。去っていく世一から目を離さないまま、震える口を小さく開いて、細い息を吐いた。背中が寒い。雪のせいではない。何度も背負ってやった世一が冴を置いて行ってしまったから……冴が世一を置き去りにしたのではなく、世一が冴を置き去りにしたのだ。
マネージャーに連絡して、急遽誂えたホテルに閉じこもった。何度もスマホを開いては、世一との履歴を確認していた。最後の履歴からさかのぼれば、世一から一方的に送られてきた動画や写真の数々……凛がユースの試合で優勝した時のツーショット写真、東京まで遊びに行った時の写真、スペインリーグの中継を凛と一緒に視聴していた写真がたくさん並んでいる。
誕生日に送られた動画をタップする。ドアップに写った世一が、ソファに座る凛の隣に素早く座って画面越しに手を降っている。
冴、誕生日おめでとう~!冴の活躍ずっと見てるからな!凛と一緒に冴にプレゼントを用意したんだ!じゃん!と画面下から凛と一緒に手作りチーズケーキを掲げた。日持ちのするそれはクール便で誕生日当日にスペインの家に配達された。一人用にしては大きすぎて、デカすぎと文句を返したのが懐かしい。世一の隣で凛が、兄ちゃん誕生日おめでとうとはにかんでいる。世一は太陽みたいに笑っている。動画はそこで終了した。
履歴を辿ったところで、失ったものは取り戻せない。重たい頭を片手で支えるように項垂れたとしても。足元が地についていなくても。冴が二人を切って捨てたことには変わらない。自分のエゴの為に捨てた、それが事実だ。これから先、二人との写真も思い出も更新されることは無い。
手元のスマホが振動した。画面の通知を見た瞬間、無意識に息を呑んだ。
潔世一。本物か確かめるためにアプリを開く。嘘でも夢でもなく、間違いなく世一からだった。
ごめん。一行目から始まった言葉はそれだった。
冴が悩んで出した答えを否定してごめん。驚いたけど、冴が変わってなくて安心した。凛には私から言っておくよ。お互い夢に向かってがんばろうな。けど、世界一になるのは私だからな。
――――思えば世一は小さいころからこうだった。
泣き虫なくせして。虫にも猫にも犬にも泣くくせして。乗り物にもブランコにも泣くくせして。人の感情の機微に敏感だった。凛にボールを取られた時悔しくて我慢してたのを悟ったのも世一だった。思った通りのゴールが決められなくて人知れず悔しさを噛みしめていたのを気付いたのも世一。
さえちゃんすごーいって、世一がふにゃふにゃと笑うだけで、悔しい気持ちが全部吹き飛んだ。
メッセージを読んでいる間、冴の脳裏には、世一の笑顔が浮かんでいた。
後日、早めにオフを終えてスペインに戻ろうとしていたところ、空港に世一が現れた。
「冴」
ゲートをくぐる直前に耳朶を通った声に、冴は弾かれるように振り返る。見送りに来ていた両親の後方に、世一が拳を掲げて立っていた。
「絶対に追いついて見せるからな」
――――世一の目は、世界を知る前の自分と同じ目をしている。
凛と一緒にサッカーをしていたあの頃の自分と同じ。何も背負っていなかった頃の自分を思い出す。いつの間にか力んでいた肩がすとんと降りて、横に引き締めていた口元が自然と緩む。
馬鹿が。小さく呟いてまた世界へ戻った。