魔王の物語•罰 霧は真実を隠すという。
知られてはならない事実をも隠してしまう。
どちらにしろ霧は隠すにはうってつけの代物である。
「…なあ、冴。俺に決定権が無いのはいいとしてさ、本当にここにあると思う?冴の個人的な意見聞かせてくれない?」
「あ?んなもん知らねえ。通報があったから出向いてるだけだろうが」
「いやだって、冴のような人が出向くような案件でもないよな?」
追随者の声音が妙に上擦っているのを、冴は聞き逃さない。以前からひっそりと抱いていた疑問を口に出した。
「お前、悪霊の類が怖いのか?」
「こ、怖く、ないよ!怖いわけないじゃん!全然平気!」
「キョどってんじゃねえか」
どこからどう見ても虚勢なのは一目瞭然である。
霧深い森の中を進む足を止めない冴の一歩後ろを付いて行く潔が、森の空気を感じてからずっと真っ青な顔で挙動不審なのも、冴は当の昔に気付いていた。
以前も悪霊騒ぎで地元住民を困らせているという、元魔女教会に潜入した時だってこんな調子で、ちょっとした音や気配で悲鳴を上げてびびり倒していたのを、冴はしっかりと覚えている。
「潔。男ならいい加減に認めろ」
「な、なにを?」
「あ?白々しい態度取ってんじゃねえよ」
冴が肩越しに睨みを利かせると、潔は気まずそうに目を逸らした。
「怖い訳じゃねえんだけど…昔からこういう類のが苦手なんだよね、俺…」
黙っててごめん。と謝るが、冴にとっては今更すぎるくらいだ。
「てか。魔族も悪霊も似たようなもんだろ。何をびびる必要があんだ?」
「いやそうなんだけど!そうなんだけど…いきなりびびらせにくるのが苦手で、心臓が止まりかける」
「ふざけんな今すぐにテメエの心臓止めるぞ?」
「冴がキレると思ったから、言いたくなかったんだよ~!」
冴は本気だ。本気でキレている。潔は涙目になって、冴のご機嫌取りに必死になる。謝り倒していたが、霧の奥から聞こえた、ぱきっ、て音に肩を跳ねらせ、咄嗟に冴の肩に縋った。
「ひっ」
「あ?」
「冴、なにか、聞こえた…っ?」
「何か聞こえたな」
冴の反応は潔とは対照的だった。潔は自分が冴に触れていることを自覚すると、はっと慌てて手を離した。
「ご、ごめん、また触った。ごめん」
「あ?」
冴は潔の顔と自分の肩を交互に見やると、そうか、と受け流して歩みを進めた。てっきり殴り飛ばされると覚悟していた潔は距離を取っていたが、冴の反応に目をぱちくりさせた。
「…冴…冴?ちょっと待ってくれよ!」
駆け足で追いついて、さりげなく冴の隣を歩いた。ちらりと冴の顔を盗み見ていると、冴の眉間に皺が寄った。
「見過ぎ」
「痛あっ」
後頭部に星が散った。冴が容赦なく叩いたからだ。痛たた。殴られた箇所をさすっていたが、潔はむくむくと湧き上がる小さな喜びに浸る。
「…お前、忙しい奴だよな。ころころ表情変わるし」
前を向きながら冴が呟く。
「え、そう?俺、そんなに解りやすい?」
「赤ん坊みてえ」
「誰が赤ん坊だよ!」
ちょっと会話弾んだかと思っていたらこれだよ。潔の機嫌は降下した。
「お前まじでガキだよな。乳臭えし」
こ、この野郎…。やっと心開いたかと期待させといて…っ。やっぱり冴は冴!口悪い!すぐ悪口言うな!不平不満はたまるけど、口に出してしまったら、この悪霊が出かねない森の中に本気で置き去りにされると解っているので、喉奥に引っ込んだ。だけれども、もやもやが胸の中に残るので、意固地になって歩速度を上げて冴を追い抜いた。
「オイ」
「何だよ!別に怖くねえし!」
「そうじゃねえ。止まらねえと危ないぞ」
へ?冴に言われて両足を揃えて停止した。その瞬間、潔の視界に、逆さづりのしゃれこうべが飛び込んだ。
潔の絶叫が霧の中を響き渡った。驚いた鳥たちが驚いて飛び立った。
「うるせえ」
腰を抜かして震える潔に対して、冴の態度はあくまで辛辣だ。がたがたがたがたと本気で震えているのを見て、呆れも加わってため息を漏らした。
「オイ。起きろ。まだ仕事は終わってねえ」
潔の背中に靴跡を残すように蹴りを入れると、潔はあっさりと倒れた。冴は助ける気は無い。
「いい加減にしねえとマジで置いて行くからな」
「…わかったよ。待てって、冴!」
潔も切り替えて、冴に付いて行く。
ん?潔の感覚に小さな気配が引っ掛かる。潔でも逃していたかもしれない程の微細な気配。視界を回して、霧の向こうを見つめる。木々に隠れてこちらの様子を窺う小さな気配が見えた。人の子どもぐらいの小さいものだ。
「冴、何かいた!」
「何が?」
「わかんない。確かめてみよう」
些細な反応も見逃せない。ここが報告通りの場所ならば、小さな見逃しが命取りになることを、潔は経験で熟知している。それにこの霧のせいで、日差しが悪くて夜のような不気味さがある。こういう日陰の場所は危険だ。いざとなったら、自分が冴の盾になるつもりでいる。
冴から離れず、感知した小さな気配を追って、霧をかき分けるように進んでいく。霧の向こうから大きな影が見えた。潔が止まると冴も止まった。
感覚を研ぎ澄まして、それの正体を見通す。向こうから潔と冴に近づいてきた。
大きな影は――――老人だった。
おや。その恰好…あなた方が中央教会から来たという、退魔師様でしょうか?老人からはあまり好意的でない雰囲気が伺えた。老人は猟銃を持っていた。装備からして、猟師であると判断できる。潔は警戒心を解いた。
「えと…俺達は中央教会から派遣された者です。近隣住民から通報がありまして、調査に来ました」
老人は、事情は知っております。通知を渡されましたので。こんな深い場所までご足労でしたでしょう。家までご案内します。老人は猟銃を肩に引っかけ直して、案内を始める。
「あの…ここに、小さな子供が住んでるのでしょうか?」
老人の背中に潔が問いかける。子供…ああ、後でお会いできるでしょう。老人はそれしか答えない。人との交流が疎ましい性格なのだろうか、初対面から無愛想だ。そもそもこんな人里離れた霧の多い場所で、何をしていたのだろうか?狩りにしては危なすぎるのではないだろうか?疑問がつきない。
霧が濃すぎて、右を歩いているのか、左を歩いているのかもわからない。だけど老人の足に迷いは無い。老人は自分が住んでいるという猟小屋に案内した。
小さな小屋で、一人で住むには充分な大きさだ。生活力が低いのか、狩猟で多忙で疎かになっているのか、埃が溜まっていて小さな蜘蛛の巣が隅にある。辺鄙な小屋の奥にひっそりと感じる小さな気配。先程感知したものと同じものだ。
どうぞ。老人はテーブルに冴と潔を案内し、暖炉で温めた珈琲を古びたカップに入れてそれぞれに置いた。潔は、ありがとうございます。と一言置くが、冴は無言で口にもしない。
「ん…これ、西方のマツカタ町の豆ですね。あそこは町おこしの一環で、新種の豆を開発したと聞いてます」
ずばりと言い当てた潔に、老人は不意を突かれたように目を丸くする。若い頃に西方に旅したことがありまして、種を持ち帰って育てております。
「俺もちょっと前に冴と一緒に行きましてね。気に入ってたから生産中止になっていたって知った時は残念で…」
「俺達は世間話に来たんじゃねえ。ジジイ、ここに魔族が出るってのは本当か?」
こら、言い方。小さい声で諭すも、冴はどうでもいいと流して、老人を睨む。
老人が口を開く前に、小さな物音が聞こえた。視線を逸らす。半開きの扉の隙間から覗き込む視線がある。潔と目が合うと、それは慌てたように扉を閉めた。
「あの…今の、女の子ですよね?」
老人は一瞬間を置いた。孫娘です。この小屋で二人で暮らしています。老人の言葉に相槌を打った。
「すみません。実は、中央から派遣されたのは正解なんですけど、退魔師なのはこっちで、俺は助手です」
おや、そうなのですか。てっきり…。老人は、冴と同じ黒い修道服を着こむ潔の恰好をつま先まで眺めた。やはり、口の悪さが目立つ冴よりも、礼儀正しい潔の方がそれらしく見えるのだろう。厳密にいえば、潔の立場は微妙なものだ。だから本部に行く時も常に冴と一緒に行動しなければならないので、冴には不便な思いをさせてるとは思っている。
「この場所に魔族が出るというのは、本当でしょうか?」
老人はまた間を置いた。そうです。と肯定してから、ゆっくりと語り出した。
この小屋から近いところに、小さく狭い集落があった。狩猟を生計にして伝統を守り続けた古い集落だ。その集落に、魔術師が現れた。魔術師は消滅寸前の集落を救おうと魔術を見せたが、住民は魔術師を受け入れなかった。怒った魔術師は集落に魔族を放った。魔族は住民を喰い散らかし、今も潜んでいる。老人は、自分は生き残りだと答える。
「その魔族をはっきり見ましたか?」
老人は首を縦に振った。魔族の名にふさわしく恐ろしい姿をし、霧に潜み、獲物を喰らう狂暴な獣のようだった。思い出すのもおそろしい。あれに多くの人間が喰われた。
集落の人間は五十人ぐらいだったというから、相当な数を喰っている。魔族にとって人間は高い価値のある豊富な栄養だ。
「これ以上被害が出ないうちに、俺達で対処します」
「俺が討つ」
聞くだけ聞くと、カップの珈琲を残したまま、冴は出ていった。潔はぎょっとして一気に飲み干して追いかける。
「冴、ちょっと待ってくれ!」
冴の進行を妨げるように立ちふさがって、目で訴える。
「冴、何回も言ってるけど、倒すかどうかは事情と状況を確認してから…」
「現に被害が出てんだぞ。クロだろ」
「だけど…」
「知らね。魔族は例外なく排除する」
潔を躱して冴は進んでいく。冴は自己中心で、決めたことは曲げない。魔族が絡んでいるのなら猶更だ。謝りもしないし、反省もしない。冴が謝ったところを潔は一度も見たことがないのだ。本当に自己中心なんだからこいつは。我慢だ俺、我慢。言いたくなる小言を呑み込んで、冴の後を潔は付いて行った。
老人が言っていた集落というのは、特に濃厚な霧に包まれていた。踏み入った瞬間、血の匂いと腐臭が鼻をついた。老人が言うには、魔族がまだうろついているので、ろくに墓も作ることができず、当時のまま放置しているらしい。確かにその通りで、地面には黒く変色した血の跡がところどころに残っており、欠けた日常品や遊具、半壊した家具が転がっている。それらは一家のものではないのは明白で、模様も種類も統一されていない。どんな惨劇があったのか、想像が出来る。
「一旦別れて調査するぞ」
「え?いいの?」
思ってもみていなかった冴の提案に驚いていると、冴が眉間を寄せて答えた。
「あ?こんな広範囲調べんだぞ?二手に別れた方が効率的なの当たり前だろタコ」
「で、でも、それって、俺が冴から離れることになるけど」
「さっさと行け。たらたらしてると殺すぞ」
冴はそう言って、独り行ってしまった。潔はしばし思考に入る。なんか、冴、変わっ…た?冴とは二年の付き合いになるけれど、組み始めた頃は態度がかなり険悪で露骨だった。冴から一方的に交わされた約束だって酷かった。
一つ、常に冴(俺)の見える範囲内にいろ。
一つ、冴(俺)に一定以上近寄るんじゃねえ。
一つ、冴(俺)に直接接触してくんじゃねえ。
その他に幾つも約束事を一方的に結ばれたことか。なんて理不尽なんだと憤慨したこともあるけれど、言い返すことは許されない立場であるので従うしかなく。それから繰り出される心抉る暴言と、度々執行される一方的な暴力に耐え続けてきた。だから今、驚きを隠せないでいる。
「さっさと動けっつってんだろ雑魚」
「あ、うん、ごめん」
潔は駆け足で近場の一件目から調べ始めた。おそらくここには幼い子供が住んでいたのだろう。子供用の食器が転がっている。生まれたばかりで幸せ絶好調だった時代を裏切る黒い血が天井まで飛び散っていた。冥福を祈ってから、中へ入り、瘴気の残滓を探す。
瘴気、とは、魔族が吐く息のことだ。この瘴気の濃度で強さが決まる。老人の話が正しければ、残滓がある筈。血痕に近づくと、特有の空気が匂った。瘴気の残滓である。
次の家も周り、調べ終わると次の家に。それを繰り返し、六軒目に入る。血の匂いは薄くなっているが、残滓が濃い。何度もここに出入りしたのか。見回していると、既視感を抱いた。念入りに調べようと、戸棚の中まで調べて回ることにした。台所から居間を回った後、書簡らしき部屋に入り込んだ。ここはまた、他の部屋とは雰囲気が違う。本棚に収納されている本を開いては閉じるを繰り返す。あまり待たせると冴が機嫌を損ねるので、流し読みする程度であるが。結局、何の成果は無かった。最後の一冊を戻して踵を返した時、嫌な予感が背中を撫でた。背中から影が入って、振り返った時には遅く。脆くなっていた本棚が潔に向かって倒れかけようとしていたのだ。
うわああ反射的に逃げようとするも、腰から下が潰れた。直後、床に頭をしたたかに打ち付けた。
薄くなった思考の向こうで、誰かが潔に向かって駆けてくる。その人物に向かって、潔は何度も叫んだ。危ない。こっちに来るな。制するように手を伸ばす。手が当たればその人物を押し倒して守ろうとしていた。無尽蔵に飛び通う黒い凶刃から。
潔の手が届く前に倒れた。腹部を刺されたのだ。間に合わなかった。
綺麗な目をしていた。殺意を込めた目で潔を見つめたまま倒れていく。
倒れた向こうに、冴がいた。驚愕の表情で、駆けてくる。
綺麗と思っていた目は、冴と瓜二つだと思い出した。
一時的に薄れた意識を起こしたのは力強い手であった。ずるりと引っ張られたことで、潔はぱちりと目を開けた。開いた視界に飛び込んだのは、綺麗だと思った目。仏頂面の冴だった。
「何してんだヘボ」
いきなりの罵詈雑言であるが、潔はしばし思考を停止させた。
「さ、え…?」
「それ以外に見えるんだったらいっぺん死んでこい」
容赦のない罵詈雑言は間違いなく冴だ。
て、あれ?潔は気付いた。上半身をむくりと起き上がらせて、状況を確認。潔を潰していた本棚は足元に倒れている。確かに潔は潰されていた。それが外されている、ということは。それは…。
「冴…俺の事、助けてくれたの?」
「気持ち悪りいこと言うんじゃねえヘボ」
心抉ってくる罵詈雑言は、今なら全く平気だ。むしろ感動すらも覚える。見下ろしてくる涼やかで冷淡な顔に向かって、潔は飛びついた。
「冴」
次の瞬間、投げ飛ばされた。背中から居間に通じる扉に直撃し、扉と一緒に地面に倒れた。
「さ、冴…っ。俺に心開いてくれたんじゃあ…?」
「あ?テメエ脳みそに蛆が沸いてんのか?次は確実に殺す」
確実に殺すと言われた。冴の本気度が現れている。てか怖。顔が真顔になっているあたり本気で怒っている。流石に調子に乗りすぎたと反省した。冴と組んでから二年、冴はやっぱり謎である。
「ん?オイ、何だあれは?」
冴が書簡の奥を見て呟いた。潔も身体を起こして同じ方向を見やる。本棚の裏には、いわゆる隠し扉が存在していた。冴の一言で入ることにした。扉を開くと、地下に通じる石畳の階段があった。松明がかけられてあったので、油を浸して火をつけて灯りにした。灯りを持って階段を下りていく。
最下層には扉が一つ。冴を先頭に扉を開けた。暗闇に慣れた目で、暗闇に包まれた向こう側を見た。
「…間違いない。ここで召喚の儀が執り行われたんだ」
「みたいだな」
潔の言葉に、冴は同意する。
濃度の濃い瘴気。床に描かれた召喚陣。壁に掛けられた山羊の頭部の骨。その手前には宝石が積まれた祭壇がある。埃臭い空気に紛れていたのは麝香と獣の血臭。部屋の隅には骨が散乱していた。さらに調べると、明らかに黒魔術系統の書簡が山二つ分ぐらい積み重ねられていた。
「冴」
「調べるぞ」
儀式の間を徹底的に調べる。瘴気の濃度が高いと人体に影響が出るのだが、冴は涼しい顔をして、書簡を一冊ずつ吟味している。もし潔が心配しようものなら蹴りが飛びかねないので、胸中にだけ止めておく。
「どう?」
「…俺には解らん」
冴がぽいっと投げ捨てたのを拾って、一頁ずつ流し読みしていく。潔と冴が求めるようなことは書かれていなかったのを知ると、元の場所に代わりに戻した。
「ここには無いみたい…召喚陣も写し終えたし、上に戻る?」
「ああ」
冴と潔は地上に戻った。
「収穫はなかったな」
「残念だけど…」
潔はちらりと冴の顔を一瞥する。冴が何を考えているのか、推し量る。だが、潔の思考を邪魔するように、冴の容赦のない叩きが潔の後頭部に炸裂した。
「じろじろ見てんじゃねえ」
「う、ごめん…」
それ以外に言葉が無いので、叩かれた箇所を擦りながら、そう答える。
冴は何を考えたのか、転がっていた椅子を動かして、集落の真ん中に陣取った。
「…何してんの?」
「ここで夜を待つ」
「ここで?寒くない?さっきの人のところに戻って待った方がよくない?」
「要らねえ」
ばっさりと潔の進言を一刀両断して、梃でも動かない様子だ。やっぱりよくわかんねえなあ、この天才。何度目かになる嘆息を呑み込んで、潔も椅子を選んで冴の隣に陣取った。潔が選んだのは低椅子だ。足を弄ぶしかなく少し窮屈だが、夕暮れの時間帯であるので、夜が来るにはそう長くないだろう。
お互いに何も話さず、ひたすら霧の中を待っていた。
「あ」
潔は声を漏らした。
「あ?」
「あの子、近くにいる」
潔の感覚に小さな気配が引っ掛かった。感じる視線を探す。廃墟の影に隠れて覗き見る小さな影を見つけた。潔と目が合うと、またもや脱兎のごとく逃げ出した。
潔は直ぐに追いかけようとしなかった。遠のく気配を見送った後、隣の冴に振り返る。常に見える範囲でしか行動が許されていないけど、今なら許してもらえるんじゃないかと、予感があった。
「冴、俺、ちょっと離れてもいい?」
「…勝手にしろ」
潔の予感は当たった。冴から離れて、逃げていく小さな気配を歩いて追った。
霧の中を、潔は突き進む。四方すらも覆い隠す程の濃厚な霧の中に、希薄な瘴気が紛れていた。この霧は、人為的に派生したものではないことは、既に把握済みだ。地元住民が証言した。
かつて、この森の奥深くには、伝統ある共同体が存在していた。古い共同体が何百年も消滅することなく維持されていたのは、森の豊かな資源と恵みによるものだった。それをあの霧が突然森を覆った。日光が遮られた為に森は枯れ、森と共存していた獣は絶滅の一途を辿った。何者かが森の生態系を狂わせたのだ。共同体の使者もぱたりと来なくなり、若い衆が調査に向かったが一人も帰ってこない。自治警邏隊が向かっても、軍警が向かっても、結果は同じだった。やがて森は入らずの森となったのだ。
森の資源が途絶えれば、近隣の集落も資源不足に陥る。それもあって教会に依頼が入り、冴が強引にもぎ取ったのであった。そういう経緯だ。
霧の向こうに小さな気配が感じ取れる。動く様子が感じられないので、潔はゆっくりと歩み寄る。近づけばそれの姿が露わになる。赤い頭巾を頭から深く被った、小さな女の子の姿をしていた。
潔を一瞥しない少女の前に、潔は立ち回る。
「隣、座っていい?」
膝を折って視線を低くする。少女の目は潔に釘付けになっている。逃げる気配を感じられない。潔は堂々と隣に膝を抱えて座り込んだ。
太陽は傾いた。夜がやってくる。
霧の中では完全な闇夜だ。霧が月光を遮っているせいだ。闇は魔にとっては都合のいい世界だ。地獄には太陽も月も無いと、冴は聞いていた。
絶対的に不利な状況でも冴が揺らがないのは、絶対的なる自信と実力があるからだ。
「来たか」
霧に潜み、獲物の隙を伺う食人の人外の気配を、冴は当に看破している。腰を上げて、裾についた埃を叩いた後、鋭利な眼光を向ける。その眼光と目が合った。霧に隠れていた魔は恐怖を感じた。
退魔師。天から魔を祓う権能を与えられた人間達だ。気付かれた。この人間は何だ?
いや問題ない。天の権能があったとしても人間には変わらない。人間なら何人も喰ってきた。力も増している。今なら倒せる。
霧に紛れていた体躯を動かした。八本もある長い手足を動かして、威嚇の為に全歯を震わせる。かたかた。かたかた。かたかた。不気味な音に人間達は恐怖していた。この音に人間は怯んで隙を見せる。ずっとそうして狩ってきた。
霧の向こうで立っている人間に威嚇する。かたかた。かたかた。威嚇する。かたかた。かた。
「がたがたうるせえんだよ。雑魚」
闇夜に光が生まれた。太陽にも似た神々しい光だ。光は冴を照らして、魔を照らす。光は無数で小さく、冴の周りを漂っている。
「威嚇のつもりか?それで今まで何十人も喰ってきたんだろうが…やり方が雑魚なんだよ。一緒にするんじゃねえ。テメエは殺す」
冴の目が冷酷に細まる。
魔は冴に向かって咆哮を上げた。それは戦いの狼煙だ。
「ここで何してるの?」
潔は少女に問うた。なにも。少女は答える。無視されないで良かったと安堵すると、少女の顔が潔に向く。
少女はじいっと潔を凝視している。少女は潔に関心があるようだった。
どうしてあのおにいちゃんといっしょにいるの?少女は純粋な子供らしく問いを重ねる。
「それって、冴のこと?」
うん、と少女は首を縦に振った。どうして冴と行動しているのか。幼い少女が理解するには重すぎる経緯だ。できるだけ簡潔な言葉を選んで答える。
「俺が昔、冴から大切な人を奪っちゃったからだよ」
少女が目を瞬かせて、だれ?と問うたので、潔は答える。
「冴の弟だよ。仲の良い兄弟だったんだけど、俺が引き離しちゃったんだ。俺は冴に許されたくて、だから一緒に探しているんだよ。冴の弟を助ける方法をね」
ゆるされる、の意味は少女には難解の様子だった。潔はかみ砕いて意味を教える。
「許すっていうのは、ごめんなさいに、いいよって答えることだよ」
少女は目を見張り、俯いた。ごめんなさいいったら、いいよっていってくれる?小さな声を聞き漏らさなかった。
声が震えている。潔は安心させるように、少女の両肩を抱いて、向かい合わせた。
深く被っていた赤い頭巾を、優しい手つきで取り去った。
柔らかい金髪の隙間、両耳の上に、蝸牛の形をした角が生えていた。普通の人間なら生えていない。その角は、少女が魔族であることを証明していた。
潔は最初から気付いていた。
「…呼び出されたのは、君と誰?」
少女は嗚咽を上げ、涙流しながら、答えた。ママ。
「君は元人間だったんだね?君のお母さんもそうだった?」
わからない。でもこうなってた。少女は感極まりながら懸命に答える。
「そっか。ありがとう」
潔は自分の指を口に含んだ。歯を突き立て、皮膚を千切り破る。ぷつりと血がこぼれた。
「これを飲んで。そしたら君は助かる」
差し出された血に少女は一瞬躊躇した。潔が安心するように笑いかけると、おそるおそる引き寄せて、ぱくりと口に含んだ。
少女の記憶が、潔の中に流れた。霧の中に隠された真実を。
「さあ、行こうか」
潔は少女の手を取って立たせた。どこに?少女は問う。
「君のお母さんのところにだよ」
閃光が走り、魔族の身体を穿った。直接叩き込まれた破魔の力が血肉を蝕んで灼いていく。受けた魔族は断絶魔を上げた。閃光がまた奔り、怒涛に攻め込む。冴に漂う光が弾丸のように飛んで直接穿つ。一つ一つが重たい。幾つも食らっていると、身体が崩壊する。
霧に隠れて一旦退く。距離を取って、隙を狙う。
「甘めえんだよ」
冴の視界が動く。振り向いた先に閃光が走って、霧を薙ぎ払って、魔の全身を打った。
冴は霧で隠れていたそれの正体を見据える。枯れ枝のような長い手足は八本あって蜘蛛のように長い。蚊のような胴体と、人間に近い頭部で、黒い髪だけ柳の枝のように長い。歪な形をした人外だ。
「気持ち悪い形態しやがって。もっとましな形をしろ」
理不尽な罵倒をしながら、攻撃の手を止めない。足を砕き、胴体を抉る。断絶魔の絶叫を上げても攻撃の手を止めなかった。魔が完全に崩壊するまで、冴は止めない。
「冴。そこまでだ」
潔の声が冴の手を止めた。巨体が傾いて、地面に倒れた。冴は振り返る。霧をかき分けながら近づいてくる潔の方向へと。潔は少女を連れて戻ってきていた。少女の頭に生えている角を見て、冴は攻撃を開始しようとした。
「待ってくれ。頼む、冴。事情があるんだ」
「あ?」
冴の眉間に剣呑な皺が刻まれた。少女は冴の向こうで倒れる魔を目にして、青ざめた。ママ!冴の横を通り過ぎて、倒れるそれに駆け寄った。冴は冷ややかに潔を睨んだ。
「で?事情が何だって?」
冴の低い声音と眼光が潔を射抜く。潔は真っすぐ冴を見返した。
「その親子は魔王の眷属だ」
元は人間であったが、死後に揃って地獄に堕ちた。血のつながりはなく、ただ偶然、地獄で出会い、女は少女を我が子と重ねて守っていた。怯えながら彷徨っていたところを魔王によって眷属にされたのだ。そして地下にあった召喚の儀によって無理やり現世に呼び寄せられた。二人一緒に。
「魔王の眷属である以上、その責任は」
「だから何だ?まさかそんな理由で俺を止めたのか?クソヘボ野郎」
冷ややかな殺気を向ける冴に、潔は静かに答える。
「そうだ」
「事情なんて知ったこっちゃねえんだよヘボ。言ったよな?俺の邪魔をするのなら、殺すぞ」
眼光が煌めいて潔を射抜く。冴は本気だと、潔は感じ取る。だが、ここで引くわけにはいかない理由があった。
「…この二人を召喚した魔術師はまだここにいる」
「…それで?」
「白黒はその魔術師をあぶりだしてから決めよう、冴」
冴は沈黙を返す。真っすぐ見つめ返す潔を殺気を込めた眼光で睨む。硬直が続いた後、冴は光を消した。
「…で、目星はついてるんだよな?」
解り切った口調で問う冴に、潔は確信を持って頷いた。
里から離れた狩猟小屋の戸を、潔はゆっくりと押して開いた。
中には老人が一人。老人は背中を向けて、椅子に腰かけている。
あれを殺したのか?老人は潔を見ずに問うた。
「貴方があの親子を呼び出した魔術師か?」
老人は間を置いた。魔族は繁殖しない。生殖機能もない。母娘などとはあり得ない。おそらくあの大きなのは、小さいのを餌として手元に置いていたのだろう。
「何故、あの二人が母娘だと知っているんだ?」
老人はやっと潔を振り返った。老人の目はぎらぎらと輝いていた。
あいつらは失敗だった。私が師から教わったものはでたらめだった。人生の半分を捧げたというのに、俺が受け取ったものは全部まやかしだった。俺は時間を無駄にした。
人には誰しも才能がある。男が持っていた才能は魔術だった。地獄の眷属を見ることができる男を、里の者は冷遇した。親は厳しく躾ければ無くなるだろうと高をくくっていた。里は男を受けれいなかった。だから飛び出した。自分のあるべき場所は魔術師の世界であると信じて、親と故郷を捨てた。運よく名高い魔術師に気に入られ、長いこと師事を受けた。甕に水を移すがごとくに全てを教授し、天才と認められた。男は里に戻り、自分を否定した者達を認めさせるために、力を示し、奇跡を何度も起こしてみせた。それでも里は男を認めなかった。旅に出ては里に戻って力を示し続けても、頑として受け入れない。頭が狂ったのだと後ろ指を指して嘲笑してきた。両親は子を呪いながら死んで、一人になっても、里から離れなかった。この、恐ろしく閉鎖的な里で暮らす時代遅れの田舎者達を認めなければ、男は前に進めなかった。
何年も、何十年も、男は時を費やした。男は老人になっていた。父親から学んだ狩猟で細々と暮らしながら、魔術の研究を続けたのだ。
潔は淡々と男の話に耳を傾けている。冴が退屈そうに入って来て、壁に背を預けてよりかかった。例の親子は小屋の外で身を寄せ合っている。老人の声に身を竦ませて震えていた。
俺の研究は全て無意味だった。男は空虚に呟いた。間を置いて、薄っすらと笑った。
六百六十六日前。俺があの“お方”を知ったのは、それぐらい前のことだ。あの“お方”は俺達の間では伝承の存在だった。あの“お方”を見たものはいない。だが、俺は感じたのだあの“お方”の存在をあの“お方”は伝承でも伝説でもなく実在したのだ魔術の神、地獄の王魔族の頂点――――“魔王”様
老人は突然踊り出し、甲高い声で叫び出した。無気力だったのが嘘のように興奮していた。
魔王は存在した天啓だったんだ魔王は偉業を成し遂げろと俺に告げたどこの誰かも知らない魔術師に出来たんだ俺にだってできる魔王を召喚し、全てを手に入れることが出来る栄誉も金も魔王を呼び寄せれば出来る筈だった
それなのに呼び寄せたのは弱小魔族二体。怒り、憤りが止まらなかった。
だけど、考えた。この魔族に多くの餌を与えれば、魔王のような強さを得る筈だ。魔王に及ばずとも、魔王に捧げる供物になる。利用価値はあった。子供は役に立たない。泣いてばかりで兎一匹も狩れない。大きい方は子供の方を守ろうとしていた。脅せば簡単に言いなりになった。里の人間は喰い尽くした。噂を流せば外から調査が入る。踏み入れたものから喰うように言いつけた。すっかり俺の犬よ。
男は笑う。高らかに笑う。甲高く笑う。嘲るように笑う。
潔は静かに男を見つめる。その双眸は男を見下していた。男は気付いていない。
退屈そうにしていた冴は、潔の様子に気付いている。既に老人は眼中に無い。
老人の高笑いが響く中、壁から背中を離して、冴は潔に言葉を投げる。
「…だ、そうだぞ、潔。そのイカれジジイは最初か“お前”に用があったらしいな」
老人の笑い声がぴたりと止まる。
「オイ、ジジイ。良かったな。お前が探していた魔王は、お前の目の前にいるぞ。これで探す手間が省けたな」
老人の目がぎらりと不穏に光った。は?何を言っている?恐れ多いことを口にするでない。その手には猟銃が握られていた。猟銃を構えようとした、その時だ。
視界が黒に染まる。黒い暗幕だと錯覚を覚えた。それは暗幕ではないと理解した瞬間、全身の血の気が下がった。
「――――俺に用って何だ?クソジジイ」
低い声が響く。誰が出したのか一瞬理解が追い付かなかった。無害な少年としか思わず、どうせ地方教会から派遣された見習いだろうとしか思わなかったのだ。だから、あまりにも衝撃すぎて思考が停止したのだ。
黒いそれは、魔王の血、魔王の力、魔王の能力。黒いそれは沼のように泡立っていて、時折波のように波打つ。それは潔の足元から生まれていた。
老人は潔の顔を認識した。その眼光は鋭く底が見えない。
「俺に用があって、こんなにたくさんの命を利用したんだろう?言え。何が望みだ?」
その声は呪言のように老人を絡め取った。老人の全身から汗が噴き出した。筋肉まで震えて、両膝の関節を折った。そのまま潔に深く低頭した。
おゆるしください、おゆるしください、おゆるしください。老人は震えた声音で同じ言葉を繰り返す。息をすればするほど気管が圧迫して呼吸がままならなくなる。汗が止まらず、ぼたぼたと雨のように、古く痛んだ木材の床に滴り落ちた。
魔王よ…地獄の主よ…わが望みをお聞きください。後ろの二体は貴方に捧げます。
わたしを認めて下さい。わたしと契約を結んでください。わたしに、この世を支配する力をお与えください。魔王よ。願います…。
畏怖で震えながらも、老人はしわがれた声で、己の欲望を吐き散らす。目の前の生き物が恐ろしくてたまらない筈なのに、欲があふれ出す。これも魔王の力というのか。魔王は七つの大罪を司っているという。目の前のは何の罪を象徴する魔王であるのか?色欲か、暴食か、怠惰か、傲慢か、憤怒か、嫉妬か、強欲か。それのどれにも該当しない見てくれでずっと騙されていた。溢れるこの欲は、魔王の力のせい。
老人は跪き、頭を深く下げながらも、魔王に対する欲情が止められないでいた。全てを手にしたいという欲に支配されていた。それが本能からくるものであることなんて自覚もなく。
「俺が欲しいか?」
魔王は老人に問う。老人は希望を見出した顔で、魔王を見上げた。
「もしお前が俺の問いに答えるなら、叶えてやってもいい」
冴から舌打ちが鳴った。潔は聞かなかったことにする。
老人は足に縋るように、何度も頷く。なんでも、なんでもおっしゃってください。わたしでできることなら、なんでもいたします!さあ、なんでも!
口から涎をまき散らしながら老人は叫ぶ。潔は汚いと見下しながら、言い放った。
「――――魔族を人間に戻す方法を知っているか?」
理解不能。思考停止。は。蚊の鳴くような声が自分の咽喉から漏れたことに自覚はない。
「知らないのか?」
魔王は冷酷に見下ろす。今すぐその命を奪うと、眼光が言っている。奥歯から震えながら、老人は舌を動かす。
三年、三年、おまちください。そうすれば必ず。見つけます。
己がとんでもない失言をしたと自覚したが遅い。魔王の目が伏せる。魔王は老人を見限った。
おまちを。わ、わたしの師なら、方法を知っています。西方の大魔術師と呼ばれた者です。お連れしましょう。そしたらきっと方法が。
「その大魔術師とやらは、俺がとっくにとっ捕まえて牢獄にいる」
冴が冷ややかに告げたことにより、老人は慌てて動かしていた舌を止まらせた。
「つーことはねえってことか。また外れだな、潔」
「そうみたいだな。二子にも一応送っておいたけど、やっぱり全部ガセだって。ごめんな」
魔王の目が老人から外れた。神にも等しい存在が自分から目を離していく。足元から深い奈落の底へ落ちていくような感覚。いやだ、いやだ。みてほしい。みてほしい。みとめてほしい。両親に、里の者に、ずっと訴え続けてきた。ここで魔王にも見捨てられてしまったら、全てが無意味になる――――。
老人は潔の足にしがみついた。潔は足元を見る。どうか、どうか、わたしをみてください。わたしをみとめてください。お前は天才だといってください。わたしのものになってください、魔王様。魔王様、わたしを、俺を、救ってください。お願いします―――――。
「――――は?何言ってんだ、変態ジジイ。誰がお前のものになるかよ」
冷酷な声に、老人の息は止まった。
「テメエに与えるのは恩恵じゃねえ。罰だ。俺の民(もの)に手を出したことを後悔しろ」
畏怖が恐怖へと変わった。老人の口から出たのは断絶魔のような悲鳴だ。本能的に身体が逃走を計った。だが、足が取られて無様に転げ回った。
「どけ。あとは俺の仕事だ」
冴が潔を遮って老人に近づこうとする。
「待て、冴。これは俺達側の問題だ。罰なら俺が与える」
潔が冴を止める。瞬間、凄絶な殺気が放たれた。
「あ?また邪魔すんのか?いい加減にしろ。何回目だと思ってるんだ、このヘボ魔王」
「いいから引けっつってんだよ、天才」
容赦のない殺気をぶつける冴に対して、潔も負けていない。
「誰に向かって口利いてんだ?口ごと削がれてえのか?」
「引けって言ってるんだ。これはお前達の領分じゃない。俺達の領分での話だ」
「関係ねえよ。このジジイはクロだ。んで、その後ろのもクロだ。どんな理由でも人を喰った時点でクロなんだよ。解ったらさっさと帰って飯を炊いておけ」
「…この人達は被害者だ。強要された」
「一度人肉を覚えた魔族はまた人を襲うぞ」
「そんなことはさせない。さっきこの人達に俺の血を飲ませた。俺の血があの人達の本能を抑える。人間を襲うことはさせない」
「…なあ、潔。俺の気が長くねえの、知ってるよな?」
冴の蟀谷に太い血管が浮き出ていた。今度は本気だ。ここで冴の機嫌を損ねることをしてしまえば、確実に潔を殺しにかかるだろう。
だとしても。潔は引かなかった。冴を真っすぐ見て、言った。
「引いてくれ。頼む、冴。じゃないと今後、俺はお前に協力できない。凛を戻す方法を一緒に探せなくなる」
冴は潔を見返す。潔は冴を見つめる。視線がぶつかる。通じ合おうとしている感覚に、最初に視線を逸らしたのは冴の方だ。勝手にしろとそっぽを向いた。
「…お前には地獄の罰を与える。喜べ。願った通り、俺の眷属にしてやるよ」
奈落の底のような目が老人を射抜いた。老人は動かない。動けなかった。四肢が不可視の鎖で拘束されていた。恐怖という鎖だ。それが老人から身体の主導権を奪った。
潔の足元で渦巻いていた黒い沼が波打った。大飛沫を上げ、老人を呑み込む。黒い沼は老人を絡み取り、沈めようとしていた。命乞いを上げ、魔王に救いを求める。潔は醜い老人を冷酷に見下していた。
「お前には選ばせない。魔(俺)一択だ」
老人は完全に沼の底に落とされた。奈落の水底に落ちていきながら、歪に身体が変貌していく。魔王の血を全身で浴びた影響だ。血を浴びた人は、人に戻れない。戻ることはできない。魔へと転化する。
老人の身体が溶け始めた。最初に皮膚、次に肉、内臓も溶けていく。残ったのは眼球と骨だけ。この世の全てを求めた罰として、全てを奪い取った。そのまま骨の下級魔族と成り果て、地獄へと送られた。
「俺の眷属の美味さは、地獄の連中はよく知ってる。俺の匂いを追って野良が集まるだろうな。運が良ければ俺の仲間が救ってくれるかも。望みはねえけど」
地獄の渦中に堕とされたそれには、見つけられることもなく、はぐれの魔族に喰い散らかされる運命が待っていた。
制裁を終えた潔は小屋の外へ出た。そっぽを向く冴の背中に罪悪感を抱いたが、冴よりも怯える二人の方を優先した。
「今まで気付けなくてごめん。もう大丈夫。俺の城に送るから安心してほしい。最初に氷織って奴に出会うと思うから言う通りにしてほしい」
言い終わらない内に、母親の手から離れた少女が潔に飛び込んだ。腹に顔を埋める小さな身体を、潔はそっと抱きしめ返す。少女は糸が切れたように安心しきって、潔に身を預けているのが伝わった。
少女と母親を黒い沼に呑み込んだ後、潔は冴に恐る恐る近づいた。
「なあ、冴…怒ってる、よな?」
その瞬間、冷え切った眼光が振り返った。潔の全身に悪寒が走った。
「ご、ごめん!ほんとにごめん!キレていたとはいえ、言っちゃあいけないことだった!まじでごめん!」
合掌して頭をぺこぺこと何度も下げた。いざとなったら土下座をする覚悟である。
だが、いつもの暴言も殺気もやって来ない。
「腹減った。帰ったら飯作れよ」
冴から出たのは、変哲もない要求だった。潔は顔を上げて、先を歩く冴の背中を見て、胸を撫で下ろす。まってくれよー!追いかけて、その隣に並んだ。
「…なあ、冴」
「あ?」
「…もし、このまま、凛が元に戻らなかったら…どうする?」
ずっと秘めていた小さな不安を口に出せたのは、潔は冴を信用できたからだと、後になって気付く。
出会ったばかりの冴だったなら、本気に滅しにきていただろう。
冴の答えは、想像をはるかに超えて、穏やかだった。
「言ったろ。無いんだったら探すまでだ。地の果てでも地獄の果てでも付き合あってもらうぞクソ魔王」
「解ってるよ、クソ天才」
罰はまだ続いている。