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    07tee_

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    07tee_

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    bll二次創作seis。
    退魔師se×魔王isgの長編。
    rn以外のbllメンツはみんな人外。

    #seis
    stop

    魔王の物語•贖 凍える風に紛れる小さな雪が肌にちらつく。
    溶けていく時の冷たさが、堕ちていく心をさらに凍えさせる。
     置き去りにしていく兄の背中を追うこともできず、打ちのめされる他無かった。
     家に帰っても堕ちてしまった心をどうしても元に戻すことができなくて、二人で使っていた部屋に引きこもっても、沈んだままぐるぐると思考だけが回る。
     兄は結局、ただ練習相手が欲しかっただけだった。利用されただけだった。
     退魔師は止めよう。
     部屋には兄が中央本部より受け取った多数の栄誉が飾られている。幼くして天才と言わしめた兄は誇りで、憧れで、目標で、夢だった。中央に行った兄の隣に並んで、兄が世界一になって、自分が世界二になることが、原動力だった。それを失った今は抜け殻になるしかない――――。
     思考が掠めた瞬間、筆舌に尽くしがたい感情が、前触れもなく爆発した。今までに抑圧してきた感情が蓋をこじ開けたのだ。
     がしゃん。飾られた勲章を薙ぎ払う。兄との思い出もまとめて、全て粉砕した。
     許さない。俺は、糸師冴を許さない。糸師冴のせいで人生がぐちゃぐちゃになった。だから今度は――――俺が糸師冴(あいつ)をぐちゃぐちゃにする。
     糸師凛の全てが書き換えられた瞬間であった。



     二歳上の兄――――糸師冴は、凛にとっては、めちゃくちゃにすごい兄で、かっこいい兄で、めっちゃ優しい兄だ。
     兄は生まれてまもなく才を発揮した。誕生した瞬間からすでに退魔の波動を有していたのだ。退魔師としての道が約束されていた。退魔師になるには各地方に点在する退魔教育学校と呼ばれる、地方教会が請け負う教育機関に通い、進級しなければならない。六級から始まって一級になれば退魔師と認められる。兄の場合は地元教会の推薦で入学してから破竹の勢いで進級していき、八歳には最年少二級となり、天才児と呼ばれていたのだ。
     凛は兄が大好きで、兄にべったりで、少しでも離れると駄々泣きするので、凛はいつも冴に付いていた。兄の実践を眺め、幼いながらも魔を祓う兄を見る度に、胸を躍らせていた。
    「俺は世界一の退魔師になる。それ以外は価値無しだ」
     兄は当たり前のようにいつもそう言っていた。兄は世界一になりたいんだって、凛は幼いながらも理解した。世界一に貪欲な兄も、凛はかっこいいと思えた。
     凛の分岐点は六歳の時だ。兄の大事な一級昇級試験に居合わせていた。
     安全の為、昇級試験は全て模造魔が使用される。模造魔は全て球体で、魔族のミイラを内蔵されており、それから流れる瘴気によって浮遊する道具である。試験内容はより多くの模造魔を倒すこと。いたって簡易的だ。ただいつもと違うのは、一級昇級試験を受けたのは兄だけというのと、模造魔が最高基準設定されているという点である。十年修練しても困難だと言われている最高基準に対して、兄は苦戦の表情を浮かべるが、それでも確実に一つずつ倒していく。人差し指の先から破魔の弾丸を撃ち込むのが、当時の兄の戦法だった。美しくも隙がなくて、美しくも無駄がない。
     おれもあんな風になれるかな、と思った瞬間に、凛の中で願望が生まれた。
     おれも、いつか、兄ちゃんみたいな世界一の退魔師になれるかな――――…?
     願った瞬間、身体が勝手に動いていた。試験会場に乗り込んで、兄に急襲を仕掛けた模造魔に一蹴りを入れた。
    「凛…」
     兄が凛を見たその瞬間、潜在能力を解放した。凛にも退魔師の才能があった。誰に教わった訳でもなく、兄の動きをずっと目で追っていたので、どのようにして破魔の力を解放するのかを自然と身に着けていた。問題は退魔の波動だ。誰にだって有している代物ではない。人材自体が貴重なのである。兄にはあって弟にはそれは無いと思われていたが…ここまで言えば解るだろう。凛にも兄と同じ才能があったのだ。蹴りを入れた足に、退魔の波動を宿した。模造魔は幼子の一蹴りで破壊された。
     やった。倒した。受け身も取れず、地面に伏している凛に、大人たちが血相を変えて割り込んだ。何をしている?今は大事な試験中なんだぞ!邪魔をするんじゃない!次々に責め立てる野太い声々に、凛はびくついた。どけ。と、大人たちを、顰め面の兄が押しのけて、ずかずかと近寄ってくる。
    「ごめん…にいちゃん…おれ…」
     大人に怒られるよりも兄に怒られる方が怖かった。だが、兄は怒ることなく、ぺたんと座り込む凛の前に膝を折ると、丸い頭を撫で始めた。
    「よくやった、凛。すごいぞ。お前も俺と一緒に退魔師になれ。お前なら俺の次に凄くなれる」
     兄ちゃんはやっぱり優しかった。その日から、凛は兄と一緒の道を進むことになった。
     凛の夢が決まる――――兄が世界一になって、自分が世界二になることになった。
     兄と共に訓練をはじめ、兄と共に鍛錬に励む日々を送る。兄はあれから直ぐに一級に昇級し、三年遅れで凛も一級に上がった。町の住民は兄と凛のことを天才兄弟と呼ぶようになった。子供でありながらも、出没した魔族を祓うまでには強くなっていった。
     兄が十三歳、凛が十一歳になった時、また転機が訪れた。中央本部から兄に招聘が下ったのだ。
     帰り道に海岸に寄り道して、夕日の海を眺めながら兄は突拍子もなくぼやいた。
    「凛。俺は明日から中央本部に行く。そんで、最上級の『使徒』を目指す」
     退魔師にはさらに区分けが存在している。下から一級退魔師、神弟子、使徒。使徒になれば将来的に長老もしくは司教の地位が約束されている。
    「知ってるよ…何だよ改まって。兄ちゃんは世界一になるんだから当たり前じゃん」
    「先に行くだけだ。お前も来い。俺がいない間諦めるなよ」
    「うん。とりあえず実践を積んで、兄ちゃんみたく招聘されるのが目標!」
    「ああ。そんで世界だ。俺達二人で世界一になるぞ」
     手を叩き合って、兄と約束した。
     翌日、兄は出発した。中央本部がある聖都の門前で、両親と一緒に兄を見送った。行ってらっしゃいと笑いかけると、兄は自分にしか見せない笑顔を向けて、行ってきますと言い放つ。
     兄は先に行った。今度は凛の番。
     凛はそれからたった一人で実践を積んだ。兄がいない日々は寂しく物足りなく感じたが、兄に追いつきたい一心でひたすら打ち込んだ。今までは兄の連携ありきの戦法に頼っていたが、自分自身にしかできない戦法を研究し見出した。
     凛が研鑽を積んでいる間に、新聞を通して、兄の華々しい功績を知る。本部に行った兄は異例の速さで神弟子に上がった。『新世代十一傑』に数えられた兄をますます誇らしくなった。世界で一番すごい兄といずれ一緒に戦って、隣に立ちたい…という夢の為に、凛は弛まぬ努力を積み重ねた。
     四年後、好機が訪れた。
     凛は成長し、町一番の退魔師となり、中央本部からの招聘も近いと噂されるようになったこの頃、本部より地方視察を兼ねた臨時試練が行われた。
     審査員として本部より派遣されたのは、冴だった。試練の結果次第で、兄の目に入れば、本部に招聘される。凛にとってまたとない機会…それ以上に、今の実力を兄に観てもらう絶好の機会であった。
     兄ちゃん。四年ぶりの兄の姿に凛は胸が跳ねた。だが、次の瞬間、目を疑った。兄の顔は最後にあった時よりもやつれており、生気が抜けきっている。兄ちゃん!と手を振ろうと考えていた凛は思考を飛ばして、兄の顔から目が離せなかった。
     きっと兄ちゃんは向こうで頑張っていたんだと、そう思い込むことにした。
     試練が開始される。試練の内容は近隣で出現した上級魔族の討伐だ。町の一級退魔師が連携しての討伐は、凛の手腕によって呆気も無く終了した。
     兄ちゃん!塵と化していく最中なのに、目を離して、兄へと視線を投げる。よくやった。流石だ、凛。昔みたいに褒められることを期待した。
    「――――お前ら全員不合格だ。この程度で一級とか吐き気がするぜ、ヘボ共」
     凛は期待に満ちた笑顔のまま固まった。動揺する一級退魔師らを置き去りに、冴は背中を向けて踵を返していく。冴の背中が小さくなっていくのを眺めていた凛はやっと我に帰って追いかけた。
    「兄ちゃん!」
     振り向いた兄の顔は冷たかった。氷のような冷たさだと感じた。一瞬呆気に取られたが、兄に問う。
    「どういうことだよ兄ちゃん…?不合格って、どうして俺まで…」
     帰ってきたのは、冷たい声だ。
    「あ?凛、テメエ、その程度で選ばれるって本気で思ってたのか?だったらお門違いだ、この愚図」
     兄の罵倒に、凛は一瞬怯む。兄は確かに口が悪かったけれども、いつも優しさがあった。なのに、今はそれは無い。まるで他人を見るように冷たくて、恐ろしい。
    「兄ちゃん…どうしたんだよ…?なんで…?」
     いきなり何を言いだすのか訳がわからない。冴の目線はほぼ水平線上。凛が大きくなったからだ。見上げないと合わなかったのに、いつの間にか凛は冴を抜いていた。現実逃避のような思考が一瞬横切る。次に何を言われるのか、予感が、駆り立たされる。
    「凛。お前――――退魔師なんて辞めちまえ」
     雪が降り出した。真白い雪が駸々と落ちだす。冷たい六花の結晶が髪に、肩に、身体に、足に、顔に落ちる。体温が奪われていく。頭の中が一瞬にして真っ白に塗りつぶされたのも、それのせいだと信じたい。
    「兄ちゃん…?」
    「お前には無理だ、凛。今すぐ辞めて、一般人に戻れ」
    「何言ってんだよ…何言ってんだよ…っ」
     遅れて胸の中が爆発して、全身がかあっと熱く燃えた。
    「嫌だよ俺は世界一の退魔師の弟だ」
     冴の目が冷める。絶対的な自信に満ちた目には暗い翳が堕ちていた。
    「お前は何も解ってねえんだよ…そんな甘っちょろい考え方で世界一になろうなんざ、不可能なんだよ、凛」
    「勝手に決めつけるなよ…そんなカッコ悪いこと言う為に帰ってきたのかよ…そんな兄ちゃんは見たくない…俺は…」
     俺が一緒に夢を見たのは、そんな兄ちゃんじゃない。
     凛は兄を見た。兄の目が一瞬瞠目する。辛苦を耐えた表情。だが。
    「――――ぬるいな」
     凛を、冴は、否定する。
    「お前はまだ何も理解していないんだ、凛…」
     呆然とする凛に、冴は一言命じる。来い。そうして連れて来られたのは、街はずれの森の奥。闇の広がる、瘴気渦巻く、深い森である。
     ここは立ち入り禁止の場所だと、凛はよく知っている。何故ならここは、魔王が誕生した場所だと言われているから。土地に瘴気が沁みついており、それに惹かれて、地上にいる魔族が引き寄せられて魔境と成り果てた。一級退魔師であろうとも立ち入りが許されない、それほど危険であるからだ。その場所に、兄は平然と立ち入った。凛もその後に付いて行く。肉眼でも解るぐらいの濃厚な瘴気が凛の身体に纏わりついて、内臓も重くなって吐き気を催す。自覚するぐらいに気分が悪くなった凛に対して、兄は全く顔色が変わっていない。この瘴気の中でも、平然として、ただ歩いている。この時点で格の差はあった。兄と凛の間には。森の中心地まで行って、兄は立ち止まり、凛に振り返る。
    「ここにいる魔族をより多く討伐できた方が勝ち――――お前が勝ったら、俺はもう一度お前と夢を見てやる。でも、俺が勝ったら、俺達の夢は終わりだ」
     幾万の気配が凛の全身に突き刺さる。背筋がぞわぞわと粟立って、体温が下がり、全身の穴から汗が噴き出て、筋肉が無意識に微動を始めた。
     気配だけで解る。ここにいるのは、ほとんどが上級魔族…一体二体なんてもんじゃない。討伐の戦歴はあるもの、凛一人でも上級魔族に太刀打ちは困難だ。なのに、兄は――――。
    「なんだよそれ…俺が負けたら二人の夢は終わりとか…勝手に決めんなよ」
    「だから。お前が勝ったらもう一回信じてやるって言ってんだろ」
    「ふざけんなよ、そんなの…」
     凛の頬に光が掠めた。冴から放たれた聖の破弾。破魔の弾丸は凛を通り過ぎて、背後から急襲しようとしていた上級魔族の眉間を貫いた。一発で倒れ、塵に還っていく。
    「いくぞ、凛。勝負はもう始まってる」
     弾かれたように振り返った時には、別の個体が躍り出ていた。凛は剣を引き抜いて、斬り伏せた。すかさず別方向からまた別個体が。銀の銃弾を装填した拳銃を反対の手で引き抜いて引き金を引く。銃弾は魔族の心臓を貫いた。一体ずつ確実に倒していくも、次々にふって湧いて出てくる。キリがない。剣を振り抜く間にも、引き金を引いている間にも、数を増やしていく。押されてしまうのも時間の問題だ。無意識に焦燥している間に、すでに多数の魔族が凛を包囲していた。死ぬ。その想像が凛の動きを鈍らせた。
    「凛。お前、この四年間、何をしていた?」
     兄の声が鮮明に響いた。遅れて兄の立っている場所から光が発する。無意識に視界を腕で守りながら、凛は次の光景を目に焼き付けた。
     兄の身体から光の靄が漏れている。それは兄の才能。兄の力の顕現。光の靄と思ったそれは、力を宿した聖句である。冴は常に聖句が刻まれた銀の腕輪を持ち歩いているが、腕輪が冴の力と共鳴することで、腕輪から文字が離れて、剣となり盾となる。
     分離した光の文字が、凛を取り巻いていた魔族を貫いた。瞬き一つで多数の上級魔族が一掃されていた。次元の違いに、凛は膝を崩した。
    「俺の勝ちだな、凛」
     凛の四年間の成長を、冴の才能が凌駕していた。たったそれだけのこと。その事実が更に凛を打ちのめす。
    「待ってよ、兄ちゃん…兄ちゃんがいなくなってから俺…頑張ったんだよ…兄ちゃんみたいに招聘されるために…」
     兄の代わりになれるように、町のために、仲間のために、がんばってきた…。なのに、ここで終わり…?それも兄が幕引きするなんて…。もうどうしたらいいかわからないよ。兄ちゃん。世界一を目指す理由が無いよ…。
     凛は項垂れる。冴は瞳に翳を落として、表情を一瞬だけかき消した。
    「だから辞めろって言ってんだろ」
     え。凛は面を上げて、冴を見る。
    「ぬりいんだよ。慰めてもらえると思ったのか?欠陥品が」
     冴は凛を見下していた。断ち切るような言葉で、凛を切り刻む。
    「テメエなんかがこの世界で生きていけるわけねえだろ。いくら才能があったって、んなもん全部無意味なんだよ」
     兄ちゃん。凛は信じられない。兄がこんな冷たい声を発するなんて、信じられないでいた。



     時は同じくして。中央教会本部、長老の間。長老達が集まって、極秘計画を進行していた。
    「時は近い――――」
     長老の長が、口の両端と脂の乗った脂肪まみれの頬を吊り上げる。
    「才ある者達が集まってきた…兵の数も充分。施設の完成も目前。我々は目にすることになる――――魔王の失脚を。この目で」
     長を始めとして、取り巻く者達もまた、同じ笑みを浮かべている。聖職とは名ばかりの、欲まみれのそれである。その口から出るのは、人類が何百年も背負ってきた重き使命であった。
    「魔王がこの世に顕現して六百年が経っている。魔族の力は日々一刻と強大になりつつある…だが、我々は決して魔王には屈しない今こそ、魔王を消し去り、平安の世を作る時だ、諸君」
     肥え太った声が大義名分を言い放つが、彼らの真意が現れた怪しい嗤いが、言葉を裏切っている。賛同の意として葡萄酒の入った盃を上げて、勝利を祝う。一人だけ異端の気を放つ者が、彼らの空気を打ち破る。
    「違げえよ、銭ゲバ狸共。正確に言えば、六百六十五年前だ」
     眼鏡を指先で押し上げながら訂正の声を上げた人物に、非難の視線が集中砲火する。一人、彼の秘書官である若き女性だけ、突っ込むところ違うだろ、と心の中で異を唱えた。
    「絵心くん。我々の聖戦に何か言いたいことでもあるのかね?」
    「言いたいこと?山ほどあるわ、クソボケじじい」
     長に対して、長老の席の一つを埋める絵心甚八は、怯んだ様子も見せず、冷淡に言ってのける。
    「テメエら人間は、自分の見解の中でしか物事を判断しねえ。本当に見なくちゃいけねえものを遠ざけて、見たいものしか見ようとしねえ。その時点で大間違いだクソボケ共」
     容赦のない悪口雑言が山よりも高い矜持を逆撫でしていくも、知らぬ存ぜぬで続ける。
    「お前達は、魔王の実態を見たことがあるか?見たことねえだろ。この六百六十五年、魔王は顕現したことがねえからな」
    「何を言ってるか絵心くん。魔王の悪行は史実に記されて…」
    「それは本当に真実か?史実口伝はいくらでも捻じ曲げられる、都合のいい改竄でしかねえんだよ。お前達はそうやって先代やご先祖様が見たっていう法螺話を都合よく解釈する。そいつらが真実を語っている保障は…ない」
    「それは、魔王と戦って果てた者達の意志を受け継いだ我々に対する冒涜か、絵心くん?」
    「そうやって綺麗なお言葉で薄汚ねえ本心を隠しているつもりか?デブ」
     長は動揺ででっぷりと脂肪が貯蓄した腹を揺らした。絵心に対して、蟀谷に青筋を立てた長老達が声を荒げる。それでも長老であるのか!さては魔王の眷属か?我々教会の意義を根本から否定するのか!
     それらの声を沈ませたのは、長であった。
    「絵心くん…これは背信だよ。到底許されないねえ…懲戒処分だ」
     しんと水を打ったかのように静まり返る中、一切動揺せず、絵心は眼鏡を押し上げる。
    「へえ。いいよ。そもそもどうでもいいし。ただ言われた通りにここにいるだけだから」
     追って処分を伝えるよ。の声に対して、絵心は飄々とへいへいと答えて、掌を振りながら長老の間を後にする。絵心の後を早歩きの速度で秘書官が追随する。
    「絵心さん…本当にいいんですか」
    「しょうがないでしょ、アンリちゃん。俺達で止められる訳ハナからないし」
    「でも!このままだと多くの退魔師が危険に…っ」
     血相を変えて抗議を上げる秘書官に、絵心は冷淡に言い返す。
    「アンリちゃん…全ては筋書きの上なんだよ。俺達なんかが想像もできない完全無欠の力による筋書きだ。それを書き換えることはできない。定められた未来だと受け入れられるかどうかだよ」
     不理解だと表情で訴える秘書官を無視して、絵心は自分の巣へと帰っていった。



     地方教会の視察が全大陸中に行われたことは、同職者の間に多くの推測が飛び通う。それが現実となったのは、一年後であった。
     中央教会に多くの退魔師が集められた。大きな計画の為だ。招聘された退魔師らが本部に集められ、長老長が高らかに宣言する。
    「魔王が現れて六百六十六年。奴らは煉獄の底から我々人間を常に脅かし続けて来た。長い戦いはもう直ぐ決着する。皆の者よく耳を澄ませて聞け!魔王の対抗策を何年もかけて進めて来た。今こそ打ち明けよう。これが――――魔王討伐の最大の武器だ!」
     武器、と呼称したが、武器というにはあまりにも仰々しく膨大であった。対魔王討伐武器は、ある巨大な建築物を示していた。箱に似た建築物。中央に透明色の強固な強化ガラスが檻のように取り囲んだ闘技場があり、あとは白い壁塗りがあるだけの、簡素な造りである。一見したら、の話だ。勘の良い者は直ぐに察する。闘技場を囲む強化ガラスには何百もの術が組み込まれており、魔が触れれば肉を灼き切るもので、一つ目巨人が突進しても倒れない不破の檻。壁は裏返る仕様となっていて、魔族の弱点である人工太陽光を発する切り札。その檻と切り札とに、全国から集められた精鋭の退魔師およそ三百人。第一次魔王討伐戦と並ぶ大きな戦いとなりうる予感に駆り立たされるには充分過ぎた。
     これは、いよいよ、本部は本気で魔王討伐を考えている。明確な目的に若き猛々しい者らは使命感を燃やす。罪なき人々に害成す悪しき魔を祓うという、彼らの根幹の使命を。
     その中で一人だけ氷のように冷え切った目をする者がいる。糸師凛であった。
     一年間、凛は糸師冴を潰すという野心を燃やし、自分だけの戦い方を研究し、高めてきた。そして、たった一人で上級魔族を祓う功績を積んだ。その噂を聞いた本部が視察者を派遣した。凛があの天才糸師冴の弟であり、比類ない才能の持ち主であると判断するや否や、非及第点を取り下げて緊急招聘をかけた。その結果、凛はこの大作戦に抜擢された。という経緯で、凛はそこにいる。
     凛の目線は上部にある。高見に立つ、自分と酷似した面立ちの男。凛がこの世で最も憎悪する男であり、実の兄である糸師冴。
     魔王討伐なんざ、凛にとってはただの踏み台に過ぎない。凛は自分の存在を証明する為にこの場にやって来た。糸師冴以外は眼中に無い。
     なあ、お前、糸師冴の弟だろ?あの天才を兄に持つってどんな気分?自分と糸師冴の関係は既に流れており、早速興味本位の野次馬が群がってくる。凛はそれらの相手をしない。同じ空気を吸うこと自体無意味だ。頭の悪い雑魚はどうせ直ぐに死ぬことになる。この戦場で。
     無言と視線だけで野次馬達は怯んで蜘蛛の子のように散っていくが、凛の眼光をもろともせず、反対に純粋な関心を持って凛の間合いに入り込む者もいる。
    「やあ!君、糸師冴の弟だよね?糸師冴は俺達の間でも有名なんだ。よろしく」
     態度の軽い長身の男は、レオナルド・ルナと名乗った。糸師冴の先輩だと自称して、凛に堂々と近寄った。
    「失せろ」
    「ワオ。その冷たい態度、兄にそっくりだね。彼から一度も君のこと聞いたことが無いんだけど、兄弟仲良くないのかな?」
     ずけずけと踏み込んでくる態度に、凛は既に嫌気が差していた。レオナルド・ルナを無視して立ち去ろうとするも、肩を一方的に組まれて阻まれた。
    「離せ。触るんじゃねえ」
    「君って硬い方?硬派すぎるとつまらない男って見られるよ?」
     腕を振り払って睨んでも、ルナは全く憤慨した様子を見せない。凛の反応を窺い、分析しているようである。これ以上この男といると、知られたくない事まで知られそうになると、凛は離れようとする。
    「ねえ、糸師凛。君は理解している方だよね?」
    「あ?」
    「あの檻の意味をだよ……察しのいい人はみんな気付いてる。もちろん、糸師冴もね」
     ルナは凛の反応を一瞬たりとも見逃さないと凝視しながら囁く。
    「そもそも上は、本気で魔王を討伐したいと考えてないのさ…これは一種のパフォーマンスなんだよ。目的ははっきりしている」
    「……」
    「つまり金だよ。長老連中は金が欲しいのさ。あの施設の建築費だと言って国から金を分捕って、信頼できる筋を通して金を洗浄して、私腹にしているんだ。最初から成功率はほとんど無いもんだよ。でも万が一、魔王を一体でも倒せたのなら金が増える。金も欲しいし魔王も倒したい…て、まともじゃない連中は気付いてるさ」
    「知るか」
     飄々と、本部のど真ん中で、上層部が懲戒してでも消し去りたい事柄を、世間話のようにぺらぺらと喋るレオナルド・ルナを、凛は氷のように冷たい声で黙らせた。
    「黙れ。んなこと知ったことじゃねえ。上が腐ってようが関係無え。どうせそいつら全員、俺の踏み台だ……俺がここに来たのは手っ取り早く使徒に上がる為の手段に過ぎない」
     全ては――――糸師冴を潰す為だ。
     凛は静かに憎悪の炎を燃やす。冷たい炎であった。レオナルド・ルナは小さく笑む。
    「ぶっ飛んでるね。流石!そうでなくちゃね!馬鹿げた作戦だと解っていても、この馬鹿げた茶番に乗り合わせたのは君だけじゃない」
     レオナルド・ルナはにこりと笑いながら、明るく話す。
    「現に糸師冴を始めとして『新世代十一傑』が集結してる。彼らも君と同じ意識でここに来ているんだ」
     気に入った。もし困ったことがあったらいつでも尋ねてくるといいよ。親しみを込めた笑みを凛に向けつつ、レオナルド・ルナは去っていく。
     だが囁かれた事実が引き金となって、凛の脳裏に焼き付いた『雪の夜』の記憶を呼び覚ます。
     糸師冴がここにいる。糸師冴を潰す。魔王は倒す。そして――――糸師冴を超えて、世界一になる。
     それが、糸師凛の生きる全てとなっていた。



     一つ席を欠いた場で、金の亡者と化した老人たちはほくそ笑む。
    「最初は怠惰と傲慢の魔王だ。弱点はきちんと存在している。加えて我々の精鋭三百人と『新世代十一傑』…勝利は約束されたも同然だよ」
     彼らは笑みを深くする。久々に潤った私腹に満足していたが、欲というのは底が無い。次なる莫大の報酬を期待していた。
     そんな彼らの様子が手に取るようにわかる絵心甚八は、謹慎中でありながらも口悪くぼやく。
    「あいつらは何も知らないのさ。無知とは罪なんだよ、アンリちゃん」
     淹れたての珈琲を口に含みながら、猫背の態勢で魔王書の頁をめくる手を止めない。喋りながら購読もするとは、なんて器用な人なのだろうと、長老会の決定を報告しに来た帝襟アンリは一瞬だけずれた思考を持った。
    「あいつらは実際に魔王を見たことが無い。人類が最後に魔王と対峙したのは六百六十六年も昔のことだから当たり前…だから人間は残された記録で考察するしか無いが、それも絶対に正しいとは言わない。いつだって人間は自分の見たいものしか見ないし、語りたいものしか語らない…」
     つまり、何が言いたいのだろう?疑問の視線を絵心甚八の背中に投げる。
    「歴史っていうのは先代の語り草だ。証拠も残らない。真実っていうのは形に残らない。つまり、真実だって事実だって曲解しまくりの捏造し放題だ」
     果たして、先人たちが残した伝説や口伝は、絶対の真実だと言えるのか。絵心の頁は七大魔王相関図で止まっている。色欲の魔王、暴食の魔王、怠惰の魔王、傲慢の魔王、憤怒の魔王、嫉妬の魔王、強欲の魔王…人間とはかけ離れた、獣や虫を象った人外の図。それらも全て、名前の知らない先人たちが描いて残したものだと、アンリは知っている。
    「つまり絵心さんは、この計画は最初から破綻していると、そうお考えなのですね?」
    「最初からそう言ってるでしょ」
     だが、絵心は口を挟む気は無いし、止めるつもりは毛頭ないように思えた。アンリは疑問を抱く。だが、それを胸にしまいこむようなことはしない…この人物の秘書となって日が浅いけれども、疑問に思ったことは口にするように決めていた。
    「止めないのですか?多くの犠牲が出るかもしれないんですよ」
    「しないね」
     絵心はきっぱりと断言した。聖職者とは思えない非情な発言であった。
    「止められる訳ないんだよ…人間の業欲っていうのはさ。それが出来ていたら神だってこんなに苦労しなかったさ。人に与えられた自由意志というのは罪過なんだよ」
     この人はこの先に起こることを全て掌握しているんじゃないのかと、アンリは益々不思議がる。
     絵心の発言は、不運なことに、実現してしまった。それからほどなくして、対魔王専用牢獄施設は完成したのである。完成から直ぐに、魔王討伐作戦は実行された。
     強化ガラスで囲まれた中央闘技場に、鉄の処女が二体向き合うように設置されている。中央を中心に周囲には三百人の精鋭が囲んでおり、長老らは天井近くの監視室におり、そこには『新世代十一傑』他、使徒級の退魔師が護衛という形で配置していた。凛はこの配置の異常性に早々に気付いている。本当に倒したいのなら、最前線に置くべき人材をしかる場所に配置する筈…あれは腹黒い老人たちの命の保険ということだ。
     だから何だ。クソどうでもいい。寧ろ最後列にいた方が、彼らよりも先に実力を表明することができる。これは、凛にとっては、都合のいい配置であった。
    「さあ、始めよう、諸君。魔王狩りだ」
     絶対の安全を約束された高見の場所で、長老長が合図を下す。
     中央闘技場の端から、黒衣を頭からつま先まですっぽりと被った者達が十二人程、ぞろぞろと出てくる。二手に別れ、二体の鉄の処女を中心にそれぞれ円の形に添って立ち並ぶ。十二人同時に、鉄の処女に向かって手を掲げた。小さく口ずさむは、召喚の儀の呪言であった。
     呪言が開始されると、鉄の処女の真下に巨大な魔法陣が光を帯びて顕れた。絶滅寸前の古代魔術である。成功率は一割未満といったところ。彼らは教会が捕縛した黒魔術師であり、今回の作戦に当たって魔王召喚の儀を助ける代わりに釈放すると、上層部と取引済である。そのことには無論、察しの良い者達は気付いている。彼らの中には心底胸糞悪いと気分を害する者もいるぐらいであった。
     魔法陣発動と同時に緊張感が漂う。彼らは皆、魔王と戦う為に招聘された才ある若き芽である。一人一人が申し分のない実力は持っているもの――――実際に魔王と対峙したことは、無い。
     魔王が現れる。だが、一向に、巨大な魔の気配を感じない。魔法陣は微動だにしない。失敗か。そもそも本当に、魔王なんて、存在するのか?――――彼らは一度だって、その存在を目にしたことがない――――。
     がん。空気が激しく振動を起こした。どこから?
     がん。がん。がん。今度は数回。間も置かずに響く。地鳴りにも似ていて、雷鳴にも似た衝撃音。
     がん。ががんがん。がんがん。んがんが。がんが。がが。がんん。がん。がんがんがん。がん。がん。がん。ががん。がんが。
     不規則なのは二方向から発生している為であった。音が上がる度に、鉄の処女が揺れた。鉄の隙間から不穏な風が漏れていた。肌を刺すようなそれは、最前線の経験がある者なら誰でも知っている…魔が発する瘴気。ほんの少量なのにも関わらず、瘴気の濃度は既に高密度を突破していた。音が大きくなる。揺れが大きくなる。瘴気も濃くなっていく。何かが来ると、本能が警鐘を鳴らす。召喚してはならないものを呼び寄せようとしている。禁忌に触れてしまった――――。
     鉄の処女が開かれた。破壊する勢いで扉が開いた。次の瞬間、巨大な瘴気の塊が、それぞれから飛び出す。獣のような咆哮を上げながら、燃え滾った猛獣のように飛び出た。二体の瘴気の塊が衝突する前に、じゃらりと鎖の音が木霊した。内側から伸びる五本の鎖が、二体を拘束していた。引き止められたそれらは獣のように威嚇し合い、苛立ちの咆哮をたける。
     纏う瘴気が徐々に薄れていき、姿形を顕わした。
     片方は鋼でできた肉体を持つ人に近い形をしているが、額に鋭い一本角を生やしている。片方は白い体毛で人に限りなく近い姿をしており、蟀谷から雄山羊に似た角を生やしていた。
    「オイ……テメエらか?俺の進軍を邪魔したのは?」
     赤い筋が数本入った逆立った黒い髪をした方が、赤い眼を鋭利に光らせて、退魔師らを一睨みする。
    「邪魔しやがって…この俺が、王(キング)であると解ってのことか、愚民共。ぶっ殺すぞ」
     底知れない膨大な瘴気がそれから放出され、ガラスの壁を通り越して、全身に重たく巻き付いた。この時点で気絶して倒れる音が続いた。
    「あれ?馬狼じゃん。やっほー。久々」
     反対に、対峙する白いのは対照的に間延びしたような態度である。気怠い態度が目立つが、それからも引けを取らない瘴気が放出されている。また倒れる音がした。
    「何でテメエがここにいんだよ、面倒クサオ?」
    「だから止めろってばそのあだ名。俺は凪だって何度言えばいいんだよ?」
     互いに旧知の仲のようである。
     あの姿。その雰囲気。この瘴気。
     間違いなくその二体は、七体存在する魔の王。傲慢の魔王と怠惰の魔王。退魔師達はそう確信した。奔流する瘴気の濃さに倒れていく者もいれば、戦意喪失した者もいるし、命の危険を実感した者もいる……誰もが死の危険に怯える中で、平然としていられるのは、凛しかいない。
     長老達は歓声を上げた。魔王の召喚に成功したことを。その二体は金の生る木となった。金、金、金と口ずさむ老人たちに、護衛の任に任命された実力者達は冷ややかな視線を寄越す。
    「てか、ここはどこだ?」
    「うーん…この感じ…めっちゃ懐かしい感じがする…どうやら俺達、また呼び寄せられたようだね」
    「あ?そんなこと二度と起きねえんじゃなかったか?」
     片眉を吊り上げて詰問する黒い魔王…馬狼と呼ばれた傲慢の魔王の問いに対して、白い魔王…凪と自称した怠惰の魔王は、気怠そうに自分の置かれた現状を見回す。
    「この魔法陣めちゃくちゃだ。でも、こうして呼ばれたってことは、俺達は偶然の成功で呼び出されたみたいだぞ、馬狼」
     凪の言葉の後に、馬狼が忌々しく盛大に舌打ちを鳴らした。
    「クソ…うぜえ…まじでうぜえな、クソ愚民共…あいつの首を掻っ切りに行くのを邪魔しやがって…っ」
    「ええ~。今日は俺が遊ぶ予定だったんだけど?」
    「知るか!てことは、お前もグルか」
    「んな訳ないだろ」
     ほら。と自分の首と四肢を拘束する鎖を指差する。馬狼も低く唸りながら自分の身体に巻き付くそれを見た。
    「これ、契約の鎖ってやつ。昔、玲王に見せてもらったことがある。それからあの箱は封印の鉄檻。偽物じゃなくちゃんとした本物っぽい。グルだったら俺にも架さないでしょ」
    「何だその鎖と檻ってのは?」
    「これ全部俺達みたいな最上級専用の拘束具だよ。条件を満たさない限り、俺達は解放されない」
    「条件だあ?」
     あまりにも場にそぐわない掛け合いであった。恐慌が蔓延するこの現状で、あまりにも平然とするそれらは異質過ぎた存在だった。こうしている間にも既に十六人が気絶している。それに気付いているのかそうでないのか…どうやら、包囲する退魔師の一大隊なぞ、眼中に無い様子である。実践を積んだ一級魔術師三百人に怯えない…この時点でそれらが凌駕していることが証明されている。歓喜する老人らとは違って、下層にいる若者たちは完全に恐怖している。あまりにも対比しすぎている。
    「この状況からして一目瞭然でしょ……………こいつら、殺し合いをさせたいみたいだぞ、馬狼」
    「あ?」
     馬狼の蟀谷に太い血管が浮き出たと同時に、迫力が漏れ出た。
    「何勝手に仕切ってんだ?殺すぞ?」
    「ま。それには同感。俺だって気分があるし。勝手に決めるのやめてほしいよね」
    「てか――――テメエごときに殺される俺じゃねえんだよ。俺がテメエを殺す」
    「へえ。まだそんな風に吠えてんだ?」
     でも。怠惰の魔王の空気に重みが乗った。
    「それは俺の台詞だ。倒すのは俺でアンタは俺に倒される方だ」
    「あ?誰が誰を倒すってか?腰巾着がいねえくせに吠えてんじゃねえぞ」
    「玲王は必要ない…俺一人でもアンタを倒せるよ」
     異なった二種の瘴気の波動が衝突をした。大地が揺れる。空気が揺れる。檻が揺れる。人も揺れた。揺れていないのは渦中の魔王らだけ。
     瘴気の渦を派生させながら対峙し、睨み合う。そして。
    「ぶっ殺す」
    「やれるものならやってみろ王(キング)」
     瘴気が形をなした。片や獅子、片や巨大髑髏。咆哮を轟かせ、激しく衝突する。瘴気の嵐が内側で荒れ狂う。肉眼でも見えるぐらいの濃密な嵐が渦巻いて内側を隠すが、想像を絶する戦いが繰り広げられていることは容易に想像できる。中央闘技場を取り囲むガラスには多数の術が組み込まれている。毛先でも触れてしまえば破魔の陣が発動して相殺する。開始早々、全面に数えきれない程の陣が光る。轟音。地響き。衝撃。まだ一分も経過していないのに、対魔王の檻が崩壊寸前の軋みを発していた。
     動揺と恐怖で、退魔師達は一斉に恐慌する。波は上層にも感染した。下卑た笑みを浮かべて同じ単語を繰り返し続けていたのが、口を開けたまま硬直し、やがて徐々に顔面蒼白になっていく。全面光の陣が夥しく発生し激しく揺れるガラスの檻を認めて、死人のような白さへと変わっていった。
    「か、壁を反転させろ人口太陽光、二十パーセント照射」
     長老長の合図で壁が反転した。内部全体が白く照らされる。壁を反転させると人口太陽光が照射される仕組みとなっていたのだ。威力は本物よりも弱いが、太陽光が弱点である魔族には有効であることは既に証明済だ。
     しかし、怠惰の魔王と傲慢の魔王は止まらない。
    「五十パーセントに上げろ」
     光の度合いが強くなる。中級魔族であるならこの光を当たれば三分で消失する。しかし、魔王は止まらない。
    「六十パーセント七十八十九十」
     焦ったように光の度合いを上げていく。鳴りやまない轟音と地鳴りが更に焦燥感を煽り立てる。
    「百パーセントだやれ」
     喰い合せる前提は忘却の彼方に追いやっていた。白光が全面を照らす。上級魔族を屠る威力の光が全てを照らす。
     瘴気の渦の真ん中で、人口太陽光を浴びた二体は、駆け出す寸前の態勢で停止する。むき出しの体躯に光が当たり、硝煙が漂う。長老長はほっと胸を撫で下ろした。
    「うぜえよクソが…っこんな偽物で、俺を殺せると本気で思ってんのか、虫けら共…っ」
     だが、魔王は平然としていた。怒りの矛先が怠惰の魔王から高見から観測する老人たちへと転換される。
    「ちょっと~。だからダメだって言ってんだろ~。耄碌した?」
    「うるせえ八つ裂きにすっぞっ」
    「あらら。機嫌悪」
     恐怖が長老長の判断をさらに混線させた。
     奥の手を、切り出す。脂まみれの太い指には、スイッチが握られていた。一瞥した糸師冴は嫌な予感を抱いた。長老長は迷うことなく、汗まみれの指で、力を込めて押した。
     怠惰の魔王の心臓部に穴が空いた。ぽっかりと、向こう側がよく見える大きな風穴が、一瞬で出来上がった。穴からどばどばと黒い血が流れて地面を濡らす。
     あれ?始めて表情を変えた怠惰の魔王が膝をついた。イテテ…。心臓が丸ごと射抜かれたというのに、間の抜けた声を出していた。
     その瞬間、傲慢の魔王の怒りが最骨頂に達した。
    「――――オイ。クソ人間ども。いい加減にしろよ?人間だろうと何であろうと、俺の覇道の邪魔をする奴は例外なく皆殺しだ…っ」
     眼光が、圧倒的覇気が、凄絶な瘴気が、向いた。
    「おいクサオ…テメエとの再戦は後だ。まずはあのクソ豚共から殺して、次にお前だ」
     殺気まじりの眼光を飛ばしながら言い放った傲慢の魔王に、はあ。怠惰の魔王はわざとらしいため息を吐きつつ、黒の眼を退魔師らに向ける。
    「ま。俺もずっと我慢してきたけど…流石にここまでされたら、もう黙っていられないってか…いい加減に帰りたいし。――――そろそろどけよ、アンタら」
     魔王二体の矛先が向けられた。生存本能が命の危機を激しく警告すると同時に脳が死の錯覚を起こす。
     衝撃波が揺らす。光を、壁を、天井を、檻を全て。魔王を閉じ込める為の檻に大きな皹が生まれた―――――その瞬間、恐怖が爆発した。
     絶叫を上げて、我先にと逃走の雪崩が起きた。長老らが下層よりも先に逃げ惑う。長老長は汚い悲鳴を上げながら腰を抜かした。冷ややかに視線を送った天才たちは、守るべき対象である彼らを切り捨てるように背中を向ける。
    「ま、まてぇわしを置いてどこに行くわしを守れ何のために呼んだと思ってるんだ」
    「―――――あ?汚ねえ声で指図すんじゃねえぞ。このデブ爺」
     容赦のない視線と言葉で、保身しか頭にない老人を、糸師冴は一蹴した。
    「デ…ブ…っ貴様、あの天才糸師冴であろうと、命令に逆らうとどうなるか解っているのか懲戒処分だぞ懲戒処分」
    「だったら御聞かせ願おうじゃねえか。次の策はあんのか?」
    「だ、だから、魔王を戦わせて…そうだ、じきにあいつらは消滅する筈弱ったところを拘束し、怠惰の方を」
    「話になんねえよクソデブヘボ」
     涼し気な表情で、鋭い眼光を投げて寄こす。長老長は口を開けたまま硬直した。
    「テメエらはとっととどいてろ。邪魔だ。いつまでもそこで這いずり回っていたら死ぬぞ?」
     長老長の顔が紙のように真っ白になったのを、糸師冴は見逃さなかった。
    「てか、魔王を喰い合わせるの何だのと最初からできもしない妄想抱いて暴走してる場合じゃねえだろ」
     それ以上見もせず、下層へと向かう。天才たちも糸師冴に同調し、続いた。
     下層に着くとまず先に見たのは、出入り口で押し合う人波であった。逃走を図ろうとする者らを見張り役が押し止めているせいで出来上がった渋滞であった。冴は涼しく一瞥して、言い放つ。
    「テメエら。魔王を倒す覚悟のねえ奴は失せろ。そんで二度と退魔師を名乗るな」
     喧噪が水を打ったように鎮まって、冴に集中した。冴だけでなく、十一傑全員の意であった。
    「戦う前に逃げる奴は死んだも同意だ。テメエらには才能も価値もねえ。ヘボ共」
     冴の言葉に自尊心を傷つけられ、返す言葉もなく立ち尽くす彼らを、冴は冷たく一瞥する。
     衝撃音が連続で上がる。冴は振り返る。あと一分も経たずに檻は破壊されるであろう。雑魚が逃げてくれたおかげで足手まといはいないだろう。冴にとっては好都合な状況だった。
     かに思えたが、ガラスの檻の前に、一人だけ佇む影があった。凛だけが逃げもせず、機を計らっていた。冴はわずかに目を見開いた。
     肩に腕が置かれた直後、へえ、と感嘆の声が上がる。
    「おやぁ?あれはテメエの弟だろう冴?クソ似てんじゃねえか」
     煽るような物言いのミヒャエル・カイザーを、冴は素通りする。冴の目線は凛に固定していた。
    「愛する弟がクソ心配なら弟の手を引いて実家に連れ帰れ。何せ相手はあの魔王二体だからな。お前とお前の弟が逃げてる間にあいつらは俺が片付けてやるぞ?」
     息を吸うように煽り立てるカイザーの腕を、冴は鬱陶しく払い落とす。
    「関係ねえ。魔族は全部殲滅する。決定事項だ」
     有無を言わさない凄んだ口調でカイザーを黙らせる。カイザーは口元を吊り上げて笑った。
     自分の視覚から外れた場所でそんな会話が為されているとは知らないまでにしろ、興味も関心も無い凛は、ガラスの皹を見つめている。瘴気が荒れ狂っているとしても、衝撃音が激しく鳴ろうとも、地鳴りが大きく響いていようとも、凛は冷徹に待っていた。
     檻に施された方陣は数を増し、光を増していく。入った皹は不吉な音を立てて広がる。
     ぴき。小さな音と同時に亀裂が生じる。次の瞬間、亀裂から崩壊が始まった。粉砕された欠片の雨の中から突き抜けるように、傲慢の魔王が飛び出す――――その瞬間を、凛は待っていた。
     魔王が不自然な態勢のまま停止した。瘴気の渦も不自然に掻き消えた。
    「ぁ…な、に…っ」
     傲慢の魔王は不可解の表情を浮かべ、怠惰の魔王は愕然の表情を浮かべる。停止したまま、開いた口から黒い血溜まりを吐いた。
     二体の魔王は操り人形のように停止していた。それは比喩ではない。まさに、言葉通りであった。魔王らの身体には、幾百もの銀の糸が刺さっている。聖なる銀から作られ、聖なる水で清められ、聖なる血で祝福された、対魔族の武器である。糸は魔王の全身に突き刺さり、体内に潜って、全ての器官につながっており、糸を通して破魔の力が流れ込み、体内を灼いている。その糸は全て――――糸師凛から伸びていた。
    「ぬりいんだよ」
     凛が指一本動かすだけで、糸で繋がれた魔族は自由意志を奪われ、糸師凛の意のままに動く操り人形とされる。これが、凛が、糸師冴を超える為に研鑽を積んだ結晶であった。
    「何が魔王だ。くだらねえ。こんなんマジ時間の無駄だから」
     人差し指を曲げると、傲慢の魔王の首が外れる寸前までに仰け反る。傲慢の魔王の意志とは関係なく。
    「ここは戦場だぞ。テメエらの敵はテメエらだけじゃねえよ。お前らはずっと、銃を持った兵士に背中を向けて見世物みたく殴り合ってたんだよ」
     凛から重圧の殺気がこぼれ出る。人間とは思えない、規格外の、圧倒的覇気を加えた、殺意。魔王二人の背中に冷えた汗を伝わせる程、それは重たい。
     凛が左手を握りしめた。すると、怠惰の魔王が苦痛の声を上げた。きし、きし、きし、と全身を微動させながら身体を折り曲げるその動作に、随意性は感じられない。操られそうなのを堪えているようにも見て取れる。
    「クサオこの糸、切ってしまえ」
    「いや…無理…こんなの、人外…」
     涼しい表情が崩れる。呻き声を上げて抵抗していたのが、絶叫へと変わる。凛は無情に見つめる。握った左拳をゆっくりと引いて行くと、怠惰の魔王の身体が前傾していき、肉を引きちぎるような音が大きくなっていった。腰と腹が離れていき、皮膚が破れ、肉が裂け、筋が引きちぎられていく。自然なまでに綺麗な動作で凛が左手を引いた。怠惰の魔王の上半身と下半身が分断され、黒い血が湧き出た。
     壊れたおもちゃのように、分断された肉体が床に転がる。人工太陽光が肉の断面を容赦なく灼いていった。
     全てを目にした傲慢の魔王は、忌々しく奥歯を噛みしめ、自由を奪われた手足を強引に動かして、凛に飛び掛かった。人肉を容易に引き裂く爪が凛の眼前で停止した瞬間、怒号を上げる。
    「テメエも直ぐに怠惰(あれ)と同じ場所に送ってやる」
     糸師冴に並ぶ破魔の力を糸に流した。破魔の力は魔王らの体内を破壊尽くす。ごぶ。傲慢の魔王の口から再び黒い血溜まりが漏れたが、先程の比ではない量であった。それは分断された怠惰の魔王にも流れて、無慈悲にも破壊した。断面から内臓だったものがこぼれて、身体を中心に黒い血が泉のように広がっていった。
    「これ…やば…」
     俺、死ぬかも。死を覚悟したのは何百年ぶりだろ…。痛いし熱いし辛いしめんどくさい…。もういいや。寝よう。
     視界が霞んで、意識は闇へと堕ちていく。完全に暗転する直前――――凪の脳裏に、鮮明な面差しが蘇る。
     凪。穏やかに、優しく、時には傲岸に、凪を呼ぶその声と、ふわりと花開くように笑うその笑み――――凪が、大切にしたいなと、生まれて初めて抱いた感情だ。
     その感情によって、死ぬ直前になって、衝動に駆られた。
    「馬狼俺を撃て」
     声が鋭く大きく響いた。一瞬不可解な表情を浮かべた傲慢の魔王の身体に、黒い雷が迸る。
     咆哮を上げ、強引に身体を捻じ曲げた。強引だった為皮膚と肉が裂けたが、傲慢の魔王は止まらない。右腕に集中した黒い雷が、光と音の衝撃を伴って放たれた。黒い光によって視界が焼かれる。衝撃は駆け巡る。太陽光を放つ壁にも、強化ガラスの檻にも、結界を張った高見台にも、全てに奔った。光が止んだ頃に、目を開けると、天井にいくつも穴が出来上がっていて、直撃した床部分は濃厚な硝煙が漂っていた。
     全身で息をする傲慢の魔王を拘束する鎖が条件を満たした為に動き出す――――片方の瘴気が消えたと判断すると自動で起動する――――生き残った方の魔王を引きずり、鉄の箱の内側に引き入れた。傲慢の魔王が完全に内部に収納されると、蓋が締められる。ばたん、と、重たい音を響かせた。
     凛は煙幕の中心を見据えた。直撃があった場所…そこには鎖の残骸だけが残されていて、怠惰の魔王の姿は消えていた。凛は小さく嘆息して、踵を返した。別の方向から突き刺さる視線の気配に振り返ると…糸師冴が凛を睨んでいた。
     凛は心中で思いっきり、ざまあみろ、クソ兄貴。と罵って、訓練の帰りのような軽さで施設を後にした。



     地獄。煉獄。黄泉。地底。死者の国。そこの呼び名は様々だ。比較的大多数が呼んでいるのは、地獄である。
     彼は地獄を歩いていた。地獄のどこだかは解らない。何せ、途方もなく広いので、現世の世界地図のようなものが出来上がっていないからだ。彼の仲間が制作途中であるが、六百年も費やしても完成に程遠かった。
     彼は地獄を歩いている。文字通り歩いていた。左足、右足、左足、右足、と一歩ずつ踏みしめて、彼の歩幅、歩調で、進んでいる。ただの歩行の動作である。
     彼は地獄を歩いていた。彼自身は人間の姿を維持している。彼は魔族の中でも最も人間に近い姿をしていた。魔特有の瘴気はほとんど微弱である為、一級退魔師であったとしても、彼が地獄に根を張る者だと気付くことは無いだろう。彼がうっかり傷を負って、黒い血を流さない限りは、まず気付かれない。
     彼は地獄を歩いている。彼が地についている足の周辺、いや、広範囲、推測直径五十メートル、彼を中心にして広がるものがある。黒い、闇の底のような黒さの、液状に近いもの。黒い血に近い。それはぼこりぼこりと泡を立てている。沼。黒い沼だ。底なしの黒い沼。彼が進めば進む程、沼は広がっていく。湧いて出てくる泉のように。
     彼は地獄を歩いていた。黒い沼は彼の力の一つであった。自然発生したものではない。彼の意志そのものである。彼が念じれば形を変えて矢のように襲い掛かり、全てを呑み込む。魔族を発見すれば、蛇のように伸びて絡み取り、引きずり込む。取り込まれた魔族は彼の体内に備蓄される。食い溜めだ。黒い血を浴びて彼の眷属となる魔族もいる。それは彼の選定である。人間を発見しても引きずり込む。そこで選択を強いる。魔か人か。前者を選べば黒い血を流し込まれて魔族に転化し、後者を選べば人のまま生かされる。だが、後者は勧められない。ここは魔族の発生地で、有象無象も含んで数多に存在している。彼らは共食いするが、共食いよりも、人間の方が高価であることを知っている為、人間を探す。探して、喰らうのだ。ならば人間である方が圧倒的不利だ。彼の手によって転換して眷属になった方が生存率が上がるのは確か。それか……万が一であるが…生前の罪が許されて昇天されるのを待つか。しかしそれは本当に奇跡の確率だ。彼も六百年以上地獄で活動してきたが、見たことがない。人とは罪深い生き物である。
     彼は地獄を歩いている。魔を取り込み、人を取り込みながら。彼がそうしているのは、彼に課せられた役割の為だ。彼はこう呼ばれている――――魔王、と。
     彼は魔王である。魔王は地獄を治める王である。彼はまだ地獄を統治していない。今、支配領域を広げているところである。こうして、地獄を歩き回り、攻略図を広げ、眷属を増やし、向かう敵を無情に喰い散らかしているのだ。彼はその時も、そうしていた。
     彼は唐突に歩みを止めた。目を見開いて、息を呑んで、耳を澄ませ、胸の中心を強く鷲掴んだ。そして、か細い息と共に声を吐く。
    「凪と、馬狼が、消えた…」
     彼には眷属が多く存在している。その中でも、抜きんでた力を持ち、魔王の座をかけて衝突し合う、魔王級が二体…それが凪と馬狼、怠惰の魔王と傲慢の魔王と呼ばれるものである。
     彼の瞳に光輪が発生した瞬間、瞬き一つで彼の姿は消失する。消えたのではなく、別空間に飛んだだけのこと。彼がいた場所は、元通りになっていた。彼が歩いていたとは思えない程に。
     地獄の一辺には、廃墟がある。元は栄えた一国の城である。幾度も戦いに巻き込まれた跡が色濃く残ったそこは、魔王の拠点であった。城にある玉座に、彼は座っていた。玉座は彼によく馴染んでいた。彼が馴染んでいるのではなく、王の席が彼によって馴染まされたが正しいかもしれない。玉座に坐する彼は酷く動揺している。
     ぬっと、影から現れた獣が四足歩行で彼に近づいた。その姿形は猫に似ている。火のような赤い体毛であるが、皮膚は鮫肌で、鋭利で巨大な爪が伸びている。しかし仕草は猫に似ている。猫のように、彼の足元に身体をすり寄せた。彼が手を伸ばして額を撫でると、ごろごろと咽喉を鳴らしているあたり、益々猫に近い。
    「黒名……頼みを聞いてくれるか?」
     がう。何があったと尋ねるように鳴き声を上げるそれに、彼は真剣な声音で言う。
     影がまた増えた。
    「おかえり」
    「どないしたん?」
     神父に似た格好の者を、彼は雪宮と呼んだ。もう一人の雪で出来た白い衣を纏った者を、彼は氷織と呼ぶ。
     彼は、感じたことを、何も飾らずに、そのまま答えた。
    「凪と馬狼の気配が突然消えた」
     雪宮は眉を不可解に潜めた。
    「それは…どういうこと?」
    「つまり、凪くんと馬狼くんがこの世界からいなくなったって、言いたいんやね?」
     雪宮では読解できなかったことを、氷織は的確に分析して読み取った。
    「それどういう意味?」
    「そう簡単に死んだとは思えんし、二人同時に殺されるとは思わんし、どこかで衝突して喰い合っとるにしてもそんな気配感じられへんし……考えられるのは一つやな?」
     彼が言わんとしていることを十二分に理解した上で、氷織は明確に告げた。
    「誰かが二人を同時に召喚した――――ってことやな?」
     彼は無言で肯定した。彼以外が、息を呑んで、驚きの反応を示す。
    「え?でも、召喚術は烏くん達が全部潰したって…今後二度と起きないだろうって、二子くんも言ってたんじゃあ…」
    「でも現時点で考えられるのはそれしかあらへん」
     事細やかに説明する氷織の声を、彼は耳にしていた。その最中のことであった。心臓よりも奥底の本能が強く打った。それは予感であり、兆しであった。誰かが深い傷を負った。自分ではない、他の誰か…彼の眷属の内の誰かの衝撃が、血を通して伝わった。それだけのこと。それは彼にとっては不吉の予感である。
     彼は予感した。凪と馬狼が危ないと。
    「清羅いるか」
     彼に応答して、天井より黒い影が傍らに着地した。吸血鬼と呼ばれる上級魔族に、彼は性急に指示する。
    「二子のところに行って現状を伝えてくれ」
     次に彼は足元の猫の魔族を抱き上げた。
    「黒名は玲王と千切のとこに行ってくれ。いいな?」
     がおと返答した。清羅もあいと頷いた。
     魔王の命を受けた二体は早急に動いた。黒名の体毛が火に包まれて、そのまま軽やかに飛翔した。高速で飛んでいく姿はまるで小さな惑星のようであった。清羅もまた無数の蝙蝠へと変化して、正反対の方角へと飛んでいった。
     二人とも無事でいてくれ。待っている間、彼は強く念じた。血を介して彼らを探す。彼の手を氷織が手に取って、同調を開始した。
    「やっぱ……どこにも二人はいない…」
     ならばやはり、氷織の仮説は正しかった。氷織と目線を合わせて暗に会話し、また気配を探る。
     突然、玉座の間の扉が乱暴に開いた。黒名を伴って、遠方にいた眷属が二人、舞い戻って来たのだ。
    「凪はどこだ」
     魔術師の姿をした魔族が焦燥に満ちた声を出す。
    「落ち着け玲王」
     赤毛の魔族がもう一人を落ち着かせる。
    「千切、玲王、来てくれてありがと」
     黒名が出立してまだ三十分も経っていない筈だが、こんなに早く来れたのは、黒名の速さと千切の俊足のお陰だと、彼は冷静に読み取る。
    「玲王。こっちに来てくれ」
     玲王はずかずかと足音を打ち鳴らしながら彼に近づく。氷織と重ねていない方の手を鷲掴んで同調を開始した。玲王が加わったことで、より広範囲に的確に凪を探知できる――――。
     彼の閉じた視界の裏に映像が映る。彼のものではない。彼と繋がった凪の視界だ。
     風穴があいた胸元に、手足と首を拘束する鎖、対峙する馬狼と…全身の皮膚から食い込む無数の銀の糸。
    「凪」
     玲王の叫びが木霊した。同じものを玲王も見て、血の気を引かせて混乱していた。
     それが手に取るように分かった彼は、素早く思考を展開させて――――状況を打破する策を構築する。
    「玲王。凪を召喚するぞ」
    「は…?」
    「お前ならできる。てか、お前にしかできねえんだ。早く!」
     玲王は直ぐに呑み込んで、彼から手を放し、召喚の儀を開始した。杖を召喚して掲げる。何もない空間に光る召喚術が発現する。怠惰の魔王を呼び出すための、正真正銘本物の召喚陣である。
     凪が馬狼の攻撃を受けたと同時に、召喚陣は発動した。
     光の柱が天を突いた。漆黒の光は嵐の余波を巻き起こして、城を揺らす。
     光が止んだ頃、召喚陣も消えて、代わりにぐちゃぐちゃに焼き焦げた大きな肉の塊が残っていた。辛うじて頭部だけは半分だけ原型を留めている。虫の息なのには変わらない。
    「い……ぁ…」
     焼き焦げて崩れ落ちた手を、彼に伸ばした。
     変わり果てた凪の姿に、動揺の波が広がる。
    「凪…」
     玲王も衝撃が抜けきれなくて呆然としている。その中で、動いたのは、彼が一番だった。
    「凪…っ」
     彼は顔を真っ青にして、全身を微動させた。玉座から矢のように飛び出して、崩壊した凪の肉体の上に手を置く。
    「凪ぃ…っ」
     彼の双眸からぽたぽたと涙が零れた。半分になった視界で、凪は安堵したように目を伏せて、彼の体温に残った身体を預ける。
    「凪…このままだと、死ぬんじゃあ…?」
     千切が顔面蒼白になっている後ろで、乱暴に開け放たれた扉から、また一人飛び込んできた。
    「オイ。何があった?」
     二本の大剣を背中に刺した、橙色の頭髪の偉丈夫が入ってくる。彼は現状と、凪と、それから凪に寄り添う彼を見て、事態の異変を察した。
    「千切、何があった?」
    「おせーよ國神!」
     千切が代わりに説明するよりも先に、彼は凪の蘇生から始めた。
    「お前は…絶対に、死なせないからな。凪…」
     凪の真下に、黒い沼が現れた。ゆっくりと呑み込むそれを、凪は抵抗せず、受け入れる。つま先まで全部呑み込まれた直後、黒い沼は彼の中に還り、何も残らなかった。
     何も残らなかった――――それは語弊だった。言いようもない予感だけ、そこには取り残されたが正しかった。



     対魔王施設は半壊状態。傲慢の魔王は地下極秘封印室に封印された。
     負傷者多数。死者はゼロ。脱退者は百人を超えた。
     これほどの被害と結果を出したにも関わらず、長老達の頭の中は違っていた。彼らはこれを、“成功”だと受け止めていたのだ。
    「次は色欲と暴食だ」
     葬儀のような空気とは違って、彼らは上機嫌に頬を紅潮させている。
    「今回で魔王が対立関係であることが証明された。次は最弱と呼ばれる色欲と、暴食を傲慢にぶつける」
     魔王は七体。色欲、暴食、怠惰、傲慢、憤怒、嫉妬、強欲の七つの大罪を象徴する七体の魔王が地獄を支配していると伝承されている。怠惰は消滅。傲慢は完全封印。そして次は二体同時の召喚を試みる。それがどれほどの絶望を与えるのか、老人達は意にも介していない。その頭の中を占めているのは、金と栄誉しかない。
     性急な修繕工事が開始される。まだあの悪夢が続けられるのだと絶望し、脱退していくものが急増した。
     そんな中で、魔王相手にも引けを取らない実力を示した糸師凛の噂が本部だけでなく教会全体に広がっていた。
     凛に対する賞賛の眼差しが集中するようになるが、凛にとっては煩わしいものでしかない。彼らが向けてくるのは、一種の他力本願でしかなく、自分の限界を諦めている負け犬でしかないと、凛はそう感じるのだ。
     本部の中を歩けば、道すがら呼びかけられて、その度に歩みを止められる。鬱陶しいと全て無視を決め込んだ。日に日に凛に対する期待度が上がっているのは感じており、自分の目標の一つは達成されたことは掴んだ。だけどまだ足りない。ただの一級でしかないままでは、糸師冴に届かない。もっと、もっと実力を示さなければならない。次の魔王討伐作戦に参加して、証明しなければ。
    「オイ」
     考えに没頭しすぎていた思考が突然現実に引き戻された。気付いたら周りには誰もいなくなっている。背後からの気配に舌打ちを鳴らして振り返る。糸師冴がいた。
    「弱いもんイジメして持ち上げられて満足してんのか?」
    「あ?」
     突拍子のない暴言に、凛は蟀谷をぴきりと青筋を立てる。
    「魔王級の実力はあんなもんじゃねえ。あれは膨大な封印術で力が制限されていただけだ。お前じゃなくたって誰でも倒せた状態だったんだよ」
    「知るか」
    「いい気になってんじゃねえぞ」
    「結果的に倒したのはアンタじゃねえ。俺だ」
     冷徹な眼光に対して、殺気を含ませて睨み返す。水面下で激しく衝突した。
    「いい加減にしろ、凛。お前には無理なんだよ。こんなところまで出しゃばりやがった自業自得で潰れる前に家に帰れ。お前は所詮、俺の残り滓にしか過ぎねえんだよ」
     冴の言葉は、凛の勘を逆撫でした。凛は静かに激怒した。
    「うるせえ、クソ野郎。テメエが勝手に決めつけんな」
     絶対に潰す。テメエだけは、俺の手で必ず潰す。冴に裏切られた日からこの一年ずっと積もらせてきた爆発寸前の負の感情を一人に向ける。冴は涼やかに視線を返し、くるりと踵を返した。勝手にしろ。声なき兄の声が頭の中に響いた。



    「先ず前提が違うんだよね」
     そう告げるのは、謹慎中の長老、絵心甚八だ。秘書から今回の魔王討伐作戦の結果と次回の報告を知らされた絵心は、呑気に茶をすする。
    「前提というのは何ですか、絵心さん?」
    「うん?言葉の通りだよ、アンリちゃん。あいつらは前提から誤認している。だからあの施設自体、金と労力と時間の無駄なんだよ」
     絵心は呑気に茶をすすり、喰えない態度を続けてばかり。秘書は知っている。この御仁はいつだって核心を突いている。
    「先ずねえ、アンリちゃん…アンリちゃんは魔王が何体いると思う?」
    「え、それは…七体、ですよね?」
    「うん…それは本当に?」
    「え?でも、現実に、怠惰と傲慢は存在していましたし…」
    「それは本人達がそう名乗ったの?」
     アンリは悟った。そして、絵心が言わんとしていることを、理解した。
    「もう一度訊くよ……本当に、魔王は全部で七体いると思ってる?」
     明確な正解はどこにもない。その答えは地獄にしかないことを、思い知らされた。



     彼は地獄にいる。彼は拠点としている廃墟の城で、養生していた。魔族には本来養生など必要ないが、彼は例外中の例外である。
     城にはまだ彼が人間だった頃の名残がある。寝室には大きなベッドが置かれており、陽光の無いこの世界でも清潔に整理されている。ベッドの上に、彼は身体を丸めて、苦しんでいる。清水を溜めた水甕を持った氷織が、彼の傍らに腰をかけて、その背をさすった。
    「…水飲もうか」
     杯に水を汲んで手渡そうとしても、ふるふると首を横に振られる。彼は不死身に近いとは言え、今襲撃に遭うと非常に危険な状態である為、気休めすらも必要だと、氷織は判断した。
     この地獄には、魔族以外に生物は存在しない。彷徨う人間は死んだ魂だ。生前に罪を犯したせいで天上に行けない者らは、皆ここに集まる。ここでは空腹を覚えるけれど、植物も獣も存在しない為、喰い合うしか生存できない。だが、この場所だけは違う。魔王の城には水も植物も存在している。それは、魔王が六百年以上かけて膨大な試行を重ねた涙ぐむましい成果である。
     氷織は氷の魔族だ。水は彼が作る氷を溶かし濾過して作っている。真水に近い清水、というべきだろうか。彼がいなかったら、植物の生成は不可能であっただろう。さらに言うとしたら、氷織は彼のもう一つの脳である。
    「ちょっとだけでもええから、ほら、ええこ」
     諭すように背中をとんとんと軽く叩いてやると、彼は緩慢に起き上がって、水の入った杯を受け取る。水を一口含んで、ごくんと嚥下した。胃に入った途端に、顔を歪めて、何かを掴むように手を伸ばす。手に取るように意図を察した氷織が銀の器を差し出すと、今しがた呑み込んだばかりの水を全部吐いた。
    「ごめん…」
    「つらいなあ。ごめんな。せやけどもう少しやから踏ん張りな?」
     うん…。嘔吐寸前の声を吐いて、またベッドに横になった。彼の顔色は酷かった。
     彼の様子を心配して、雪宮と黒名が寝室に入る。黒名は軽やかな動作でベッドに乗りあがって、ぺろぺろと彼の頬を舌で撫でた。
    「大丈夫かい?」
    「前と同じや。見てるこっちがしんどいわ」
     こればっかりは、氷織も雪宮も代わってあげられない。水も飲めないで日々弱っていく彼を見ていると、可哀想という感想が先に出てしまう。彼は大丈夫と言わんばかりに、黒名をぎゅっと抱き寄せて、炎のような温かさに身を寄せた。
    「二子くんが到着したみたいやから、僕、ちょっと話してくる。その間頼むで」
    「うん。黒名くんもいるし、任せてよ」
     がう。氷織に応答するように黒名が鳴き声を上げた。氷織は速足で出ていって、雪宮と黒名は彼に寄り添った。
     彼は消耗していたので、一時の眠りについた。夢を視た。厳密にいえば夢ではなく、血を通して繋がっている氷織の視界を眠りながら共有していた。
    「遅くなってすみません。しかし、事態は深刻です。急ぎ対策を練りましょう」
     前髪で目元を隠した魔術師に近い魔族が進言する。彼の名は二子である。一見人間のように見えるが、耳は尖っており、前髪に隠れた目は三っつあり、彼もまた異形であることが証明されている。
    「馬狼くんも封印されたまま拘束されていると、烏くんから情報が来てます」
    「僕んところにもや、二子くん。でも、その封印ももたんやろうなあ」
     氷織、二子、そして玲王が集まっていて、事態の情報共有をし、地上に残された馬狼の奪還と、これから起きる最悪の想定を見越した作戦を話し合っていた。
     氷織と二子は冷静に話し合えていたが、玲王だけ様子が違う。眉間に深く皺を寄せて、苛立っていた。
    「だったら簡単な話だろ…………教会をまた潰す。今度は再興不可能なまでに、潰す」
     剣呑に細めた目に眼光を宿らせて玲王は低く唸った。
    「いやいや、何言ってるんですか?そんなの建設的じゃないでしょ」
    「教会は大事な社会組織の一つや。潰してしまったら社会崩壊になるで?」
    「知るか凪は死んでたところだったんだぞ」
    「間に合ったからもうええやん。それに凪くんは今…」
     氷織が玲王を宥めようとするが、玲王は激情に駆られていて、聞く耳を持たない。
     それを視覚で共有した彼は、そっと目を開けた。
    「雪宮……玲王を呼んできてくれない?」
     吐いてしまったので嗄声になっている。消え入りそうに頼む彼に、雪宮は応える。
     それから時間が少し経過して、雪宮に連れられた玲王が入って来た。表情は怒りと焦燥のままであった。ありがとう、玲王と二人にしてくれ。彼が願うと、雪宮と黒名は従う。二人きりになると、彼は玲王を呼んだ。
    「玲王…怒ってる?」
    「…当たり前だ」
     彼を前にすると、玲王は堪えるような表情に変わった。仰向けになっていた彼は、玲王の手を取ると、腹に押し当てる。
    「ほら…わかるか…?凪も、心配してる…」
    「まだ小せえのにわかんのか?」
    「凪だから解るんだよ…怒る気持ちは解るけど、今は凪の為に耐えてくれ」
     彼の腹の中から響く胎動が、玲王に伝わる。玲王はさらに顔を歪めて、彼の手を取り、俯いた。
     彼の腹には凪がいる。ほとんど修復不可能な状態だが、彼が血肉をより分けることで、再生しているのである。とは言え、彼の状態はまだ深刻だ。言うなれば、人で言う神経節に近い。
     彼は察している。人間はまだ“魔王”を呼び出し続けると。凪と馬狼の次は…。



     修繕には六十六日を要した。かなり性急すぎた突貫工事であった為か、外観だけは元通りで、内側は修繕不足の状態だ。それでも長老達は構いはせんと強行したのだ。今回もまた三百人規模の一級退魔師が招聘された。無論、凛もその中に入っている。
     中央闘技場には鉄の処女が三箱配置されている。傲慢の魔王が入っている箱の対面に、二箱並べられた状態で、前回と同じく取引に応じた魔術師が魔王召喚の儀を執り行っていた。
     凛は一瞬だけ視線を逸らした。高台、ではなくその下方、一級魔術師の殿に、糸師冴が立っている。老人の警護を突っぱねて前線に出て来た…それはつまり、糸師冴も魔王を倒す気でいる、ということだ。
     そんなことさせはしない。傲慢も、暴食も色欲も、全部俺が殺す。残りの三体も俺が殺す。
     凛は確信していた。今の自分なら、魔王を殺せると。前回の戦線を通して、自分の武器が魔王に有効であることを証明した。凛は、魔王七体、自分一人で倒す気でいたのだ。
     召喚陣が形成され、鉄の処女の隙間から瘴気が漏れた。瘴気は漂い、傲慢の魔王の箱まで届く。箱の隙間に瘴気の残り香が入った瞬間、箱が酷く揺れ始めた。それは恐らく予兆であると、空気がざわつく。固唾をのみ、緊張感で強張り、冷たい汗を流し、足を微動させて、箱が開くのを待った。
     ぴたり。瘴気が止まった。ゆっくりと、鈍い音を鳴らしながら、二つの箱が開き始めた。



     時は遡り、地獄にて。
     玲王が落ち着いた後に、彼は二子と氷織を呼んだ。
    「二子…来てくれてありがとう」
    「お久しぶりです。やつれましたね?」
    「最近忙しくてさ…お前は相変わらずだな」
    「相変わらず、ですか。これでもレベルアップしてるんですけど?」
    「知ってる」
    「…まあ世間話はここまでにしておきますか。どうせ僕をここに呼んだのは、今後の対応策についてでしょう?」
     話が速くて助かる。彼は二子に対して信頼を置いた。
    「烏くんからの情報を共有しますと…どうやら教会は魔王を潰し合わせて自滅させようと考えてるようですよ」
     二子は飄々とした口調で告げる。その含みから、それが本懐ではないと、察する。
     確かに召喚して潰し合わせるなんて、効率的ではない。わざわざ人の世に召喚してまでせずとも、地獄で勝手に潰し合わせればいいだけのことなので、彼らに利点は無い。
     彼は悟った。
    「教会は…使役できる魔王を、作るつもりなのか…?」
    「考えられる可能性はそれしかありませんね」
     なるほど。魔には魔を。という訳か。
    「杜撰すぎるわあ。こんなん考える人かなりのアホちゃう?」
    「…で、凪はそれに利用されたってか?」
    「凪くんだけじゃなく馬狼くんも利用されたんですよ、玲王くん」
     一見穏やかに感じるが、毒舌のキレが増している当たり、氷織はキレている。玲王は言わずとも。それから二子も応戦する気でいる。彼は三人に任せることにして、少しだけ横たわった。
    「ひとまずは凪くんの回復に専念してもらわんとね」
     額にかかった前髪を、氷織の指が丁寧な仕草で払った。
    「でも完全じゃなくてもええよ。とりあえず形ぐらい戻ったぐらいでええやろ。あとは玲王くんに任せとき」
    「うん…」
    「とりま赤ん坊サイズで頼むわ。それぐらいだったら二か月で取り出せる」
     赤ん坊に戻った凪を、玲王は育てる気でいる。
    「それではその間、僕はしっかりと防衛線を張っておきます」
     と、二子が言った直後だった。
     おーっす!明るい声が分け入った。続いて、お邪魔―。と遠慮のない声。それから、お前らせめてノックはしなさい。と宥める声。
     懐かしい声は、彼を安堵させた。
    「蜂楽…」
    「おっひさー!」
     人懐っこさいっぱいの、彼と同じ年頃の少年の姿をしているが、その少年もまた彼の同族である。その証拠に、長い骨の尾が伸びていた。彼は少年を、蜂楽と呼んだ。
    「俺もいるんだけどー?」
    「寝てるところ悪いな」
     顔色を覗き込む千切と國神にも、彼は感謝の言葉を送る。
    「皆さん集ったところで、僕の考えた防衛線を発表します」
     二子は魔族でありながら魔術師だ。あらゆる時代の魔術に精通しており、知識ならば、玲王を凌駕する。教会が次に色欲と暴食の魔王を呼び寄せようとしていることも把握済みだ。
     二子と玲王が城に魔術を張り巡らせて、召喚を阻止する結界を構築している間、彼は体内に取り込んだ凪の回復を急いだ。彼の血肉は眷属にとって人肉に代わる食料となる。凪は体内で常に彼から血肉を流し込まれ、肉体を再生させられている途中だ。もちろん、本体にかなりの負担を課することとなる。その間、彼は無防備になるだけでなく、精神的にも消耗する。彼を支えたのは、長らく彼を支え続けた仲間であった。
     仲間の中に、イガグリと呼ばれる異質の魔族がいる。非常に弁が立つ男であり、ひょうきんな口調が彼のツボとなって、どんなにつらくても落語めいたことを始めたら、否応が無しに笑いを弾けてしまう。それが彼の安定剤となった。
     そして、人の世で言う、六十六日後。
    「始めるぞ。いいな?」
     玲王が指揮を取り、凪の取り出しが開始される。その頃には、彼の腹は、胎児一人分の大きさに膨らんでいた。胎盤というよりも、それは巨大な瘤に近い。しかし驚くことではない。大昔にも、彼は腹の中で凪を養っていたことがある。
    「ああ。頼んだぞ、玲王」
     血の気が引いた青ざめた顔で、彼は託した。
     寝床に仰向けになる。玲王が大きく膨らんだ腹をそっと撫でた後、研がれた小刀を握りしめ、呼吸を整えた後、覚悟を決めて刃を腹に突き立てた。
    「っ…ううう…っ」
     麻酔などある筈もなく、自刃による激痛が走る。凪を切らないように慎重に腹を突きさして、下方に向かって刃を押していく。彼の身体に大量の汗が流れる。痛みの絶叫を上げないように奥歯をいっぱいに噛みしめている。時折刃が止まりかけるが、渾身の力で腹に線を引いた。切り裂いた箇所に、玲王が手を突っ込んだ。内臓を直接弄られる激痛で絶叫が上がる。彼は思わず玲王の肩を左の手で掴み爪を立てたもの、玲王は痛みを感じる様子はなくさらに奥へと手を入れる。ばたばたと暴れる右の手は氷織が握りしめた。
    「ファイトや!頑張れ!」
     氷織の声援に、脂汗まみれの顔を懸命に頷いて答えるが、襲い掛かる激痛に涙を流した。
     玲王の手が、瘤の内側に入り込んで、眠る凪の身体を両手で支える。
    「よし、引っ張るぞ」
     切断線から、凪を力づくで取り出し始めた。無論、普通の人間では許されない所業である。彼だからこそ許された行為だ。断絶魔の絶叫が城中に木霊した。あまりにも悍ましく凄絶な悲鳴に、寝室の外で待っていた彼の仲間達はぞわりと身の毛がよだつ想いであった。あまりにも酷かったので、氷織が自分の腕を噛ませて、舌を噛み切らないように予防する。
    「あと少しだ凪、テメエもさっさと出てこいこいつが死んでしまうぞ」
     どんなに引っ張っても凪はてこでも動かず、埒が明かないと、玲王は直ぐ外で待機していた國神の名を叫んだ。
    「どうした」
    「頼む、手伝ってくれ」
    「うっす!」
    「俺も行く」
    「俺も」
     國神だけでなく、蜂楽と千切も加勢して、玲王の腰を國神が引っ張り、國神の腰を千切が引っ張り、千切の腰を蜂楽が引っ張る。
    「せ~の」
     うんとこしょよっこいしょうんとこしょよっこいしょ四人分の掛け声が響いた後、大きな株かいっと氷織の突っ込みが炸裂した。
     最中、彼と手を繋いでいた氷織は、彼の頭に直接語りかける伝達を受け取った。
    「二子くん始まったで」
     氷織の声に応じて、二子が杖を高く持ち上げた。
    「了解です。防壁魔法発動!」
     二子と玲王が構築した超高度結界が城を覆うように展開された。幾百の魔法陣を連結させた超防壁結界。外界からの敵は愚か、内部に潜む敵をも跳ねのけるだけでなく、この結界内で発生した魔術を全て無効化する効果を及ぼす。これにより魔王召喚術が遅れを取る結果となった。
    「玲王くん、今のうちに、早く」
     氷織が急かす様に叫ぶのに対して、玲王は既に全力を尽くしている。凪の癒着の方が強いせいだ。
    「いい加減にしろ凪お前がずっとそこにいたら、こいつが危険なんだよ」
     瘤の内側で眠り続ける彼に叱咤の声を上げながら、重心を後ろに傾ける。國神も全身の筋肉を全稼働させ、千切と蜂楽も全力で傾く。一方で寝室の外で見張り番役の雪宮と黒名が右往左往しながらも声援を送り続けた。
     その甲斐もあって、切断線から、まず小さな足がはみ出た。あともうひと踏ん張りうんとこしょよっこいしょうんとこ…しょおおお雄たけびを上げて踏ん張り続けた。足が出て、腹が出て、最後に頭が抜けた。その瞬間、黒い血まみれの小さな身体が泣き始めた。うおっ。う。ぎゃ。げふ。折り重なるように倒れた國神らの上に、玲王が赤子程の大きさのものを掲げて尻もちをついていた。
    「やった……凪、生まれた…っ」
     疲労感よりも感動の方が強く湧き出て、不思議な感情に掻き立てられた玲王は、血塗れのそれを両腕に大切に抱いて、凪と呼んだ。
     ほっと安堵のため息が多数同時に吐かれた。彼もまた解放されたことで、達成感に満ちた顔を浮かべる。
    「凪は…?」
    「無事やで」
     ほら。頑張ったな。と玲王が凪を隣に寝かせて見せた。初めて自分で呼吸をした赤子のように泣きわめくそれを、彼は安堵の表情で見つめ、その頬を撫でる。よかった…。ひどく嗄れた声で呟いた。強引に開いた腹は瘤が無くなったことで、再生を開始する。
     汗だらけで消耗しきった彼の顔を、玲王は真剣な表情で見つめ、決意したように口を開いた。
    「…あのさ、すっげえ恥ずいこと言うんだけどさ、やっぱり、俺…」
     直後。彼の真下が光で満たされた。
     それも一瞬のことで、驚愕している間に、光と共に彼は消失した。
     彼の姿も気配も探すもどこにも感じられず、動揺が広がる。最悪な事態が起きてしまったのだ。
    「な、なんで…召喚防止は完璧だったのに…っ」
     顕著に動揺していたのは玲王であった。ざわつく空気の中、母を求めるような泣き声が甲高く響く。
    「こうなってしまっては致し方ありません。玲王くん、第二陣発動です!」
     この瞬間を想定していた二子が冷静に切り出したことで、玲王は切り替えた。
    「蜂楽くん!千切くん!國神くん!」
     二子は三人の名前を呼び、高く杖を掲げた。すると、三人の足元に光が発生した。
    「頼みましたよ僕らの王も一緒に」
     おう異口同音の応答の後、三人の姿も光と共に消失した。



     開いた二つの鉄の箱から、ぼたぼたと何かが地面に零れ落ちた。よく見るとそれは、黒い液体のようだった。それは泉のように広がった。それから、ずるりと這い出るように何かが出てくる。ばしゃり、と黒い液体を跳ねらせて落ちた。二つの箱から同じものが出ていた。想定していたものを裏切るそれは、まるで肉塊のよう…よく見ると心臓の鼓動のように動いている。生きているのだと知らしめされる。
     魔王を呼び出した筈なのに、出て来たのは生きた肉塊だ。二つの箱から全く同じの質量のものが現れた。召喚されたという証拠に、肉塊に鎖が伸びている。まさかあれが魔王というのか。いやそんな筈はない。失敗したのか。混沌とした混乱の渦が巻き起こる。目にした者はこぞって驚愕の反応を示す。凛も例外ではなく、糸師冴も愕然とそれを凝視した。
     ただ一人、カイザーだけは、口元を吊り上げて笑う。待っていたと、口元が微かであるが、そう動いた。
     ずるり、ずるり。二つの肉塊が惹かれ合うように蠢く。ずるり、ずるり。芋虫のような体動で距離を縮めていく。ずるり、ずるり。その間、誰も微動だにしない。それらから目が離せない。あれは何だ?一体何が起こっている?混乱する思考で、それを凝視する。やがてそれらは合わさって、重なり合う。ずるり、ずるり。どくん、どくん。ずるり、ずるり。どくん、どくん。肉と肉が繋がりあって、引っ付いて、一つの大きな肉になっていく。その質量は、人一人分の大きさと重さ。黒い血塗れになっている。一つになると、盛り上がる。ぼこり、ぼこり。ぼこり、ぼこり。それを目撃した者は皆、思うことは一つ。何度もその言葉が浮かんでは消えて、浮かんでは消えてを繰り返す。一体何が起こっているのか?と。
     肉だったものは形を成していく。筋肉と内臓と骨。背中の骨から血管と神経が伸びる。次に皮膚が生まれ、体毛が生える。一つの大きな肉だったものは、人に近い形になっていく。再三言おう。一体何が起きている?
     それは完成した。それは限りなく人だった。それは一つの身体だった。
     見てくれは明らかに少年である。着るものもなく、全身が黒い血塗れになって人相がよく見えない。その四肢と首には鎖が着けられている。しかも二体分。うつ伏せに倒れていた少年は、呻き声を上げながら、緩慢な動作で上半身を起こした。面を上げて、視線を集中する人間達を、少年は視線で一巡する。どこからどう見ても、ただの人間の少年にしか見えなかった。
     さらにまた言おう。一体何が起こっているのか?
     どういうことだ?魔王じゃないのか?人間にしか見えないが?いや待て、先程のを思い出せ。人間が真っ二つになって再生すると思うか?だったらあれが…?
     動揺を隠せず、口々に言い合いながら、その少年を見る。少年は疲れた様子で見まわして、正面の鉄の箱を見やる。
     果たしてあれは何なのか?あれが、魔王だと、いうのか?魔王にしては、非力すぎやしないか?怠惰と傲慢とまるきり違うぞ。もしあれが魔王というのなら、色欲と暴食、どっちなのか?色欲にしては貧相すぎる、それに男の身体だ。暴食にしても細身すぎるぞ。本当にあれは一体なんだ?
     混乱の最中、一人だけ光悦に笑う者がいた。カイザーだ。カイザーだけが、笑みを深くする。その笑みを発見したものはいない。彼の忠実な従僕以外は。
     少年は立ち上がろうとするが、動けない様子だった。鎖が重すぎるのだろう。鍛えてはいるのだろうが、明らかに重量過ぎる。鎖を外そうとしているが、やけに動きが鈍いのは、消耗しているせいか。やはり、明らかに怠惰と傲慢よりも非力すぎる。本当に、これは。
     がんがんがんがんがんがんがんがんがんがんがんがんがんがんがんがんがんがんがん。
     解放されていない箱が唐突に激しく揺れ出した。内側で大暴れしている衝撃が外にまで漏れている。まるで豪雨のように音が木霊している。少年に反応したのは明らか。内側からの衝撃で鉄の箱が歪められていく。そして、強引に箱が開かれた。
     内から飛び出した傲慢の魔王が荒々しい獣のような咆哮と勢いで少年に飛びつく。その剛腕で少年の首を鷲掴み、つるし上げた。かは。吊り上げられた少年から空息と苦痛の呻きがこぼれる。傲慢は目をぎらぎらと輝かせ、この世の憎悪を全て詰め込んだ顔で睨み、半開きの口からは獰猛な息を繰り返している。巨躯から夥しい瘴気がただ漏れで、強化ガラスに施された聖術の陣が直接触れた訳でもないのに多発していく。明らかにその首をへし折ろうとしていた。あんなか細い首では一瞬だ。
     思考停止していたのは高見台の長老らも同じ。長老長がへし折られそうな少年を見て、慌てて声を上げた。
    「わ、わけわからんが、日光パネルを起動させろ」
     百パーセント稼働だ壁が一斉に裏返り、人工太陽光が発せられる。魔を滅する光は中央に集中する。傲慢の皮膚を灼き始めた。そう、傲慢の、皮膚を。
     糸師冴は瞠目した。糸師凛も瞠目する。目の前の現象に目を疑った。驚愕したし、愕然ともした。そうせざるを得ないものが、今目の前で起きている。
     魔王級を苦しめた筈の人工太陽光は少年にも反射されている。だというのに、少年の身体には何の影響もない。少年には全くの効果が見当たらないのだ。
    「嘘だろ」
    「何なんだあいつ」
     冴も、凛も、驚愕を隠し切れない。感情を面に出さない二人であるが、それほどの衝撃を、今、身をもって味わっていたのだ。
     バロ…っ少年の首が、ぼきりと、直角に折れた。絶命。傲慢は止まらない。絶命した身体を地面にたたきつけた。何度も、何度も、叩きつけた。黒い血が跳ねあがって飛び散っていく。まるで人形のように叩きつけた後、頭を足で踏みつぶした。嘔吐の声と匂いが漂う。目をつぶっていた長老らはそろそろと目を開けて、傲慢に潰された死体を目にして、さっと青くなる。
    「一般人を殺したとなると責任問題になるもう一度傲慢の封印作業を再開させろ」
     だが、彼らの表情はまた一変する。あれを。指差された方を喚き散らしながら目にする。頭を潰された身体がぴくりと動いて、脳を失った身体が動き出す。流れる黒い血が欠損部に集中し始める。丸い形となって、肉と骨と内臓と脳を再生させる。元に戻った。見かけだけではない。動かないと思っていた少年は何も無かったように動いていた。間違いなく人ではない。人であったのならあり得ない現象だ。間違いなく、あれは、魔王――――。
     傲慢が咆哮を上げる。激怒の咆哮だ。少年を目にして暴れ出したのも合点がいった。それでもなお、あの少年が魔王だなんて、信じられないでいた。
     う、ううううう。少年が突然蹲りだした。身体を丸めて苦悶している。口から溜まった血を吐いたがやはり黒かった。明らかに苦痛を訴えている。傲慢は見下しており、獰猛に燻っていた。今にでも襲い掛かって、食いちぎりたいと、殺意を隠しきれていない。殺す、喰う。獰猛な息に紛れておどろおどろしい声が漏れているのは勘違いではない。
     しかし、傲慢の爪が伸びる直前、少年の三方が輝く。黒い魔法陣だ。上級魔族の召喚陣。光によって遮られ、強風が吹く。傲慢の身体が後方に押し出されていく。光が止んだ。瘴気が増した。少年を囲む新たな上級魔族が出現している。一体は巨躯の戦士に似た魔人、一体は赤い体毛の豹に似た魔獣、一体は異形の影を纏わせた魔族。
    「國神…千切…蜂楽…」
    「大丈夫か?」
     三体は明らかに少年を守ろうとしている。新たなる魔王か?そう疑う者もいたが、糸師冴と凛は違うと断定する。傲慢が唸る。おどろおどろしい声音で。
    「退け、雑魚共。邪魔すんじゃねえ」
     傲慢の身体に赤い雷が奔る。臨戦態勢。瘴気が渦を巻く。強大な瘴気の渦なぞもろともせず、戦士の魔人が傲慢に向かって大剣を振り下ろし、拮抗する。
    「ちとばかし急かしすぎじゃないか、キング」
    「退け筋肉だるま」
     傲慢が吠える度に瘴気が苛烈になる。ガラスの檻ががたがたと揺れる。ガラスだけでなく、人工太陽光も、天井も、地面もだ。怠惰・傲慢戦よりも明らかに苛烈だ。長老長から臨戦態勢が命じられる。前線が聖符を飛ばして結界を強めるも、抑えきれていない。
     赤い豹の魔獣が巨躯で少年を庇い、異形の影を纏った魔族が魔人に加勢して、傲慢と渡り合う。瘴気と瘴気がぶつかり合い荒れ狂う。結界を強化した筈なのに瘴気が漏れ出ている時点で時間の問題だ。冷静に分析したのは凛ぐらいだ。
     てか。あいつらさっきから何してやがる?魔族達の衝突を分析する。あの三体はどうやって現れた?結界内は魔術無効化の陣を多く連結させており、魔族召喚は無効にされる筈。いや、それよりも、あの三体を分析しろ思考しろ。あれは何だ?あのオレンジ頭も、赤い猫も、影みたいなアレも、あのチビを守っている。あれは魔王で合っているのか?魔王だ間違いない。魔族が魔族を守ることはあり得ない。あいつらは常に対立する。協力することはない。そのあり得ないを象徴するのが魔王だ。傲慢の反応が怠惰よりも著しいってことは、あいつの方が格上の存在。あいつを殺すことは…できる。再生はする。だが、それも無限じゃない。現に弱っている。弱るということは消耗するってこと、有限ってこと。再生力を上回る攻撃で攻めればきっと。
     赤い豹が鎖を噛み切ろうとしている。少年を傷付けないように爪と牙を立てている。火花が弾けるも、鎖はびくともせず、赤い豹は苛立っている様子だ。少年は蹲っていて今にも倒れそうなぐらいに弱っている。魔人と魔族と傲慢の戦いは、二対一であるにも関わらず、互角。よく見ると、傲慢の方が優勢だ。傲慢の目は二体を見ておらず、少年に釘付けだ。強引に二体を押しのけて、突進していくところ、魔獣が立ちはだかって庇う。
    「どけ、お嬢」
     傲慢の咆哮に威嚇で応じる。魔人が背後から大剣を薙いだが、傲慢は腕を犠牲に止めた。
    「うぜえ…うぜえ…いいから早く、喰わせろおおおおおおおおおおお」
     赤い雷が奔った。もし結界が無ければ天を衝いていた。それほどの威力。赤い雷は結界を破壊した。嵐が吹き荒れた。衝撃の余波によって生まれた荒れ狂う瘴気の業風だ。前線は吹き飛び、後列をも吹き飛ばす。凛は態勢を低くして耐えた。何て威力だ。やっぱりあいつ、怠惰の時は本気じゃなかったのか?傲慢(あいつ)の引き金を引いたのは、やっぱりあいつ。あいつはやっぱり魔王だ。だけどあいつは何もしないのか?
     凛の疑問は正しい。同じことを糸師冴も思考している。糸師冴は最後列で機会を伺っている。いつでも魔王の首を獲るつもりでいた。そうでなければ、見逃したら、見誤ったら、あいつは、凛は――――。
    「突っ立っていたら危ないぞ、冴!」
     背後から首に腕を回される。鼻に掠った濃厚な薔薇の香りが、冴の勘を逆撫でした。
    「今の俺に触ると腕一本じゃすまさねえぞ、クソ青薔薇野郎」
    「はは。クソ殺気立ってたら勝利の女神も実家に帰るぞ?」
     計らったような頃合いで、冴に回す腕は、馴れ合うものではなく、妨害。カイザーの悪癖をよくよく知っている冴は、冷ややかな殺気をカイザーに向けた。
    「そんな焦るな。もし、お前の弟が本物だったらこんな試練乗り越えられるだろ?知ってるか?神は乗り越えられない試練をお与えにならないだ」
    「殺すぞクソ野郎」
    「やってみろクソ天才」
     冴とカイザーが水面下で衝突する中で、退魔師らは陣営を組みなおした。包囲するように立ち回り、幾万の聖符を投げ飛ばす。神の御子がこの世に残した御言葉を記した紙が傲慢と魔人らに向かって放たれる。傲慢の首がぐるりと回転し、大きく口を開ける。
    「邪魔だっつってんだろ雑魚共」
     赤い雷が傲慢を震源地にまた奔る。聖符は焼き焦げ、意味を為さない。隊列を組み、銀の狙撃銃で一斉射撃を開始する。数多の銀弾が傲慢の身体を貫いていく。少年は魔獣に守られ、また大剣を盾にした魔人と黒い影を盾の形にして守る魔族に庇われる。身体を貫かれても、太陽光で皮膚を灼かれても、傲慢は、止まらない。
    「良いぜ…かかってきやがれ…そいつの前に、お前ら全員を狩ってやる…っ」
     傲慢の矛先が退魔師らに転換された。少年は守られながらそれを察知した。胸を強く抑え、身体を大きく仰け反り、絶叫を上げた。
     その瞬間。黒い沼が現れた。少年を中心に広がり、呑み込んでいく。まず鉄の処女が呑み込まれた。黒い沼によって鉄は押しつぶされ、機能を失った。少年と傲慢を拘束していた鎖が砕け散った。次に傲慢に襲い掛かった。傲慢は忌々しく睨んで少年へと特攻するも、足元を取られて、そのまま沈んだ。沈んだ傲慢はそのまま地獄に還された。
     黒い沼は次に建物を喰わんと波打った。飛沫を上げて、蛇のように伸縮し、天井を貫いていく。人工太陽光は半壊。天上も壊れ、夜天の月が覗く。
     それだけでは、黒い沼は、止まらない。建物破壊の後は、人間達に、牙を剥いた。
     避難勧告が発令された。己の身を第一に、逃走が開始される。阿鼻叫喚の悲鳴が幾重にも木霊して、修羅の巷と化した。長老達も逃げている。彼らよりも先に逃げていた。彼らは心に刻んだ。魔王は決して呼び出してはならないということを。自分達の無知を恥じた。その教訓は教会の規律に刻まれることとなる。
     カイザーの腕を振りほどいた冴は逃げ惑う群衆の中で一人を探す。広い視野を動かして、一人だけ逃げなかった者を発見した。
    凛は一人、逃げずに、その場に残っていた。好機を窺っていた。魔王の隙を、獣のように息を潜めて待っていた。
     あいつは弱ってる。これは生存本能からくる暴走だ。あいつは制御できていない。必ず隙が生まれる。
     隙を狙う。荒れ狂う黒い水しぶきの中心にいる魔王だけに集中した。魔王が両膝を叱咤させて立ち上がろうとしていたのを見た。凛には気付いていない。三体も、凛よりも魔王に気を取られている。
     今だ。
     凛は駆けた。その瞬間を、冴は見逃さなかった。
    「凛」
     冴の声はかき消された。黒い血の攻撃を避けながら、一気に駆け抜ける。黒い沼は凛の足場を避けるように退いて行く。出来上がった陸地の上を駆けながら、銀の糸を操作して、魔王と三体を拘束する。魔王の目が凛に向いた。瞠目している。凛の攻めに不意打ちを喰らった表情。いける。魔王に届く。銀の剣を抜いて、魔王に迫る。
    「行くな、凛」
     冴の声は凛には届かない。凛の刃があと少しで魔王に届く―――――。
    「――――ダメだ、来るな」
     少年が凛に向かって叫んだ。少年の声は凛の頭によく響いた。
     あと十歩―――――というところで、腹に熱と衝撃が走った。
     少年の凍り付いた表情を一瞥した後、視界を下にさげる。自分の腹を、黒い槍が貫いている。足場の黒い血が侵入者を排除しようと、槍の形となって凛の腹を貫いたのだ。熱いのと痛いのが同時に襲い掛かるのと、傷口から黒い何かが体内に浸食するのが同時だった。
     凛。兄の声が、やっと凛の耳に響いた。
     凛。また声がする。強くて優しかった兄の声だった。
    「にいちゃ…」
     意識が暗転し、身体から力が抜けた。黒い沼の中に、凛の身体が倒れた。
     冴は表情を変えて、人込みをかき分けながら駆ける。柵を飛び越えて、中央闘技場に一息で着地した。
     黒い沼は潮のようにひき始め、少年の中に戻っていった。少年は立っていた。少年の横に魔族らが立っている。彼らの目線の先に、凛が倒れていた。凛の様子がおかしいことに、冴は気付く。
     う…う、うあああああああああああああああああああ
     断絶魔が響く。凛の絶叫。冴は瞠目した。
     凛の身体が変貌した。骨が巨大化し、皮膚を破る。手足は歪に伸び、爪は獣のように生え変わり、歯も全て犬歯となった。全身の皮膚は焼き焦げた鉄のように錆びはじめ、目もどす黒く染まる。
     凛だったもの。凛であったもの。糸師凛であるが、糸師凛ではなくなった。
     人が魔族に生まれ変わる瞬間を、冴は目の当たりにした。同時にそれは、弟の喪失だ。
     凛だったそれは人間の血肉に反応してぐるりと身体を旋回した。冴を発見すると、獣の四足歩行の態勢で威嚇した。鋭い牙からだらだらと涎が垂れ流れる。それは人の血肉に反応していた。塗り替えられた本能に、人は餌であると、植え付けられたのだ。
     瞠目する冴に向かって飛び掛かろうと咆哮を上げた。
     地を駆けようとしたところで、中途半端な態勢で転倒した。
     何が起きたのか、それは、少年が凛の本能を止めたのだ。凛の中に流れた魔王の因子に働きかけて、強制的に停止させた。凛だったものはそれを知らない。
     それから魔王はもう一つ働きかけた。静かに目を閉じて、凛の中にある黒い血を通して、記憶を覗き込んだ。凛の中に溢れていたのは、兄の記憶だ。
    「そっか…凛は、兄ちゃんに認められたかったんだな」
     霞みかかった思考に記憶が走馬灯のように流れていく。凛の、大事な記憶、兄との思い出、兄と語り合った夢。
    「にい…ちゃ…」
     意識が沈んでいく中、足音が聞こえる。兄が目の前で、倒れている自分を、見下ろしていた。兄の顔が見えない。
    「……魔王の出現で、魔族による被害は激減し、魔術師も数が減っていった。ここにいるのは金のことしか頭にねえクソ爺共と才能をもて余らせた天才しかいねえ…俺の後を引っ付いて回るしかねえお前なんかが、こんな場所でやっていける訳がねえんだよだから辞めろって言ったんだろうが」
     兄の声が聞こえる。痛そうなのをずっと我慢してたような声だ。言葉は聞き取れなかったけど、自分を想っての言葉であるのだろうと…凛はそれだけで満足した。
     よかった。兄ちゃんは、俺を捨てた訳じゃなかったんだ。
     よか…た…。



     凛を挟んで、冴は魔王と対峙した。一度火が付いた激情は止まらない。
    「オイ。魔王…凛に何をした?」
     少年は答える。
    「お前の弟は俺の血を傷口から受けた。俺の血は人を魔族に変える。“色欲”の力だ」
    「あ?“色欲”?テメエは“色欲”の魔王か?」
    「『色欲』も『暴食』も、残りの罪も俺のものだ。『怠惰』と『傲慢』も俺から生まれた。お前達が伝承する七体の魔王というのは、俺が持つ七つの側面だ」
     最初から魔王は一体しかいない。伝承は全て偽りである。人が安易に魔王を召喚しない為の虚偽であった。
    「凛を戻せ。今すぐに」
     今までに感じたことのない昂りが爆発寸前だ。
     少年は、一瞬だけ表情を変えた。
    「…無理だ」
    「無理って何だ?」
    「魔族になった人間は、元に戻らない。元に戻ったところを、俺は見たことが無い」
     冴は昂りに身を任せた。凛を飛び越え、少年の間合いに入り込み、額に銀の拳銃を突き立てた。
    「無理じゃねえ。やれ。出来なければテメエをここで殺す」
     美学を捨て、感情を顕わにして、激情のままに動いた。
    「俺は死なない。今まで誰も俺を殺せなかった」
    「それでも絶対に殺す。凛を、人間に戻せ」
    「そんな方法があったらとっくに使ってる。無いんだよ、そんなのは」
    「無いんだったら探せ地の果てまで、地獄の果てまで、付き合え、クソ野郎」
    「それは、俺と契約するってことか?」
     少年の目が据わる。冴の怒りは最骨頂に達した。
    「あ?誰がテメエと契約すっか。ふざけんな、ぶっ殺すぞ」
     冴の怒りの感情をもろに浴びた少年は、目を見開いた。
    「契約しないで、お前は俺を傍に置くのか?」
    「違う。テメエは俺に服従するんだよ。凛を人間に戻すまで、テメエは俺の駒だ」
    「俺を駒って…お前、正気か?そんなんあり得ないだろ…」
     少年の首を掴むと、引き寄せて、額に押し付けた銃口を強く食い込ませた。
    「よく聞け。俺は魔族(お前ら)が嫌いだ。今すぐ魔族(お前ら)を皆殺しにしてもいい。だがな、魔王(お前)がいなけりゃ凛はずっとあのままだ。凛を嫌いな魔族(お前ら)と一緒にしてられっか」
     もう一度言う。テメエは凛が人間に戻る方法を探すまでは、俺の駒だ。
     少年は呆気に取られた様子であった。控えていた仲間達を制していた手を下げると、冴を真っすぐ見つめて応える。
    「いいぜ。乗った。俺はお前につく」
     冴はおぞましいものを見るような目で魔王を見下して、手を放した。
    「テメエの名は?」
    「え?」
    「契約の代わりだ。答えろ」
     魔族と契約の際は魔族の名を知る必要がある。本来ならば必要は無いが、これから行動を共にするには、名は不可欠。
     天才退魔師に、魔王は、その名を明かす。
    「潔、世一だ」
     贖いの始まりだ。
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