種芽吹く時を待ちながら 生々流転。すべての物は絶えず生まれては変化し、移り変わって行くこと。
クロの頭越しに、見慣れた4文字が目に入る。ちゃんと覚えていたはずなのに、追いつけていない自分がいる。
普段の何気ないじゃれあいの中で、知っていたはずの体温が、いまは妙に冷たくて。
(……違えな、俺が熱いのか)
「先生」
何年も呼ばれ慣れたはずの声が、初めて聞くみたいで、否、数年前に一度だけ、覚えがあった。
「好きです」
思考が停止した。今、なんて? 鍋をかき混ぜる手も止まる。
「先生、シチュー焦げますよ」
すぐそば、隣から聞こえるいつも通りのその言葉に、はっと慌てて調理を再開する。いつも通り。そう、きっと、好きなのはこの鍋の中身のことで。
「うぉっと!」
いつも通りの慌てた声を意識的に上げて、木べらで鍋の底を擦るようにかき混ぜる。料理に集中しよう。美味いものを腹いっぱいに食べさせてあげなければ。いつも通りに、普段と同じだ。
「……聞いてます?」
「聞いてる聞いてる、わりぃ、ちょっとぼんやりしてた。もうすぐできっから待ってろ」
「いえ、鍋の話じゃなくて、僕の告白をです」
鍋の方に向けて倒れ込まなかっただけマシだった。思わず崩れ落ちて頭をキッチン台に打ち付けてしまう。幸い鍋が倒れることはなかったが、耐震装置が働いたのか、ピーっという警告音と共に、調理器のスイッチが切れる。
「大丈夫ですか」
打撃とか痛みには慣れているから身体的なダメージは大したことはない。ただ、こんなサプライズには慣れてない。
「クロ、お前、好きって、告白って、な、何? どーゆーこと?」
「わからないんですか?」
正直、そんな冷たい視線と呆れた声音を浴びせられながら言われると、余計わからなくなる。
「あんまり普通の流れで言うからだろ!」
「なら、夜景の見える展望台とか海辺とかで言えば良かったですか? 似合わないしそんなところで騒いだら、他のカップルに迷惑です」
「クロ、本当に俺が好きなのか?」
「はい」
きっぱりあっさりと断言される。自分よりかなり低い位置から見上げられる視線は、いつも通り揺るがない。
「本気です。冗談なんかじゃありません。いつもモテたいモテたいとぼやいている先生を憐んで言っているのでもありません」
「本当に俺が好きなの……?」
先程から到底そうとは受け取れない相変わらずの的確な暴言を浴びせられ続けている気がする。
「……言葉だけでは信じられないですか?」
一見変わらない表情に、悲しみや悔しさが滲んだ、ように見えたのも一瞬。小さいのに自分より遥かに力強い右腕に掴まれ、引き寄せられる。引っ張られるままに傾いた上体を今度は左腕で押さえ込まれ、情けない悲鳴を上げかけて。
時間が、止まりかけた。
「好きです」
目の前、お互いの鼻の高さの分だけの距離しかないところから、クロの三白眼に射抜かれる。蛇に睨まれた蛙のように、身動きができなくなる。あるいは、四肢を縛られて祭壇に載せられた羊。
「わからないなら、わかってもらいます。わかってて、嫌なら拒否してください。無理やりはしません」
踵を浮かせ、ゆっくりと詰められる距離。体幹がしっかりしてるから、背伸びしてもバランスを崩さないんだな、なんて感想が頭の中を走って消えていく。有無を言わさないのに、それでも逃げる余地を与えてくれることはわかる。
けれど、やたら落ち着いていても、おそらく自分より遥かに頭が良くても、思春期の少年だ。芽生えたばかりの衝動を、上手く制御できていないのか、いつもより呼吸が荒い。
怖い。正直一瞬、そう思った。
同時に、クロがここまで望むなら、なんでもあげたい、とも。
(ダメだ!)
その目に飲み込まれそうになって、はっと我に返る。慌てて顔を少し後ろに引き、間を掌で遮った。一瞬、クロの唇が手に触れる。他人の口なんて治療の範囲でならいくらでも触るし、なんならクロの口に指を突っ込んだことだってあるのに、まるで触れた手のひらに心臓がもうひとつできたみたいだった。クロもはっと我に返ったように、ぱっと身体を離した。支えを失った体がバランスを崩して、なんとか踏みとどまる。
「……嫌ですか。そうですよね。ごめんなさい」
その無表情な顔に、はっきりと浮かぶ落胆。無かったことにしてください、と言わないのは、彼の誠実さゆえだろう。その明晰すぎる頭脳は、これからのことを考え始めているのかもしれない。衝動的に想いを伝えてしまい、勢いのままにキスを迫って、拒絶されたら。
この子はもうここには来なくなるかもしれない。居場所をひとつ、失うかもしれない。それも、同じくらいダメだ。
「嫌、っつーか、ダメだ、クロ、それは」
ばくばくと音をたてる心臓に合わせるみたいに、声が上ずって細切れになる。それでも、絶対に伝えなければならないことがある。あの拒否は、嫌悪ではないことだけは、絶対に。
「お前の気持ちが嫌なんじゃねえ、でも、これは、ダメだ」
「まだお付き合いさせてもらっていない相手に、キスをしようとしたことですか?」
「彼氏でもねー相手にあんな血走った目で頭掴んでいきなり迫られたら、誰だって怖えよ」
「……本当に、すみません」
数秒、クロにしてはゆっくりとラムネの言葉を反芻してから、しょげて落ちてしまった視線に、だんだんとこの体から逃げ出してしまっていた平常心が帰ってくる。ただ、こちらは人として、しっかり教育しなくてはならないところだ。例え、クロが迫った相手がラムネではなかったとしても。
「一応確認しとっけど、他の奴相手にやったことはねーな?」
「ありません。先生が初恋です」
直球の言葉に、やはり手のひらにではなくてちゃんとこの胸に鎮座していた心臓が、口から飛び出しそうになる。ゆっくり呼吸してそれを押し戻すと、なんとか平静を保って。
「……今後そういうことはしねーって約束できんなら、もう大丈夫だな」
そう言えば、こくりと頷く。迫られているときはあれだけ大きく、少し恐ろしくさえ感じたクロは、いつも通り自分よりずっと小柄で、年若い少年だった。しょんぼりと肩を落としてしまったその姿はどうにも所在なさげな様子で、むしろいつもよりも小さく見えるほどで、ぽんとその肩を軽く叩いてやる。
「クロー、いつまでしょげてんだよ。ちゃんと反省したんだろ? なら、もういいって。ほら、もうすぐ飯できっから、座って待ってろ」
「……はい」
素直に座席について、ゆっくりと呼吸をして、それから。
「それはそれとして、僕の気持ちは嫌ではないって言いましたよね。それは、OKってとらえて良いんですか?」
「うっ」
「うってなんですかうって。告白の答え、まだちゃんともらっていません。……まさか、誤魔化そうとしてなんかいませんよね? いくら先生が気になる女性の彼氏の有無を中学生に聞いて来させようとするような世に稀に見るヘタレでも」
「し、してねーよ!」
「なら返事ください。……断っても、いいですから」
そこまで言うわりになんで俺が好きなんだ、だなんて、こんな顔を見て、こんな声を聞いて、言えるものか。後半はいつになく自信がなさそうで、歯切れが悪くて。もしかしたら先程の件のことも引きずっているのかもしれない。反省しているならひとまず問題はないし、賢い子だから、ちゃんとわかっただろう。このこと自体は、断る理由にはならない。
ただ、断らなければならない理由は、他にもいくつもある。悲しませたくはないけれど、それでも。
「……悪ぃ、お前とは、付き合えねぇ」
距離はあるけれど、しっかりと、目を見て答えた。唇をぐっと引き結ぶのが見える。
「理由を……教えてください。どうしてですか」
「クロを、そういう目で見れねーから 」
青天の霹靂だった。すぐ殴るし切れ味の鋭すぎる言葉を浴びせてくるし軽蔑の視線を隠そうとはしなくても、とても慕ってくれているのはもちろんわかっていた。けれど、それに、こんなにも切実な感情が含まれてるなんて、想像したこともなかった。
それに、そもそも、クロはまだ中学生だ。
「どうしたら、好きになりますか?」
どうするのが一番はっきりあきらめてくれて、でもここにはいていいんだと伝わるだろう、などと考えていると、クロは席を立って再び目の前にやってきた。
じっと目を覗き込まれる。適当な言葉で誤魔化すことは、できそうになかった。
「……クロがまだ、未成年だから、恋愛対象にはできねーんだよ」
心から、大切には思っていても。助けるためなら自分の身なんていくらでも投げ捨てることができても。だからこそ。
そう言った時にクロの顔に浮かんだのは、悲しみではなくて、落胆と若干の怒りだった。
「馬鹿にしてるんですか?」
ぐ、と胸ぐらを掴まれて、着物が大きく乱れた。その気になれば肋骨を簡単にへし折れるだろう拳が、心臓の上あたりに当たって、思わず身が竦む。
「僕は本気です。気の迷いとか勘違いなんかじゃない!」
「んなこと言ってねーよ、お前が本気だってのはちゃんとわかってる」
「だったらどうして」
「大人がガキをそういう意味で好きになんのは、ダメなんだよ!」
「だからなんで!」
「お前、クラスに幼稚園児と付き合ってる奴いたらどう思う?」
「ドン引きします」
「だろ?」
「先生、僕はもう」
食い下がってこようとするのを手で制した。中学生は、本人達が思っているよりずっと子供だ。だけど本人たちの気持ちとしては一人前になったつもりでいるから、一番危なっかしい年頃でもある。
クロの想いを、子供の勘違いや気の迷いだとは思っていない。だけど、クロをそういう目では見れない。応えることはできない。
「いやマジでクロも大人になったらわかるよ。中学ん時に学年で一番大人っぽい女子と付き合ってた中年教師から滲み出る特有のキモさとか」
「先生が気持ち悪いのは今更です」
「キモさの方向性が違ぇーんだっつーの! つかさっきから酷くね!?」
熱烈な愛の告白と辛辣な暴言の温度差で、熱帯魚だったら死にそうだ。幸いにも人間なので軽い涙目で済んでいるが。
「とにかくだ! クロの性格とか俺を好きなのが嫌とかそーゆーことじゃねーんだよ! だから付き合うのは無理だけど、これからもずっとここに来ていいから!」
言わなければならないことはなんとか全部言った。どれだけ素直に受け止めてくれるかはわからないけれど、これだけは伝えなくてはならなかった。
クロは俯いて、数秒考え込んでいるようだった。伝わっただろうか、緊張しながらも、その顔が上がるのを待つ。そして。
「なら、僕が大人になってからだったら、十分可能性はある、ということですか」
「えぁ?」
「先生がどうしても僕を恋愛対象として見られないのは、年齢のせいだけなんですよね」
気圧されて、曖昧に頷いてしまう。
「だったら、大人になったら……僕が高校を卒業した次の日に、改めて告白します。必ず落としてやります」
一歩、距離を詰められて、触れるぎりぎりの距離で。
「覚悟していてください」
下から覗き込む強すぎる視線に味覚中枢が焼かれたみたいに、その日の夕食は甘いような辛いような苦いような、よくわからない味がした。
次の日からも、それまで通りの毎日が続いた。その間にも様々な患者が訪れ、ひとつひとつの症例と向き合ううちにみるみるクロは知識を身につけていった。背中を預けたり、任せられる用事も増えていった。学校での彼の様子は断片的にしか知らないが、相変わらずの文武両道ぶりで、また少しずつ友達付き合いも広がっていっているようだった。本人が嫌がって見せてくれないから青菜に頼んで見せてもらった学校行事の写真には、数人の集団の中で、一見わかりづらいながらも楽しそうにしている姿が写っていた。背丈も伸び、僅かに声も低くなった。日々少しずつ、着実に、クロは成長していった。どんどん世界を広げていった。純粋に嬉しかった。
その間、この夜の出来事に、クロが触れることはなかった。
だから、冷めたものだと思っていたのだ。忘れてはいないにしても、初恋の思い出ぐらいにして。なのに、いま自分を見つめる眼は、あの日よりもずっと、熱に満ちている。
「好きです。あの頃からずっと、先生が好きです。先生が危ないことをしようとしたって、ちゃんとサポートできるぐらい強くなりました。もしも変な患者さんや、その周りの人から危害を加えられそうになったとしても、必ず守り抜きます」
実際、そんな場面は何回かあった。純粋なステゴロなら誰にも負けないし、きっとツキノワグマぐらいなら余裕だろう。ことあるごとにラムネにお見舞いしてくる肘鉄やそれなりにいい音で頭を叩く時に、どれほど力加減をしてくれているのか、わからないつもりもない。毎回それなりに痛いけど。
「隣で支えさせてください。大切にします。必ず、幸せにします」
その言葉に、ああ、やっぱりまだ若いな、と思った。必ずとか絶対とか、そんな強い誓いを、臆面も恐怖も保証もなく口にできるのは、まだ折れたことがないからだ。
だけど、彼がその言葉を口にするまでに、どれだけの努力を、研鑽を積み重ねてきたのか。何年も、想いを募らせてきたのか。それを考えたら、呼吸が少し苦しくなった気がした。それだけの想いを口にしないでひたすら自分の中で煮詰めながらも、それが理由で病に取り憑かれることもなかった心の強さ。
必ず落とす。そう口にしたあの日から、その誓いと願いはずっと、たったひとり、自分にだけ向けられていたのか。
目の前にいる若者へ、もう幼い子どもではないクロへ、これまで抱いてなかったはずの感情が、弾けるみたいに湧き出してきた。
ずっとそばにいた、ずっと大事にし続けてきたクロに、この瞬間、鮮烈な一目惚れをしたかのようだった。だけどきっと、ずっと、その種は蒔かれていたのだろう。自分には気付かれないように、クロによって、ひっそりと、ひとつずつ、着実に。大人になって、その種に水をやったなら、一斉に恋が芽吹くように。
クロの顔がまっすぐ見られない。いい歳してそんなことで照れてどうすると思うけれど。
「……………………いい、よ」
それだけ、なんとか絞り出した。これほどまでに想い続けてくれた相手の「好き」に返すには、自分の口にする「好き」では、全然つり合わない。だから、それだけ。
「……嬉しいです。でも、僕の顔ちゃんと見て、しっかり言ってください。ほんとヘタレですね」
「…………るっせーな」
それでも、そのクールで静かな声にはっきりと歓喜の音を乗せて、クロが微かに笑ったのがわかった。
クロがくれた想いに、釣り合うものを返してあげたい。きっとクロが積み足し続けてきてくれたそれは、あの頃よりもずっとずっと、たくさんある。どれぐらい愛せば、足りるだろうか。
「先生、いまなら、もう良いですよね」
痩せっぽちの腰に触れていた手が、そっと離れて頬に触れた。
「キスしたいです」
あの頃よりもずっと穏やかに告げられた欲求に、確かに彼は成長したのだと知る。クロが望むなら全部あげよう。上手く声が出てこなくて、頷いて、しなやかだけどしっかりとした筋肉のついた肩に手を回すことで、返事の代わりにした。
真正面から射抜いてくる三白眼に、思わず目を閉じた。丹己ほどではないけれど、視覚以外の感覚が鋭敏になる。クロの匂いがする。クロの呼吸を、頬で感じる。
クロと交わした初めてのキスは、卒業祝いに作ってあげた、甘いケーキの味がした。