祈りにも似て非なるもの この人は、放っておいたら、あっという間に自分の目の前から消えてしまうのかもしれない。それに気がつくのに、一年以上かかった。
今思うと、ふと気がつくと包帯を巻いていることが頻繁にあった。陰茎が竹輪になるほど下衆な男に怪具の説明をするためだけに、平気で己の腕を爛れさせた。患者を庇って崖から落ちた挙句、自分の命よりも患者の治療を優先した。
それまで節々で感じていた違和感が、繋がりはじめた。あんなに怖がりのくせに、あれだけ、他人思いのくせに、他の人には自分を大切にしろと言えるくせに、この人は、自分自身のことを、まったく大事にしていない。人を救いたいという意思を徹底的に貫いているという意味では自分の心はとても大切にしていると言えるのかもしれないが、あまりにも身体に、命に、無頓着過ぎる。
誰かが大事にしてあげないと、簡単に、先生は、この世からいなくなってしまいかねない。油断して目を離したら大切なものが失われるということは、友達の頭のキラキラの件でだって思い知らされている。この世界は、そういうふうにできている。
だから、ちゃんと見ていなければ。今日も治療で無茶をしすぎて体力もないのに一日中走り回る羽目になり、挙句軽いとはいえ怪我までしてしまい、時折痛みを堪えるように息を吐きながらカルテを書く姿は、本人は満足げだけれど、ひどく痛々しい。彼のために牛乳をレンジで温めて持ってきたときには、殆ど気絶するようにして、机に突っ伏してしまっていた。
普段の居眠りなら毛布をかけるぐらいのところだけれど、今日は暫くしっかり休める体勢にしてあげたい。布団を敷いて、持ち上げた体は、自分よりずっと身長が高いはずなのにひどく軽くてぞっとした。これっぽっちの質量が、自分の世界のあまりに多くを占めていることに恐怖した。脂汗を拭いてあげているうちに触れてしまった左胸の鼓動が、急に止まってしまいそうに思えて、この小さな音が動かしている命は、先生自身だけではないのかもしれないとすら感じた。つい先日一緒に銭湯に行った時にはなかったはずの、小さく焼け爛れたような痕を見つけた。これがいつどうしてついたのかを、クロは知らない。心がひどくざらりとした。
「先生」
寝かせておいてあげたいのに、つい、名前を呼んでしまった。
「僕がもっといろいろできるようになれば、先生が無茶しなくて済みますか?」
情けない言葉が零れ出す。どうか、本当に眠っていてほしい。もし聞かれていたら、恥ずかしさは以前狸寝入りにまんまと引っかかったときの比ではない。だけど、この言葉が届いて欲しいとも思う。
傷つくところは見たくない。悲しむところも見たくない。怯えるところは……まあだいたいはびびってるだけだから実害ないしいいか。他人の悪意にも曝されないでほしい。
いなくならないで。いつも笑っていて。診察室の椅子に座って、境内の掃除をしながら、キッチンで料理をしながら、
(僕の、隣にいてほしい)
「!?」
その言葉は口から出ることはなかったのに、思わず口を覆った。自然に思考を満たした願いに、自分で驚いた。この人は恩人で、いつだって導いて背中を押してくれる師で、
(好きな人、だ)
急に速度を上げた心臓が、自分のものじゃないみたいだった。
手のひらに触れてみた。自分よりずっと大きな手は、温かった。指を絡ませてみた。少しごつごつとした、大人の指だった。実感があった。ちゃんと、先生はここにいる、確かに生きている。
離したくない。眠っている先生のその指は、クロが力を抜いたらすぐにほどけて落ちてしまう。
強くなりたい。
この手を離さないでいられるぐらい強く。腕を捥がんとするなにかがあるなら、それから守れるぐらい強く。あの日自分を救ってくれた、この手をずっと、握っていたい。
「先生」
好きです、の言葉は飲み込んだ。沸き上がるこの感情をどうしていいかわからない。なくしたくない。ずっとそばにいてほしい。触れていたい。こっちを見て笑っていてほしい。ここにいてほしい。守りたい。守ってくれた、ここにいさせてくれた、あなたを。
痩せた掌を両手で包み込む。跪いて祈っているみたいだと思った。祈るだけで救われるなんてないことは、よく知っている。
だから願う、誓う。
「もっと、強くなるから、絶対、守りますから」
握った手を、額に寄せた。言霊は取り消せない。口にしたからには、成し遂げるのだ。なにをしてでも。
「ここにいてください」
手のひらの体温が、触れた手首から伝わる脈動が、その誓いを聞き届けてくれるような、そんな気がした。