ねこじゃらし この日ササライの興味を惹き付けたのは、宮殿の中庭に迷い込んでいた一匹の猫だった。
薄茶色の長い毛に鮮やかな緑の目を持つやや大きな体躯の猫。
艶のある手入れされた毛並みと警戒心なく足元に擦り寄る様子を見るに、飼い猫であるのは間違いはないようで、ササライはこの迷い猫の情報を宮殿内外に掲示し、飼い主が名乗り出るまでの間、宮殿で保護をすることを決めた。
その話をササライの部下から聞いたとき、ルックはまた兄の悪い癖が出たと呆れはした。
けれどさして関心は持たなかった。迷い猫がどうなろうとしょせんは他人事であると考えていたからだ。
しかし、夜になりルックが兄の部屋の扉を開いた瞬間に中から聞こえてきたのはやけに陽気な兄の笑い声だった。
こんな時間に誰かいるのだろうか? それにしても随分と親しげな――と、訝しむルックが目にしたのは、大きな猫と戯れるササライの姿だった。
「ハハッ、擽ったいって~……」
室内に響き渡る声はいつになく上機嫌だ。
部屋の中心に置かれたソファの上で膝に猫を抱えるササライを猫を膝に抱える姿を呆れ見ていた。
「にゃあ」
と、これぞ猫撫で声といった風に鳴く猫は、前足をササライの肩に乗せるようにして後ろ足で立ち、青い法衣で包まれた首に頭を擦り寄せていた。
尻尾をピンっと立たせてはゴロゴロと喉を鳴らして、甘えたかと思えば、頭を撫でている手を急に噛んでみたり。
反射的にササライが手を引けば、その手を前足で掴み舐めてみたり――猫はササライが手にした猫じゃらしにじゃれつき夢中で遊んだりと、忙しなく動き回っている。
ササライはといえば、そんな猫の気まぐれさに完全に心を奪われ、上機嫌に笑っては飽きずに猫を構っていた。
ルックがこの部屋に訪れてから既に一刻は経っていた。
いつものようにドアを開けたルックを真っ先に出迎えたのは、ササライではなく足元に擦り寄る猫だった。
別に猫が珍しいわけではないが、単純に「なんで猫が……?」と、戸惑い立ち竦むルックに対し、猫を抱え上げたササライが事の経緯を話してきた。
「兄さんが世話する必要あるのかい?」
一通り説明を聞いて、ルックがそう訊ねると、ササライは猫に頬を擦り寄せ「可愛いだろ?」と、全く噛み合わない答えを返してきた。
は? 眉を寄せたルックが聞き返すも、ササライは「ん? お腹空いたかい?」と気にも留めずに猫を構う。
その後は言わずもがな、ササライはルックに目もくれずに猫ばかりを見ていた。
「――ねえ、そろそろ休んだらどうだい?」
「うーん、もう少しだけ……」
「にゃっ」
「そっか~、お前ももうちょっと遊びたいか~」
「…………馬鹿じゃないの?」
猫が鳴く度に締まりのない笑顔を浮かべ、猫に負けじと猫撫で声で話すササライを冷ややかに見つめ辛辣な言葉を吐く。
「ほら、お前が離してくれないから、ルックがヤキモチ焼きだしたぞ」
「な――っ、兄さん!」
しかし、ササライは飄々とした態度で悪態を受け流し、抱え上げた猫とともにルックをチラリと見た。
図星を刺されたルックはカッと頬を染め、つい声を荒げた。
「別に、ヤキモチなんて……」
「ん? また遊びたいのかい?」
「兄さん!」
話聞けよ――ルックは頭を押さえて深くため息を吐いた。
今のササライにはなにを言っても無駄だ。そうと分かっていながら、諦めきれない自分に嫌気がさす。
それまで使っていた猫じゃらしは既に萎れていた。ササライはそれを床に投げ捨てると、新たな猫じゃらしを手に取った。
「――いくつあるんだよ……」
ルックとササライの間には少々大きめの花瓶がひとつ置かれていた。花瓶に挿してあるのは花ではなく、大量の猫じゃらしで、きっと浮かれたササライが部下に命じて集めさせたのだろうと容易に想像はできた。
まさか、この猫じゃらしを使い切るまで遊ぶつもりなのだろうか? だとしたらキリがない――。
一時的な保護だからって些か待遇が手厚すぎやしないか? 無駄に広い室内を見渡してルックは小首を傾げた。
食卓も兼ねた円テーブルの横に置かれた餌台。見た目で分かる程に高級な皿が二枚並べられ、今はどちらも空ではあるが、ルックが訪れた直後は新鮮な牛乳とそこらの兵士の食事よりも丁寧に調理された魚の切り身が用意されていた。
天蓋付きのベッドの横には上等なクッションの置かれた寝床まで……ただの猫にそこまで、と思わずにはいられなかった。
「わっ、ちょっと……痛いって……」
ルックを放ったまま目の前でイチャつく一人と一匹。ざらついた猫の舌で唇を舐められ身を捩るササライを見て、ルックは呆れてかぶりを振り立ち上がった。
「先に寝るから――」
「そう」
おやすみ――驚く程にあっさりと、ササライはルックに一瞥もくれることなくそれだけ言うと、また猫を抱え上げてふわふわの毛に頬を寄せる。
「――っ」
先に寝る――そう言い切った手前、引くに引けなくなったルックは乱暴にコートを脱ぎ捨て主のいないベッドに向かった。
ソファの上で丸まり、寝息を立てる猫の背を撫でてササライは静かに微笑んだ。
ひとしきり遊び、食事を済ませた猫は大きな欠伸のあとに眠りに落ちた。
恐らくこのまま朝まで眠るのだろうか――頭を撫でてササライはゆるりと立ち上がる。
「さてと――」
普段は愛馬と伝令を担うナセル鳥以外の動物と触れ合う機会などなかったササライにとって、この忠誠心も警戒心もない猫は想像していた以上に愛らしく、他では得られない癒しをもたらした。
つい、構い過ぎてしまったという自覚はあった。
だからこそ、この後に待ち構えている現実から目を逸らすわけにはいかなかった。
確か、ルックは先に寝ると言っていた。ならば――と、ササライは広い室内の壁に沿って置かれたベッドへと足を向けた。
天蓋から垂れさがるカーテンを捲ると、ベッドの上に横たわるルックの姿を見つけた。
ササライに背を向け、毛布を肩までかけて眠りにつく弟。ササライはベッドに腰掛けると、ルックの肩にそっと触れた。
「ルック」
待たせてごめん、そう言いながら呼び掛け肩を揺する。しかし、ルックは微動だにしなかった。
深く眠っているのだろうか――否、きっと寝たふりだ。
整いすぎている寝相と寝息、ベッドの中心でササライに背を向け、身動ぎもしない頑なな態度。完全に拗ねている。
「――まったく」
子どもじゃないんだから――と、ふっと息を吐き、ササライは一度ベッドから離れた。ソファまで戻り、上に置かれた花瓶から猫じゃらしを数本掴み、またベッドへと戻る。
「ルック、ほら起きなよ」
ひねくれ者の弟の思考回路など、考えるまでもない。
こうして不貞腐れた態度でササライの気を引いて、甘やかされるのを待っている。
これにササライが反発したところでなんの解決にもならず、余計に拗れるだけであり、だからいつもはササライの方から折れてはルックの機嫌を取っていた。
しかし、それが毎回となると癪に障るのも事実だ。ただ猫と遊んでいただけであり、なにも悪いことはしていない。
構って欲しいのなら、そう素直に言えばいいだけのこと。彼がひねくれているのは十分理解はしているが、部下や友人、仕事に嫉妬するならまだしも、猫にまで嫉妬されてはかなわない。
「ルック、いい加減にしないと僕にも考えがあるよ」
わざと低く、怒気を含ませた声で最終通告する。
けれど、反応はなく、「できるもんならやってみろよ」と言わんばかりの無言の背に、ササライは、ふぅん……と頷き、手に持っていた猫じゃらしをベッドの上に置いた。
そのうちの一本を手に取り、ベッドに上がるとルックの背後に座り込む。
そして、猫じゃらしの先――花穂でルックの耳から首にかけてを擽った。
「ひぁっ」
上擦った悲鳴と、全身を跳ねさせたルックに、仕掛けたササライ自身も驚き肩を跳ねさせた。
暫しの沈黙のあと、急激に込み上げてきた笑いに、ササライは小さく吹き出し肩を震わせた。
「――――」
ルックはといえば、擽られた首元を押さえたまま動かず、こちらを振り向きもしない。心なしか耳が赤い気もする。
忍び笑いをしながら、再度、花穂をルックに近付けるが――。
耳に触れるよりも先に不穏な動きを察したルックにより、花穂を掴まれ、猫じゃらしは乱暴に引きちぎられた。
「あっ、ベッド汚すなよ」
これから寝るのに――と、シーツに散らばった細かな花穂を見て、ササライが文句を口にすると、ルックはフンっと鼻を鳴らし何事もなかったかのようにまた寝る体勢を取った。
「ふぅん……」
強情な態度にササライも苛立ちを覚え、大人げなくムキになる。
幸い、猫じゃらしはまだまだ大量にある。
もう一本猫じゃらしを手に取り、先程と同じようにルックの耳を擽った。
「――っ」
すぐさま伸びた手に掴まれ、またもやちぎられた。
懲りずに、また一本、ちぎられてはもう一本。
そのうちにルックは首を竦めて耳元を手で覆い隠してしまった。
ならば――と、ササライは今度はルックの頭上に被さる形で反対側に手を伸ばし、鼻先を擽ろうとするが。
「――――っ、いい加減にしろよ!」
「わっ」
花穂が顔面に触れた瞬間に、ルックは急に声を荒げ、ササライの手首を掴んできた。
勢いよく飛び起きるルックを見て、咄嗟に避けたものの、掴まれた手を強く引かれたことで呆気なくバランスを崩し、もつれ合うようにしてベッドの上に倒れ込む。
大きく弾んだ背中。気付けば、ササライはルックに組み敷かれていた。
「しつこいんだよ!」
「――っ、君こそ、猫と張り合うなよ」
仰向けに両手首を押さえられる体勢で、ササライは覆い被さるルックを見上げ、肩を竦めた。
いくらルックが力を込めたところで、双子故に二人の力の強さに大差はなく、振りほどくことは十分に可能だ。ササライが敢えてそうせずにいるのは、こうすることでしか自尊心を満たせない弟への情けがほとんどだ。
それを悟られぬように、ササライは力を込め抵抗するふりをした。
「別に、猫なんて――」
気にしていないと、目を逸らし大嘘を吐くルックに込み上げる笑いを抑えてササライは目を瞬かせ小首を傾げた。
「そうかい? なら、何故僕を無視したんだい?」
「ただ、寝てただけ――」
「君に無視されて、寂しかったんだ……」
そっと目を伏せ、全身の力を抜いて従順に――そしてしおらしく、語尾を弱めて訴える。
「確かに、猫ばかり構っていた僕も悪いさ」
けど――と、目を瞑り顔を背けて肩を落とす。
「兄さん――」
ルックの力が緩み、呼ぶ声も心なし穏やかになる。
もう一押し――。
「僕は君とただ――」
一緒にいたかっただけなのに、そっと手首を動かしてルックの手をほどき、自由を得た両手を神妙にササライを見つめる顔に伸ばす。
頬をひと撫でし、首に両腕を絡ませる。そっと力を込めて引き寄せ、口付けをねだった。
「――兄さん」
呼びかけとともに重なる唇。一度触れ合わせ、角度を変えてもう一度。それを数回繰り返したところで唇を離し、至近距離で見つめ合う。
細められた眼差し、僅かに染まる頬。先程までは威嚇ともいえる表情を浮かべていた弟は、今はただ無防備さをさらしているように思えた。
ササライの頬に添えられた手が優しく輪郭を撫でてきた。だから、ササライも身をゆだねるように、頬を擦り寄せるが――。
「ん、ぁっ」
不意に頬から離れた手がササライの鼻を抓んできた。軽く捻られ、つい身を竦める。
「その手にのるかよ。あと、悪いのは兄さんだけだ」
フンっと、ルックは鼻を鳴らし手を離した。
「……寂しかったのは、本当だよ」
嘘じゃない、と鼻を押さえてくぐもった声を出す。
「――そういうことにしておいてあげる」
譲歩してやる。そう言いたげにわざとらしくルックはため息を吐くと、もう一度ササライの頬に手を置いた。
「構ってほしいんだろ?」
上から目線の物言いに、若干納得はいかないものの、ササライは口元を綻ばせ頷いた。