五線譜と愛しい人 ある日の夜、店じまいを終えてごみを出しに外へ出ると人が倒れている。ぎょっとしながら駆け寄ると倒れているというより寝ているようで、ただの酔っ払いかと思いつつも無視はできないので一応声をかけてみる。
「なあ、起きぃって。こんなとこで寝たらあかんで」
声は届いていないのか反応はなく、仕方なく肩を揺すって再度声をかけるとゆっくりと開いていく瞼。切れ長のその瞳は寝起きだからかゆらゆらと揺れており、視線が合うと一瞬停止してそろりと口が開く。
「…だれ…?」
「そこで店やってるもんや。こないなとこで寝とらんと、はよ帰りや」
すると、ぽつっと鼻先に当たる雫。ぱらぱらと降り出した雨に、そういえば夜は雨が降ると予報が出ていたことを思い出す。それでも男は気にした様子もなく、また寝に入ろうとする。
「おいこらっ、起きぃって」
「…いいよ、別に。帰るとこなんてないし」
気にしなくていいから、放っておいて。そう言ってまた瞼を閉じる男。見たところ浮浪者っぽくはないし、歳だって同じくらいじゃないだろうか。こんな時間…といってもまだ夜の九時だ、外を出歩いていてもおかしくはない。酒くさくもないから別に酔ってるわけでもないんだろう。それでも帰ろうとしないのは、男が言うように本当に帰るところがないからか。ぐるぐると考えている俺に反して、男は微かに寝息をたてている。てか、行くとこなくてもこんなとこで寝るのはありえへんやろ。
「はあ…。しゃーないなあ」
男の傍に屈んでもビクともせず、こいつ本気で寝よるなと少し呆れてしまう。長い腕を首の後ろにまわして身体を引き上げ、よたよたと自分の店に戻る。裏口のドアを閉めて鍵をかけて店内まで運ぶも、一人で二階まで運ぶのはさすがに無理だし危ない。
「座敷つくっといてよかったわ…」
つい先日完成した座敷に腰かけてから横たわらせ、座布団を引っ張り寄せて男の頭の下に敷いてやる。そのまま上半身を屈ませて靴を脱がし、両脚をまとめて座敷に上げれば終了だ。
「…てかこいつ、俺よりデカいんやない?」
高校の時の成長スピードよりは落ちたが、未だにちょこちょこ伸びてはいる身長は187cmの後半。その俺よりも高いとなったら、下手したら190cmはあるのではないか。それでも体躯は俺よりも細く、指が長く綺麗なのが印象的だった。
◆◆◆
「治、そこで聴いてて」
だだっ広いコンサートホールで、観客は俺一人。正直ピアノなんて今まで縁がなかったし、曲なんて「ねこふんじゃった」くらいしか知らない。それでも、角名が奏でる曲は前奏から惹き込まれた。全体を通してテンポのいい明るい曲調だけれど、重厚感があるかと思いきや高音の鍵盤が踊って楽しげな曲に戻っていく。弾いている角名も嬉しそうで、目をキラキラさせて鍵盤に向き合っている。本当にピアノが好きなんやなって傍から見てわかる姿に、思わず表情が綻ぶ。それなのに、もう弾かない覚悟を決めていたのか。どこか既視感を覚えるそれに、俺はかける言葉が出てこない。
「っ、あー…弾いた弾いた!」
一曲弾き終わった角名は腰かけている椅子に両腕をついて脚を投げ出し、リラックスした様子でそう口を開いた。
「…俺ね、自分の曲って全然作れなかったんだ」
「そうなん?」
「課題曲とかは全然弾けるんだけど、いざ自分で曲作るってなったら難しくてさ。イメージも湧かないし、なんかありきたりになっちゃって作るの向いてねーわって思ってたんだけど。…治に会って、初めて曲が作れた」
─── 正直、まともに生きていけるなんて思ってなかったんだよ。家を契約してなかったのは敢えてだけど、スマホ替える時に入ってるアドレスは全部消しちゃったし、関西に知り合いなんていないし。このまま誰にも見向きもされずに消えていくのもいいかなーって思ってたのに、治が俺を拾ってくれた。初めは余計なことすんなって思ったけど、治が本当に優しいから。なんの見返りも求めないで、ちゃんと飯食えって母親みたいに口うるさくて、でもそれが次第に心地よくてさ。あったかくて、離れたくないなって思っちゃって。でも、今までさんざん治に迷惑かけてきたから。そろそろ潮時かなって思って、わざわざ今日来てもらったの。
「俺が作った最初で最後の曲。治のことを想って作った曲を、どうしても聴いてほしくてさ」
「…すな」
「これでピアノから離れても、俺はなんの未練もない。…ごめんね、最後まで俺の我儘に付き合わせちゃって」
でも、もう最後だから。そう言って笑った角名を見たら、身体が勝手に動いていた。コンサートホールの最前列から立ち上がって端に設置されている階段を駆け上がり、きょとんとしている角名の前に立つ。
「なんやねん、最後って」
「え…」
「ピアノだけ辞めるちゃうんか。…俺の前からも、消えるつもりなんか」
未練はないと、すっきりとした表情の角名が怖かった。こいつは、切り捨てる時は残酷だ。ピアノを辞めるから、今までの繋がりはもういらないからと住所も持たず、連絡先も消して知り合いのいない土地に来るくらいだ。俺のことも、未練がなくなったのなら思い残すことはない。知らない間にいなくなって、きっと連絡先を残すことも、二度と店に来ることもしないだろう。そんなん、俺は認めへんぞ。
「辞めたかったらピアノは辞めたらええ、そこは無理強いはせん。でも、俺まで一緒にまとめんでや」
たしかに出会いは突然だった。出会いとすら呼べるようなものじゃなかったけど、それでも俺はあの時角名に出会えたことを感謝している。見た目も、性格も、食の好みも、趣味も、一日の過ごし方も、なにもかも違う。全体のバランスを見て帳尻を合わせる俺に対し、角名はある一点にだけこだわりを見せた。それはコーヒーの淹れ方や味だったり、常備しておいてほしいアイスだったり、枕の種類だったり。面倒くさいと衝突するかと思いきや、俺にはない感性や視点を知れることが思いのほか嬉しくて。きっとそれは角名の性格や雰囲気のせいもあったとは思うけど、それでもすんなりと受け入れられた事実は変わらない。合わなかったら衝突しかしてこなかった俺が、イラついたらあーそうかとスルーしてきた俺が、角名に対してはそんなことにはならなくて。
「…おらんくならんでや。ピアノが弾けんでも俺にはなんも関係あらへん。俺はただ、角名と一緒におりたい」
目を瞠る角名の横に陣取って座り、真っ直ぐに瞳を見つめて訴える。ゆら、と揺れる瞳に、角名の唇が戦慄く。
「ば、かじゃ、ないの…。俺は、ピアノをとったら、なにもできないのに…っ」
「違う楽器やりたなるかもしれんし、全然興味なかったこと挑戦したなるかもしれんやん。まだなんもやってへんのに、諦めるんは早いで」
「っ、でも…っ」
「俺は、角名がピアノ辞める決意してくれてよかったと思っとるよ」
「……よか、った…?」
「やって、そうやなかったら角名と会えへんかったやろ」
経緯がどうであれ、角名がどんな思いを抱えていたか今は知らないわけではないが、それでもその決断をして行動してくれたから俺と角名は出会えた。やから俺は、角名がピアノを手放してくれてよかったという思いが強い。そう言えば、角名の瞳からはぽろぽろと涙が零れ落ちる。
「…おさむ、やっぱりちょっと変わってるよ」
「なにがやねん」
「……辞めること喜ばれたの…おれ、初めてだ…っ」
肯定されたことなんてなかった。辞める選択肢すら用意されなくて、俺の意志を尊重すると言っておきながらも期待のこもった無言の圧は変わらなくて。ピアノが嫌いになったわけじゃない、ただ潮時を自分で決めただけ。いつまでやり続けようって明確に決めてたわけじゃないけど、もう満足かなって思ったから切り出したのに、誰も理解してくれなくて。「なにを考えてるの」とか「まだまだ上にいけるのに」とか、いろんなやつに言われた。上にいくことなんて望んじゃいない。俺はただ、ピアノが楽しかったから弾いてただけだ。有名な音楽院に行きたいとか、あの人の指導を受けたいとか、自分のコンサートを開きたいだなんて思ったこともない。元々飽き性の俺がこれだけ続けられたのは、ピアノが楽しくて仕方なかったからなんだよ。そんな単純なことさえ、理解してくれないの。
だから、逃げるように連絡を絶った。唯一残したのは、今まで撮った写真だけ。だって写真はなにも言わない。「どうして」も「なんで」も言わずに、ただそこに在ってくれるだけだから。だからこの先、俺のこの決断を肯定してくれる人なんているわけないと、そう思ってたのに。
「別に嫌いになったわけやないんやろ?やったら、たまーに触ったりしたらええやん。たしか近くのバーにピアノ置いとったはずやし」
「…う、ん…っ」
「俺もな、ずっとやってたバレー辞める時いろいろ言われてん。バレーは今でも好きやし、嫌いになったわけやない。ただ俺はずっと飯に関する仕事やりたかったから、バレーは高校までやって決めててん」
やから角名の気持ち、俺はようわかるわ。そう笑ってくれる治に、また涙が溢れて止まらない。頬を伝う涙の筋を親指で拭って、目尻にそっと吸いつかれる。驚いて止まった涙に、「あ、止まってもうた」と残念そうな治。
「角名の涙は甘いなあ」
「…そんなわけ、ないし」
「甘いって。ほら」
そう言って、ちゅっと重なった唇。一瞬だけ触れたそれはすぐに離れ、甘さなんてわかるはずもない。「な?甘いやろ?」と同意を求められるも、生憎とそれに頷けるだけの判断はできなくて。
「そんな一瞬で、わかるわけないじゃん…」
「…ほんなら、わかるまでしよか」
再び塞がれた唇は仄かに熱をまとっていて、食べられてしまうんじゃないかと思うくらい情熱的だった。ちゅっ、と触れ合わせるバードキスだけでは飽き足らず、息継ぎのために僅かに開いた隙間を縫って分厚い舌が入り込んでくる。唾液をまとった舌が絡み合うたびにくちゅ、といやらしい音が耳を刺激して体温が上がっていく。逃がさないように抱き込まれた身体は治に密着していて、身動ぎすらもままならない。それでも、その拘束が嫌じゃなかった。だから、どんどん欲が出てくる。もっと抱き締めてほしい、もっと触れ合っていたい、…もっと、治と一緒にいたい。
「…おさむ。…俺、治の傍にいてもいい…?」
「ええに決まっとるやん。言うたやろ、角名と一緒におりたいって」
優しく撫でられる掌があたたかくて、また涙腺が緩んでしまう。まるで赤子を相手にするような優しさに気恥ずかしいとともに、心がじわじわと解れていく。
「一緒におろうや、角名。ずっとずっと、俺の傍におって」
「っ、いたい…、治と、ずっと一緒にいたい…っ」
「心配とかいらんで。やって俺、もう角名んこと離す気ないしな」
今さら後悔しても遅いからなとおどけて笑う治に、俺も小さく噴き出す。春の陽気に包まれているかのようにあたたかく、心は凪いでいる。こんな気持ちになったのはいつぶりだろうか、ひょっとしたら初めてかもしれない。…初めて、だったらいいなぁ。そうしたら治へのこの気持ちが、より深くに刻まれる気がするから。
「…俺、治を好きになってよかった」
「フッフ。俺も、角名を好きになれて幸せや」
引き寄せられるようにまた口づけて、このまま溶けてしまえたらいいのにと、バカみたいなことを本気で思った。