転生追いかけっこ 将監は公園のベンチに腰かけて、夕暮れに染まる空を見上げていた。周りからは子供達が遊ぶ声が聞こえる。その楽しげな声に、ふと目を閉じれば心の奥で眠っていた記憶が疼くように蘇った。無邪気に遊ぶ子供たちの甲高い声が、過去の泣き叫ぶ声と重なる。前世の記憶はときおり将監にフラッシュバックを引き起こした。それは耐え難い苦痛であったが、罪からは逃げられない。将監は何とかやり過ごして、ふと目を開けた。
すると、一人の少年が将監の前を通り過ぎた。
その姿に、将監は目を奪われる。ランドセルを背負った姿はどう見ても子供で、ただ一瞬見えた横顔に、あの頃の面影を感じた。
将監は思わず立ち上がっていた。夕方の公園がその一瞬だけは静まり返ったように思える。将監の前を通り過ぎようとしていた少年は立ち止まり、振り返った。その眼差しが将監を見る。
「お……」
大殿、と言いそうになって将監は口を閉ざす。その少年が小笠原貞宗のように思えてならなかった。
すると少年は何かに気付いたように声を上げる。
「そち、将監か」
その言い方はあの頃のままだった。子供特有の高い声は耳慣れないが、その人は間違いなく小笠原貞宗であった。
「大殿」
今世でも再び巡り会えたことに胸が打ち震えた。あの頃と変わらぬ貞宗の眼差しに、吸い寄せられるように跪く。自然と両の手を合わせて拝んでいた。
「よさぬか」
小さな手が将監を押して立ち上がらせる。近くで遊んでいた子供たちが不思議そうに将監を見ていた。将監は慌てて膝についた土を払う。すると貞宗は将監の手を引いてベンチへと座らせた。
「あの、本当に大殿……小笠原貞宗殿なのですか」
「ふふ、この姿では信じられまい。そちこそ髪が長いから最初はわからなかったぞ」
貞宗は十歳にもなっていないように見えた。紺色の詰襟と短パンは制服なのだろう。ただ喋り方はあの頃のままで、それが見た目や声に合っておらず可愛らしさを感じる。あの頃の貞宗は四十代ほどであったか。その貞宗が子供の姿でいることに妙なくすぐったさを感じる。今の将監は三十代の半ばで、ちょうど前世で貞宗と出会った頃と同じ年頃だった。貞宗はベンチに置いたランドセルを見て言った。
「儂は見ての通りまだ小学生でな。今世ではそちのほうが早う生まれたようだな。よくあることよ」
「そうなのですか?」
将監は前世で縁のあった者と出会うのはこれが初めてだった。しかしその口ぶりから貞宗は既に何人も出会っているらしい。
すると貞宗が突然に立ち上がった。そのままベンチの裏側へと回って将監の背へと隠れる。
「大殿?」
「ちょうど良い。あれが誰だかわかるか?」
貞宗の見る先に学生服を着た少年がいた。中学生くらいだろうか。こちらへ真っ直ぐ歩いてくる。長めの髪をひとつにまとめているが男の子だろう。近付いてくるとその面差しが見えた。見覚えがある。将監が最後に見た頃より成長しているが、その少年は長寿丸だった。
長寿丸は将監の後ろに隠れる貞宗に向かって言った。
「貞宗殿、帰る時間ですよ」
貞宗は将監の影から顔を出すと、将監のほうを見る。
「こやつが誰かわかるか、時行」
「お知り合いですか?」
「よく見てみい」
長寿丸にじっと見られて将監眉を下げた。さらに先ほど貞宗が呼んだ名前にようやく腑に落ちる。
「あなたが北条の……眩しいわけがようやく理解できましたぞ、長寿丸殿」
その言葉に時行は目を丸くさせた。
「将監、ですか」
時行は驚きながらも、どこか気まずそうにしている。前世でのことを思い出しているからだろう。将監としては恨む気持ちは微塵もなかった。
「ところで、お二人は以前からのお知り合いですか?」
すると貞宗と時行が互い視線を交わした。そこに含まれる空気に重さを感じない。そこには敵対していた頃の棘のようなものがまるでなかった。あの頃は時代のせいとはいえ、命を狙い合う仲だったはずだ。今世では平和な世の中になっているとはいえ、以前と比べて二人の距離が近いように思えた。すると貞宗が言う。
「一緒に住んでおる」
「一緒に?」
将監が驚いて尋ねると、時行が穏やかに答えた。
「施設に、です。そこが私たちの家みたいなもので」
時行の言葉に将監は言葉が出なくなった。二人の生い立ちに安易に立ち入るべきでないと踏みとどまる。それと同時に、今世での貞宗と時行の間には前世での因縁を超えたものがある気がした。
すると急に貞宗がベンチに置いてあったランドセルを手に取って歩き出した。
「帰るぞ時行」
「あ、はい」
先に歩き出した貞宗に、時行もついていく。時行は振り返って将監に会釈した。将監は慌てて立ち上がる。
「待ってください大殿」
「達者でな、将監」
貞宗は振り返らずに言った。このまま別れればもう会えない気がして将監は焦った。
「せめて連絡先を」
すると貞宗が走り出した。それを時行が追う。時行は先を走る貞宗に向かって言った。
「走ったら転びますよ」
「転ぶわけなかろう!」
時行はあっという間に貞宗に追いつくとその手を握った。貞宗は嫌そうにその手を振り解こうとする。
「手を繋ぐでない。一人で歩けるわ!」
「早く帰らないとご飯の時間になっちゃいますよ」
「知っておるか時行。今夜はカレーぞ」
将監は二人を追いかけなかった。二人の会話はやがて聞こえなくなる。夕暮れがあたりを赤く染め、二人の影を長く伸ばしていた。肌寒い風が吹き抜けていく。気づけば周りから子供の声がなくなっていた。将監はただ立ち尽くして二人の背を見ていた。
***
助房はようやく着慣れたスーツでその席についた。先に座って待っていた貞宗に笑顔を向ける。それは前世でそうしていたのと同じ笑顔だった。
「久しぶりです。貞宗殿」
貞宗は今年で小学三年生になった。助房と今世で再会してから四年が経っている。その成長を見てきた助房は見るたびに大きくなっていく貞宗に喜びを感じていた。
「ここへは来るなと言ったであろう」
貞宗の声は暗かった。そう言ったきり貞宗は唇を引き結び、視線を逸らせている。少し離れた場所で指導員が二人の様子を見ていた。貞宗はその指導員に話を聞かれたくないらしく、話すときの声も小さかった。
助房がこの児童養護施設で貞宗を見つけたのは偶々であった。近くを通りかかったときに、その声を聞いたからだ。たとえそれが声変わり前だとしても、助房にはそれが貞宗の声であるとわかった。貞宗もすぐに助房に気付いて、その時は再会を喜んでくれた。そのとき助房は大学生になったばかりで、それでも時間を見つけては貞宗に会いに行っていた。
貞宗の態度が変わったのは、数ヶ月前に助房が貞宗の里親になりたい言い出してからだった。助房としては貞宗もきっと喜んでくれると思っていたのだ。しかし貞宗は話を聞くと急に表情を変えて、もう会いに来るなと言った。理由を聞いても教えてくれない。その時すでに助房は就職先から内定を貰っていた。しかしそれだけでは里親になる条件を満たしておらず、助房は準備をして必ず迎えに来ると言ったが、貞宗は頷いてはくれなかった。それから何度会いにきても貞宗の態度は冷たいままだった。
今日、助房が会いに来たのは就職先での仕事にも慣れたからだ。貞宗と一緒に暮らせるほどの家も準備してある。指導員とも何回も話し合い、仕事時間や住む場所などの里親となる条件を満たしたのだ。
「貞宗殿は何も心配しなくていいんですよ」
しかし何を言っても貞宗は助房を見ようとしなかった。貞宗は窓のほうを見つめている。窓からは庭が見えた。今日は天気が良いからか、子供たちが遊具を使って遊んでいる。
「そち、働き出したのだろう」
貞宗がぽつりと言った。貞宗の言葉が出てきたことに助房は喜ぶ。
「そうですよ。だから──」
「だったら、こんな所に来ていないで自分の人生を楽しく生きよ」
助房の言葉に被せるように貞宗は言った。その言葉は助房を突き放しているように聞こえる。助房は焦りを感じてつい口調がきつくなった。
「ですからこうして貞宗殿を迎えに来たんじゃないですか」
「そち幾つだ。その歳で子供を引き受けては恋人もできんぞ」
助房はかっと頭に血が上った。貞宗がそんなつまらないことを言うとは思わなかったからだ。貞宗は助房を見ないまま、薄い眉を顰めている。不機嫌というよりも、何かを堪えているような表情だった。いくら前世の記憶があると言っても、肉体的な年齢に精神も影響を受ける。子供の癇癪と思って助房は深呼吸をした。
「俺は恋人なんて。それより貞宗殿をこんな所にいつまでも」
助房は言ってから声を抑える。離れた場所でこちらを見ている指導員に聞こえただろうかと思って背筋を正した。
「貞宗殿だって、施設よりは俺と一緒の方が気楽でしょう」
「ここも悪くはない。そちこそ前世の事など忘れて生きればよかろう」
その言葉に助房は酷く傷付いた。昔であれば貞宗は何かあればまず助房を頼ったのだ。助房には貞宗の隣に立つ力量に自負があった。
「なんでそんなこと言うんですか。俺じゃ駄目なんですか」
助房の心の奥底には、果たせなかった責務が根付いていた。前世で助房は最後まで貞宗を守れなかった。その後悔が助房に自分の手で貞宗を救い出さなければならないという執着を植え付けていた。
「そちを思うてのことよ。だからもう来るな」
それだけ言って貞宗は席を立った。そのまま走って部屋を出ていってしまう。指導員が貞宗を呼ぶが、貞宗はそのまま行ってしまった。
指導員が助房のそばに来て少し話をする。この指導員も貞宗と助房が少し前まで仲が良かったことを知っているから、最近の貞宗の態度に首を傾げていた。早めの思春期ですかねえと当たり障りのない会話をいくつか交わして、また会いに来ますと助房は頭を下げた。
すると窓の向こうに貞宗の姿を見つけた。その傍らにいる少年に助房は苦い顔をする。北条時行。彼もこの施設にいることは早々に気付いていたが、驚いたのは貞宗と仲が良いことだった。
楽しげに話す二人を見ていると、助房はまるで自分だけが一人残されたような気がしてきた。昔は違った。貞宗の隣にいるのは自分だった。助房は拳を握りしめる。自分が貞宗にとって何者なのか分からなくなりそうだ。
助房は思わず耳を澄ませる。だが今世では昔ほどの聴力を有していなかった。ただ大勢の子供達の声に紛れて、貞宗の声は聞こえなかった。
***
「じっとしてください」
揺れる足に向かって常興は言った。小学校の保健室。薄らと消毒液などの匂いが漂う部屋の中で、常興は貞宗と向かい合っていた。
「こんなもの唾でもつけておけば治る」
貞宗はベッドに腰掛けていた。その膝には擦り傷がある。校庭にある木から落ちて擦りむいたのだという。
「現代では傷に唾はつけません」
常興の白衣の袖は捲り上げられていた。保健室に嫌々連れてこられた貞宗の傷口を洗い、宥めすかして座らせたところだ。
常興は前世の主君をじっと見つめる。常興にとっては貞宗の子供の姿は随分と懐かしいものだった。ただ前世では貞宗の方が年上であったから、この年頃の貞宗でさえ大きく見えていた。しかし今の常興にとって子供の貞宗は随分と小さく見える。
常興は大きな絆創膏を持ってきて貞宗の足に貼った。ごみを捨ててから貞宗の前に座り直す。
「それで、何かあったんですか」
常興はかけていた銀縁眼鏡を外してレンズを拭いた。視界の端に貞宗のむくれている顔が映る。子供だということもあるが、貞宗は何かあるとすぐ顔に出るからわかりやすかった。
「……また市河が来た」
「ですから私から話そうかと言ったではないですか」
市河が貞宗の里親になりたがっていることは常興も聞いていた。その気持ちも常興は痛いほどわかる。常興もその方法を考えたことがあるからだ。だが貞宗が市河を拒む理由もわかる。市河はあの前世の記憶のままに貞宗に尽くそうとするからだ。しかしそれでは市河は今世でも貞宗に縛られて生きることになる。
貞宗は前世での縁に縛られることを酷く嫌っていた。前世で深い縁があった者たちが、それを理由に貞宗に縛られて、自由に生きることを選択肢から外す。それはもはや呪いだと貞宗は言っていた。同じ運命に囚われていると、同じ末路へと辿り着く。そう信じる貞宗は市河を近づけようとしなかった。少し前に将監にも会ったらしいが、すぐに撒いて帰ったと言っていた。それも同じ理由だろう。
だから常興は貞宗の通う学校の養護教諭としてこの学校へ来ていた。近すぎるから拒まれるのなら、程よい距離にいればいい。少しでも貞宗の側にいたい気持ちは、常興が誰よりも持っていた。
「そちらは喧嘩するであろう。現代では刃傷沙汰は法に触れるのだぞ」
貞宗は説教するように言う。常興は拭き終わった眼鏡をかけた。
「もちろん知っていますよ」
前世であっても斬り合ったことはありませんよと常興は付け足した。むしろ仲裁役だったのだと常興は思う。
「それに現代ではカブトムシは食べないのですよ」
「わかっておるわ。こんな街中におるはずがない」
「じゃあなぜ木に登ったんですか」
「勝負よ勝負。今日は木の上に逃げた」
「また北条時行ですか」
常興は大きなため息をついて頭を抱えた。この学校は小中一貫校で、北条時行は中等部にいる。貞宗も時行も養護施設にいるが、経営母体が同じであるために養護施設の子たちはこの学校に通っていた。
貞宗と時行はなぜか仲が良かった。今でもよく鬼ごっこをしている。まったくよく飽きずに現世でもできるものだと思っていたが、今では貞宗が逃げて時行が追いかける鬼だという。
常興は貞宗と時行の関係に微かな嫉妬心を抱かずにはいられなかった。常興は貞宗の選択を最大限に尊重する。貞宗が現世で時行をそばに置きたいと思うのであれば、それに従うまでだ。それでも時折、どうしても時行の居場所が羨ましく思えて仕方がなかった。
「儂が勝った」
貞宗が誇らしげに言う。常興の口元に柔らかな笑みが浮かんだ。
「それで落ちたんですか」
「落ちても勝ちは勝ちよ」
嬉しそうに言う貞宗はどこにでもいる子供のようだった。むしろそれで良いのだと常興は思う。いくら前世の記憶を持っていようが、今の貞宗はただの子供だ。
だが、前世での縁の絡まり合いを嫌う貞宗が、なぜ時行だけは例外なのかと常興は不思議に思う。しかし常興はそこまで聞くことはしなかった。話したい時がくれば貞宗から話すだろうと思うからだ。付かず離れずの距離を保つ。それが前世からの常興のやり方だった。
すると、保健室の扉がそっと開いた。見れば北条時行が顔をのぞかせている。貞宗は目を見開いて時行を見ていた。その顔が嬉しそうで、常興は唇を噛んだ。
「貞宗殿、大丈夫でした?」
「こんな傷、手当てされるまでもないわ!」
貞宗はベッドから飛び降りると時行のほうへと行く。常興は時計を見た。
「北条君。授業中ではないのかね」
すると時行は嬉しそうに笑みを浮かべる。
「貞宗殿が心配で、授業から逃げてきちゃいました」
「馬鹿者めが。さっさと教室に戻れい!」
貞宗が追い払うように時行に手を振る。時行は渋々教室のほうへ歩いていった。貞宗はそれを見張るように腕を組んで見ている。まるで生活指導の先生のようだった。時行が廊下を曲がると、貞宗も教室に帰る気になったようだ。
「またいつでも来てください」
常興は貞宗を見送って言う。貞宗は「うむ」と小さく頷いた。