白線の後ろにお下がりください 小笠原軍合同演習は本当の戦と見紛うばかりの様相を呈していた。得物こそ真剣ではないが、駆けた馬が土埃を巻き上げ、方々から怒号が響く。
それらの様子を小笠原貞宗は小高い丘から見下ろしていた。すぐそばには赤沢常興が控えている。貞宗はそのよく見える目で隅々まで自軍の兵を見渡した。
「新しい部隊はあれか」
貞宗の視線の先を確かめて、常興は短く返事した。それは最近になって常興が編成し直した部隊で、指揮は新三郎が取っている。
「なかなか良い動きをするではないか」
「お褒めの言葉、部隊の者に伝えておきます」
小笠原軍では戦力不足を補うために、盛んに鍛錬や演習が行われていた。その総指揮を任されているのが常興である。さらにその補助としてもう一人、最近になって小笠原軍に加わった元悪党がいた。
「瘴奸」
貞宗の声に、後ろに控えていた瘴奸が歩み寄る。貞宗はさらに手招きをして近くに寄るように示した。
「そち、あの部隊をどう見る」
「奇襲にも白兵戦にも対応できる良い部隊かと」
「そちの部隊はどこだ」
「先ほどの部隊の後方に。ひとつ陣形を変えて見せましょう」
瘴奸は指で輪を作ると口笛を鳴らした。鳥の鳴き声のような音が響く。すると瘴奸の部隊は大きく形を変えて、新しい部隊と合わさった。その動きは統率が取れており、すぐにでも戦場で使えるほどの熟練度だった。
「よく訓練されておるな」
感心したように貞宗が言う。瘴奸はこの辺りの地図を広げると貞宗に見せて指でいくつかの地点を指し示した。
「このような地形ですと素早く陣形を変えるのが得策かと」
「そちの部隊の弓矢の熟練度はどうだ」
「そちらはもう少しお時間を頂きたく」
すると二人の声を掻き消すほどの熱の入った兵の声が上がった。演習も終盤である。
瘴奸は貞宗に身を寄せた。上背のある瘴奸は少し身を屈めると貞宗の耳元で囁くように言う。
「我が部隊は必ずや大殿の戦に役立ちましょう」
兵の声に掻き消されぬように瘴奸はそうしたのだが、殺気を含んだ視線を感じた。見れば視線の主は常興だった。今すぐに貞宗様から離れろという圧を視線から痛いほど感じる。この副将は貞宗に心酔しているらしく、貞宗に近づきすぎるとこのように視線で制してくるのだった。
瘴奸は常興の視線がまだ己に向いていることを感じながら、さりげなく会話を振って貞宗との距離を詰めた。
「見てください。あちらの部隊ですが」
貞宗に身を寄せると常興からの視線はさらに刺々しくなった。瘴奸はそれを感じながら、そっと貞宗の肩に手を触れた。貞宗本人は普段から距離が近いのでこれくらいは無礼のうちに入らない。
さて常興はどこまで静観しているのかと思っていると、貞宗に触れていた瘴奸の手が掴まれた。常興が絶対零度の視線で瘴奸の手を握り締めている。やはり触れるのはやり過ぎたかと瘴奸は素直に引き下がろうとした。
すると、瘴奸の手を掴む常興の手を、さらに掴む者がいた。
「頭に触んな」
死蝋は額に青筋を立てながら常興の腕を掴んでいる。常興の怒りが瞬時に上がるのが見て取れた。元はと言えば瘴奸が貞宗に触れたのを止めるために瘴奸の手に触れたのであって、好き好んで触れたわけではない。しかしそんなことは死蝋には関係なく、常から悪い人相をさらに凶悪にさせていた。
「儂の後ろで揉めるでない」
ぴしゃりと言い聞かせる貞宗だが、三人はお互いの手を掴んだまま睨みあった。瘴奸が薄暗い笑みで常興を見る。
「手を離していただけませんか、常興殿」
「先にこいつを離させろ」
「頭を離さねぇと離さねぇからな」
唸る犬のように死蝋は常興を威嚇する。常興は鼻頭に皺を寄せると瘴奸を睨んだ。
「躾がなっていないぞ」
「だいたい、大殿はお許しになっているのに常興殿が口を挟むことではないでしょう」
「貴様が臣下の礼を弁えぬからだ!」
「頭も頭ですよ。サダムネサマにくっつき過ぎなんすよ」
「何がいけないんだ?」
「ええい、煩い!演習中ぞ!!」
貞宗の一喝でそれぞれが手を離した。しかし常興はまだ瘴奸に警戒の視線を向けているし、死蝋も常興を睨みつけていた。
「そちのせいで面倒なことになったではないか」
貞宗が呆れたように瘴奸を見る。ところが瘴奸は悪びれる様子がない。後ろで歪み合っている二人を尻目に肩をすくめた。
「嫉妬深い郎党を持つと苦労しますな」
「うちの常興で遊ぶでない」
「悪ふざけが過ぎました。ご容赦を」
頭を下げる瘴奸だったが、その瘴奸を盾にするようにした死蝋が常興に向かって舌を出す。手は相手を侮辱するような形を取っており、完全に常興を煽っていた。
対する常興は拳を握りしめて怒りを露わにしていた。常興はこの手の安い煽りに慣れておらず、堪忍袋の緒は粉砕している。
「常興殿、うちの死蝋がご無礼を」
いつも以上に怒らせてしまったと瘴奸が取りなすが、完全に怒りの限界点を超えた常興は瞠目すると貞宗を抱きしめた。
「貴様ら!二度と貞宗様に近付くな!!」
「常興。落ち着かぬか」
「貴様らはここからこっちへは来るな!!」
言いながら常興は足で地面に線を引く。瘴奸と死蝋は揃ってその線を見た。四人を半分にするように引かれた線は、童の遊びを彷彿とさせる。
「常興」
貞宗は宥めるように常興の背を撫でる。そうしていると激昂していた常興も、徐々に冷静さを取り戻していく。
「おい、お前も謝らないか」
瘴奸は死蝋の頭を掴むと一緒に頭を下げた。形だけでも謝罪してみせる二人に、常興は納得しないまでも怒りをおさめる。
常興は貞宗を庇うようにすると厳しい視線を瘴奸に向けた。
「必要以上に貞宗様に近付くな」
「そっちこそ頭に近づくな〜」
死蝋も瘴奸に抱きつくと常興に中指を立ててみせた。
常興と死蝋は睨み合うが、そこへ割り込んでくる者があった。
「ちょっと!俺の活躍ちゃんと見てた!?」
汗と泥まみれになった新三郎が怒ったように言う。いつの間にか演習は終わっていた。
「見ておったぞ、新三郎。よく頑張っておったな」
貞宗は新三郎の頭を撫でると、新三郎だけ連れて三人を置いていく。
「酒を用意してあるからな、兵にも振る舞うぞ」
にこにこと笑みを浮かべて貞宗が新三郎に言うのを見て、三人が慌ててついていく。
「貞宗様、私も」
「大殿」
「酒!?酒があるのか!」
常興と瘴奸、そして酒に釣られた死蝋が貞宗を追いかけるが、貞宗は振り返ると言った。
「喧嘩ばかりする者に飲ます酒はない!」
ショックを受ける三人を置いて、貞宗と新三郎は和気藹々と宴会に向かった。