夜を買う ガンガディアには金が必要だった。大学の学費を払うためだ。マトリフには有り余る金があった。苦労もせずに相続した金で、それは残りの人生で使いきれないほどだった。
それをお互いに知ったことから、この関係が始まった。
ガンガディアに抱かれながらマトリフは天井を見上げる。身体への快楽を楽しむよりも、金の計算をしていた。ガンガディアが必要としている金額と、これまで渡した額を計算して、今日渡す金額を考える。
金を渡すからセックスの相手をしてくれと提案したのはマトリフだった。本当は金だけを渡してもよかったのだが、ガンガディアは何もせずに金を貰うわけにはいかないと言い張った。雑用でもなんでもすると言われて、じゃあ夜の相手をしろと言った。流石に断ると思ったのだが、ガンガディアは逡巡してからわかったと頷いた。
この関係が続いて二年になる。最初こそ罪の意識を感じたものの、この関係が惰性になってからはそれも感じなくなった。だからといって気持ち良さに身を任せていることもできず、あとどれだけ一緒にいられるのかを計算している。金を渡すときだけはガンガディアとの繋がりを強く感じられた。
お互いに精を出してしまって行為は終わる。気怠さのままに横になっていると、ガンガディアはもう服を着ていた。ガンガディアはいつも終われば早々に身支度を終えて帰っていく。
「……今日の報酬」
引き出しの札束から数枚引き抜いた。それをベッドの上に置く。いつもマトリフは金を自分のそばに置いた。ガンガディアがこちらに手を伸ばす様子が見たかったからだ。
「ありがとう」
ガンガディアは一礼してから金を手に取る。それを丁寧に畳んでポケットへと入れた。
「次は?」
次回の日程を決めてから別れるのが常だった。それ以外には会う理由もない。この行為をする前はもっと純粋に会話を楽しんでいられた。だが金の受け渡しが始まってからは、それすら出来なくなった。
するとガンガディアはマトリフに向き直った。
「これで最後にしたい」
「最後?」
「この関係もこの行為も、これで終わりにしたい」
突然の言葉にマトリフは狼狽えた。それをどうにか抑え込みながら、さっきまでしていた金の計算をする。まだガンガディアが必要としている金には到達していないはずだ。
「金がいるんだろ」
それは札束を握りながら縋るようなみっともなさだった。しかしガンガディアは哀れみも侮蔑もなく、背筋を伸ばしたままマトリフを見つめ返してきた。
「他でアルバイトを見つけた。残りの金はそこで工面する」
「こっちのほうが楽だろ。来年になったらバイトなんてしている余裕はねえぞ」
「努力する。体力には自信があるから大丈夫だ」
これは相談ではないのだとマトリフは気付いた。ガンガディアはおそらく前から考えていたのだろう。
「そうか……がんばれよ」
他に言いようがなかった。これ以上引き止めることはプライドが許さない。せめて最後の格好だけはつけていたかった。
「今までありがとう」
ガンガディアは振り返りもせず出ていった。悲しさは感じない。だがこれまでガンガディアがいることで埋められていた空洞がやけに広く感じられた。
金で相手を買ってしまえば失うものがある。それを理解しながらも、マトリフは金で汚れた手を伸ばした。その報いならば受けねばならない。広いばかりで何もない家の中で、マトリフはこのまま朽ちていこうと決めた。
だがガンガディアはマトリフを嫌って離れていったわけではなかった。金銭と性行為の引き換えを行なっている限り、対等な関係にはなれないと考えたからだ。だからマトリフとのこれまでの関係を終わらせて、新たに友人という関係から始めようとした。
だがガンガディアが学業をおさめて再びマトリフの元を訪れると、そこにマトリフはいなかった。誰も彼の行方を知らないという。
***
付き合いのために夜の街で飲んだ後、ガンガディアは二次会を断って帰ろうとしていた。
ガンガディアは酒が好きではなかった。ガンガディアは最初の一杯だけを殆ど減らさずに店を出た。酒は思考を鈍らせる。そして彼を思い出させた。
ガンガディアとマトリフが関係を持っていたのはもう何年も前になる。当時ガンガディアは金に困っていた。このままでは大学を中退するしかないと思っていたときに、マトリフが金を工面すると言った。しかしガンガディアは何もせずに金を貰うわけにはいかなかった。
じゃあオレを抱けよ、とマトリフは言った。性行為の報酬として金を払うというのだ。
ガンガディアは自分の隠していた欲望が見透かされたのだと思った。ガンガディアはずっとマトリフを欲望の対象として見ていた。ただそれを、絶対にマトリフには悟られまいとしていた。だがマトリフにはわかっていたのだろう。そうでなければ、マトリフがあんな行為を提案するとは思えなかった。
ガンガディアはマトリフを抱いて金を手に入れた。どうしても欲しいものと必要なものを目の前にぶら下げられて、欲望に負けてしまった。
マトリフが何を思ってあんな行為を金で買っていたのかガンガディアにはわからない。マトリフがあの行為を本当に望んでいたとは思えないからだ。
マトリフはガンガディアに抱かれている時、別のことを考えているようだった。いつからかマトリフは行為の前に酒を飲むようになり、最初はそれも少しだったが、回数を重ねると酒の量は増えていった。酒の匂いはマトリフとの行為を思い出させる。だからガンガディアは酒が嫌いだった。自分の罪と、そのせいで失った存在を突きつけられるからだ。
ガンガディアは夜の煌びやかな街に立ち尽くした。ざわめきの中で、どうしても目はマトリフを探してしまう。
マトリフがどうしているかガンガディアは知らない。マトリフは何も言わずに姿を消してしまった。
マトリフとの関係を終わらせると言い出したのはガンガディアのほうだ。しかし、それはマトリフとの関係をやり直したかったからだ。金と性行為を引き換えている関係が正常なわけがない。関係を終わらせることがマトリフのためにも良いと思った。
マトリフがガンガディアに何も言わずに姿を消したのは、ガンガディアが必要のない存在だったからだろう。マトリフは最初こそ酔狂からあの関係を提案したものの、言い出したからには自分から終わらせられなかったのかもしれない。だから何も言わずにいなくなったのだろう。
ガンガディアはいつもマトリフを探していた。人混みでも、すれ違う人の中に彼がいないだろうかと探してしまう。マトリフと会ってもう一度最初からやり直したかった。
そのとき、どこからかマトリフの声が聞こえた気がした。
ガンガディアは慌ててあたりを見渡す。行き交う人々の雑多な声を掻き分けるように、マトリフの声を探した。
「やめろって!」
今度こそ聞こえた声は荒れていた。ガンガディアはその声がした方向へ進む。すると人混みに埋もれていたマトリフの姿を見つけた。胸に喜びが広がったのは一瞬だった。
マトリフは一人ではなかった。体格のいい男がマトリフの前に立っている。剣呑な雰囲気に、行き交う人は二人を避けていく。よく見れば体格のいい男がマトリフの腕を掴んでいた。
「離せって」
マトリフは腕を払った。男の手がマトリフから離れるが、次の瞬間、男がマトリフの顔を殴った。
周りにいた人から小さな悲鳴が上がる。マトリフは呻いて顔を手で押さえていた。ガンガディアは慌ててマトリフと男の間に割り込む。
「やめろ!」
男はガンガディアを見て顔を顰めた。小さく悪態をつくと踵を返す。そのまま去ろうとするのでガンガディアは止めようとした。
「待て! 警察を呼ぶ」
ガンガディアは激昂していた。マトリフを傷付けた男が許せなかった。
「やめろって」
そう言ったのはマトリフだった。見ればマトリフは袖口で鼻を押さえている。鼻血が出ていた。
「これは犯罪だ。あなたに怪我をさせるなんて」
「あいつは金で買った奴なんだ」
その言葉に冷や水を浴びせられた。マトリフはガンガディアを見ようとしない。ふわりと酒の匂いがした。先ほどの男に抱かれているマトリフを想像しそうになって、慌てて考えるのをやめた。
「とにかく手当を」
「要らねえ」
マトリフはそのまま背を向けてしまう。思わずその腕を掴んだ。ポケットからハンカチを探す。
「これで押さえて」
ハンカチを差し出したが、マトリフはそれを見て冷たい笑みを浮かべた。
「よせよ。汚れちまうぜ」
「構わない。家まで送っていく」
「要らねえって言っただろ」
マトリフは血で汚れていないほうの手でガンガディアの胸を押した。
「昔のことは忘れろ」
また流れてきた血をマトリフは袖で乱暴に拭う。その表情は荒んでいて、放っておいていいようには思えなかった。
ガンガディアは掴んでいたマトリフの腕を引く。それだけでマトリフの身体は簡単に傾いた。ガンガディアはマトリフの腕を掴んだまま歩き出した。
「おい!」
「一緒に来てくれ」
「なんでだよ!」
手を上げてタクシーを停める。開いたドアの向こうにマトリフを押し込んだ。ガンガディアは運転手に自宅の住所を告げる。
タクシーは静かに動き出した。マトリフが舌打ちしている。ガンガディアはマトリフの腕を掴んで離さなかった。
***
ガンガディアはマトリフの顔をじっと見つめる。街の明かりに不規則に照らされるマトリフの顔は不機嫌そうだった。マトリフはガンガディアが見ていると気付くと、窓の外へと顔を向けてしまう。
やがてタクシーはガンガディアのアパートの前に着いた。ここまで来たからか、マトリフは大人しくガンガディアの部屋までついてきた。
「座っていてくれ」
マトリフは嫌々という態度を隠しもせずに床に座った。ガンガディアは袋に入れた氷を持って戻ると、マトリフの隣に座る。するとマトリフは手を伸ばしてガンガディアの手から氷の袋を取った。
「自分でする」
マトリフは氷を顔に当てたが、急に痛みを感じたように呻いた。鼻血は止まったが、顔は腫れてきている。
「大丈夫かね」
「殴られたところがクソ痛え」
そう言ってマトリフは目を閉じると長い溜め息をついた。ガンガディアとは話したくないらしい。
「他に怪我は?」
「ねえよ」
会話が途切れて沈黙する。ガンガディアは言葉を探すが見つからなかった。一緒にいたあの男は誰なのかと聞きたい気持ちはあったが、聞くべきではないだろう。
マトリフは目を開くとガンガディアを見た。
「もういい」
マトリフは自分の頰に当てていた氷をガンガディアに押しつけた。そのまま立ち上がろうとするから、ガンガディアはその腕を掴んだ。
「もう少し休んでいたほうがいい」
「平気だ」
マトリフはガンガディアの手を振り払おうとするが、ガンガディアはその手を離さなかった。今ここで離せば、もう二度と会えなくなると思ったからだ。
「あなたに会いたかった」
それを聞いてマトリフは身体を強張らせた。それはガンガディアの紛れもない本心だが、マトリフは顔を歪めて笑った。
「また金が必要になったか?」
マトリフはポケットに手を入れると紙幣を数枚掴んでガンガディアの前に落とした。ガンガディアは頭に血がのぼる。金のために近付いたと思われたことが悔しかった。
「私はただ……あなたに会いたくて」
落とされた金に見向きもせずにガンガディアはマトリフを見つめる。マトリフは嫌そうに顔を逸らした。
「今さらオレに何の用だよ」
「私はあなたとやり直したい」
「そりゃ無理な相談だ」
マトリフはガンガディアの手をゆっくりと引き剥がした。
「金で寝た相手を、今さらまともに見れねえよ」
「じゃああなたは、あなたを殴るような相手のところに行くのか」
それは嫉妬から言っているのだと気付いてガンガディアは唇を噛み締める。マトリフが他の男に身体を開いていることがどうしても受け入れられなかった。
「毎回あんな奴を相手にしてるわけじゃねえよ」
「あんなことはやめてくれ」
「金で男を買うことをか? それをお前が言うのかよ」
「私は……あんなことをすべきではなかったと思う。だからやり直したいんだ。あなたの友人として」
するとマトリフは変なことを聞いたというように驚いた顔をした。
「……友人?」
マトリフは聞き返す。ガンガディアはマトリフの反応に戸惑いながらも頷いた。
「ああ。私はあなたの友人になりたい」
「友人って……いや、お前らしいか」
マトリフは毒気が抜かれたように小さく声を出して笑った。これまで二人を隔てていた壁が急に消えたようだった。
マトリフは初めて負の感情のない笑みを浮かべるとガンガディアの顔を覗き込んだ。人差し指がガンガディアの胸元を突く。その仕草にガンガディアは胸が高鳴った。
「だったら友人のオレと何がしたいんだ?」
マトリフの舌先が薄い唇を舐める。それを目で追ってしまい、ガンガディアは過去の行為が頭を過った。それをどうにか押さえ込む。
「特別に何をというわけでは……ただ以前のように話ができれば」
「話かよ。いいぜ、何でも喋ってやるよ」
マトリフは宣言通りにガンガディアの質問を何でも答えた。これまで何をしてきたか、今はどこに住んでいるのか、今朝見たニュース、空に浮かぶ雲が鱗雲だったこと。取り止めのない会話は深夜まで続いた。マトリフはベッドにもたれるようにして話し続けている。
「……だから量子物理学では複数の確率が重ね合わせの状態にあって」
マトリフは眠そうに目を瞬いていた。説明のために宙に浮いていた手が下がっていく。
「……どこまで話した?」
「眠いならベッドを使うといい」
「……お前とは寝ねえよ」
「私は床でいい。あなたはベッドを使って」
マトリフは本当に眠かったのか、ベッドへと上がった。マトリフは枕へと顔を押し付けている。それが匂いを嗅いでいるのだと気付いてガンガディアは慌てた。まさか臭かっただろうかと思っていると、マトリフは小さく笑う。
「……ガンガディアの匂いがする」
そう言うとマトリフは目を閉じて寝息を立てはじめた。ガンガディアは部屋の明かりを消す。時計の音がやけに大きく聞こえた。