水沫の幸福論 きっかけは本当に、些細なことだった。
その日は天気が良くて、なんだか目覚めも良くて、生徒会の仕事も、ボーカルレッスンもいつも以上に成果が出せた。「やっぱり秀はすごいな」なんていう賞賛も気持ちよく受け取れて、少し、気が大きくなっていたのだと思う。
「百々人先輩は、何を焦ってるんですか?」なんて、妙に踏み込んだ質問をしてしまったのは、そういう要素が積み重なった結果だ。普段なら、そんなことは聞けない。同じアイドルユニットを組むことになったとは言え、秀にとって百々人は、まだどんな過去があって、それゆえにどんな性格なのかをつかみかねている、「謎」多き人だからだ。
言ってから、しまったと思ってももう遅い。ぱちくりと目を瞬く百々人が、次の瞬間には「アマミネくんには関係ないよね」なり、「焦ってるってどういうこと」なり、年下の生意気な言動に気分を害してしまう可能性が高いことに、秀はぎくりと身を強ばらせる。鋭心もトレーナーも帰宅してしまって、二人きりになったレッスンルームがしんと静まり返る。
しかし、予想に反して百々人は怒るでもなく、こんなことを言った。
「…十八までに『特別』にならないと、泡になって消えちゃうんだ」
ぽつりとこぼされたそのつぶやきに、今度は秀がぽかんとする番だった。
秀から見た百々人は、いつも何かに焦っているようだった。歌がうまく歌えない、ダンスのテンポが遅れる、などと、レッスンのたびに、冗談めかして自分を卑下する。そして、秀と鋭心に知られないようにこっそりとひとりで練習を重ねていることを知って、秀はずっと、何をそんなに焦っているのか不思議だった。確かにミスをしていることもあるが、それだけでは説明がつかないほど、立ち止まるのを恐れているように見える。もちろん真面目な心掛けだとは思うのだが、普段のおっとりした百々人とは違い、鬼気迫る様子で成果に執着する一面が、どうにもしっくりこなかった。
秀はたいして百々人のことを知らない。自分や鋭心と同じ生徒会長で、さまざまな賞レースの常連で、プロデューサーのことをやけに慕っている。知っていることと言えば、そのくらいだ。だから、何かうかがい知れない事情があるのだと思ったし、いつか理由を教えてもらえる関係になれればいいなと思っていた。
しかし、明かされた事情が「泡になって消えちゃうから」とは、まったく予想だにしない答えだった。
しっかり数十秒呆けたあと、秀は我に返る。
「あの、すみません…立ち入ったことを聞きました」
要は、真実を(少なくとも今は)話すつもりはないという意思表示なのだろうと納得してそう言った秀に、百々人は「ほんとだよ」と返答する。
「ただのおとぎ話だと思う?」
「……。」
なんと返していいかわからず黙りこくる秀に、百々人はダメ押しのようにこんなことを言った。
「助けてよ、アマミネくん。僕を、特別にして」
*
「十八までに『特別』になりなさい」
それが、百々人に課された使命だった。
それまでに芽が出なければ、何者かにはなれないと言われて、そうなのかと素直に納得した。何者にもなれなければ、存在意義はない。凡百になり果てるようなら、生きる価値はない。そう教えられて育った。
一年、一年と十八歳が近づいてくる。しかし、百々人はずっと『特別』にはなれそうになかった。そしてある日、諦めて手を離されたのだ。まだ十八までは一年あったが、それだけでは時間が足りないと判断されたのだろう。百々人自身も、この一年死に物狂いでがんばっても『特別』になれる気はしなかったから、反論もしなかった。これまでにさんざん見飽きた「入賞」やら「銅賞」、「佳作」という評価が体のまわりにへばりついて、歩みを鈍くさせる。百々人は結局、『特別』にはなれない人間だったのだ。それなら、これ以上歩き続けても無駄だ。ここで立ち止まって、横たわってしまおう。そして、もう目をつむって残りの時間をやりすごすのだ。
そう決めて、今にも立ち止まろうとしたときに、望外の期待をかけられた。だから百々人は、もう少しだけ歩いてみることにした。あと一年で、行けるところまで。
どうして秀にあんな話をしたのか。
十八が期限なことなんて、誰にも言うつもりはなかった。自分勝手だし、それを知られたところで状況がよくなるわけもない。
けれど、秀にある種の焦りを看破されて、そんな焦燥とは無縁な後輩が小憎らしく、意趣返しをしたくなったのは事実だ。「泡になる」なんて荒唐無稽な話はどうせ信じられたりはしないだろうが、せいぜい混乱すればいい。最初から狙っていたわけではなかったが、ぽかんと呆ける表情に、少しだけ溜飲が下がった。八つ当たりであることなど百も承知だが、このくらいの意地悪は許されるだろう。秀は百々人が願ってやまないものをすでに持っているのだから。そんな深層意識があったから、ぽろりと口をついて出てしまったのかもしれなかった。幼稚で、なんにも結実しない無益な行為。こういうところが自分が『特別』ではない所以なのだなと、百々人はひとり自嘲した。
百々人には余裕がない。愛する王子を殺せずに、かわりに泡になってしまった人魚姫みたいに、美しい自己犠牲精神なんて持てない。百々人が人魚姫の立場だったら、間違いなく握りしめたナイフを振り下ろしていた。目の前にチャンスがあるのなら、みすみす見逃したりはしない。そしてひとり陸に取り残されて、使い物にならない喉と、痛む足を引きずって、一生をかけて後悔するのだ。行きつく先がハッピーエンドでないことなど承知のうえで、それでも百々人は、きっとナイフを振り下ろす。
そんなことをつらつらと考えていたからだろうか。その日の夜、百々人は夢を見た。
ぼんやりと自分の実在性を認識すると、そこは重力を感じない不思議な空間だった。上方にゆらゆらと光が反射するのが見えて、海の中のようだなと思った。
声が聞こえてくる。
「もうすぐ時間ね」
それは母に似た声だった。姿はどこにも見えない。
しかし百々人は、それだけで理解した。ああ、期限が来てしまったのだ。自分はじきに十八になる。そして、『特別』にはなれなかった。
ごぽ、と音がしたと思ったら、どこからか水泡が現れた。ふと気になって右手を見てみる。すると、その水泡は手から出ているようだとわかった。このまま水泡が出続けたら、どうなるのだろう。
そう思ったところで目が覚めた。少し身構えながら右手を見てみるも当然ながら異変はなく、変な夢を見たなと肩の力が抜けた。
ただし、それだけでは終わらなかった。
それから数日に一回、百々人は同じような夢を見るようになった。内容はいずれも大差なく、海のような空間で、自分の体から出ているらしい泡を見ていると目が覚める。ただし、泡の出る勢いはどんどん強くなっていて、何回目かで、百々人は右手がいつの間にかなくなっているのに気づいた。泡になって消えてしまったのだろう、となぜか納得し、夢の中では恐れや不安は抱かない。しかし、目覚めは最悪だった。このまま夢が進行すれば、いつか体全部が泡になってしまいそうだ。そうなったとき、無事に目を覚ますことができるだろうか。
あんな意地悪を言ったから、罰が当たってしまったのかもしれない。後悔してももう遅かった。人魚姫と違い、百々人の手には一発逆転を叶えるナイフはない。このまま泡と消えてしまう運命を享受するしかないのだ。不思議とそう確信した。
そんな、誰にも言えない非現実的な不安を抱えていたある日、百々人は秀に呼び止められた。
「ちょっと話したいことがあるんで、時間もらっていいですか」
少し気まずくはあったが、かと言って断る理由もなく、百々人はうなずいた。
あまり人に聞かれたくない話だから、とカラオケボックスに連れられて、それにおとなしく従う。指定された個室に入り、扉を閉めると、すっかり密室が完成した。コの字型に設えられたソファに秀と向かい合う形で座って、百々人は沙汰を待つ罪人のような気分になった。
この間のことを問い詰められるのだろうか。それとも、あんな妙なことを口走る百々人はもう信用できないと切り捨てられるのだろうか。いや、秀は優しいから、悩みがあるなら聞くとでも言うのかもしれない。どのみち、百々人自身のまいた種だ。せめて、混乱させたことは謝ろう。
そんなことを百々人が考えていると、秀はおもむろにバッグからなにやら紙の束を取り出した。それを二人の間にある机に広げると、「まず」と話し出した。
「『特別』の定義から始めます。俺たちはアイドルなんで、明確に順位があるわけじゃない。なので今回は、知名度を目安にします」
と続けるので、百々人は思わず
「ちょっと待って、これ、なんの話?」
と制止してしまった。
秀はむしろ怪訝な顔をして、
「先輩を十八までに『特別』にするにはどうしたらいいかって話ですけど」
と言い切る。そこにからかいの色はなかった。
百々人は呆然とその顔を見て、秀がどうやら、百々人の言った「十八までに『特別』にならないと、泡になって消えちゃうんだ」という言葉を冗談とは受け取っていないことを理解した。
二の句を継げない百々人を見て、秀は言う。
「正直、泡になるとかは信じられませんけど。でも、助けを求められたから、助けます」
「……。」
「最悪、炎上商法でもなんでも使って、先輩を『特別』なアイドルにしてみせますよ」
そう言い切って、秀はにやりと笑った。
「大丈夫です、俺、天才なんで」
その笑顔が憎らしい。百々人には手に入れられない実力と自信に裏打ちされた笑顔。でも今は、それがとてつもなく心強くて、百々人は不意に泣きそうになった。
その夜、夢を見た。
いつもの海の中、百々人の手には、小振りで鋭いナイフがあった。
おわり